第一章『疑惑だらけの転入生』
一、『疑惑だらけの転入生』その1
昔々、誰かが言った。
命短し恋せよ乙女。
暇だったんだろうな、昔は。少女は欠伸を噛み殺しながら机に突っ伏した。肩で切り揃えたばかりの黒い毛先が耳と首元をチクチクと
恋とか、暇じゃなければ出来ない。部活に勉強、あと遊び。空いている時間は、取り敢えず電脳世界にダイビング。スケジュールは先の先までぎっしり埋まっている。もし恋人が出来たら、デートをしなければならない。ゲーセン? 映画? 遊園地? 一日全部潰れるものばかり。とてもではないが、盛っている時間なんて捻出する余裕はない。周りを見渡せば恋人が居る人間も居るが、少数派。時間の使い方がとんでもなく上手い連中か、はたまた未来を投げ捨てている連中だけ。己のようなアベレージには高嶺の花である。
「――放課後だっていうのに、何でまだ机に齧り付いてんの? そんなに学校好き?」
上から降り注ぐ、よく見知った声。机に突っ伏した視界の隙間から、紺色のブレザーとタータンチェックのスカートが覗いた。
「別にそういうんじゃない。残されてるだけ」
「何で?」
「これ」
少女は机から皺だらけの藁半紙を取り出し、声を掛けてきた少女に見せる。それは適当な字で『
「あれ、それって貰ったの四月じゃなかった?」
「うん」
「今、何月?」
「・・・・・・五月、下旬。ほぼ六月」
突っ伏したまま、呻くように少女――東風瑞 来良は言った。
「流石に今の今まで提出してなかったのは拙かったみたいで、先生キレちゃってさ。提出するまで帰れなくなった。これ、監禁で訴えられるかな?」
「いや、素直に書けば? 行く大学をさ」
「やっぱ、それしかないか・・・・・・」
へろへろと起き上がり、来良は応える。見上げた先でショートヘアーの少女が両手を腰に当てていた。
「でもさ
「で、何か考えられた?」
「・・・・・・馬鹿なワタクシめの発想では、ユーチューバーが精一杯でした」
「鼻で笑われるのが関の山だろうね。抵抗は無理」
右手で顔を覆い、璃子と呼ばれた少女は首を横に振った。
「というかさ、そもそもこの進路希望調査表って大学以外の選択肢ないよ。第一希望から第三希望まで大学名を書くようになっているし。専門とか就職は四番の『その他』で、マルだけ付ける仕様」
「気付いてしまいましたか・・・・・・ちなみに、わたしが気付いたのは今日先生に怒られた時だ」
「髪切って少し大人っぽくなったけれど、馬鹿は相変わらずか」
璃子は嘆息すると、皺だらけになった藁半紙を来良からひったくり丁寧に皺を伸ばす。
「でも抵抗したくなる気持ち、分かるよ。これ、進路希望調査っていうより予備校の模擬テストの書式だもんね。大学名の右側に罫線増やせば、まんま合格判定欄だよ。多分、少しでも早慶クラスに生徒送って自校のレベルを上げたいんでしょ」
「三流進学校の悲しい性ですなあ。嗚呼、我々下々に残された抵抗手段は、精々先生よりもレベルの高い大学入って悦に浸る事ぐらいかあ――」
「いや、それは簡単でしょ」
ぼやく来良に対し、呆れた貌で璃子は応えた。
「うちは表向き進学校って威張ってるけどね、
「え、でも古文の
「予備校から引っ張ってきた人でしょ、あの人。例外よ、例外」
この話はこれで終わりと言わんばかりに、璃子は用紙を少女の方へ投げ返す。
「ねぇ、璃子」
「ん?」
用紙を宙空で受け取りながら、来良は口を開く。
「恋ってしたことある?」
「・・・・・・ひょっとしてアンタ、最後の抵抗として『将来の夢、お嫁さん』とか書くつもりじゃあなかろうな?」
「流石にそこまで馬鹿じゃあないよ、わたしも」
心外だと言わんばかりに頬を膨らませ、来良は言った。
「ただね、わたし達は一応花の女子高生な訳でして」
「随分オッサンぽい冠詞ね、〝花の〟って。大正時代だよ、それ」
璃子の言葉を無視し、来良は続ける。
「思春期まっただ中、モラトリアムな期間に恋人の一つでも作りたい訳ですよ。しかし現実はそう甘くない。別に、不純異性交遊が校則で禁じられている訳じゃあないよ。しかし時間が、圧倒的に足りないのだ。我々女子高生には、青春はあまりにも短く儚い。これはあまりにも理不尽だと思う訳ですよ、わたしは」
「コイツ、何か唐突に語り始めた」握りこぶしを掲げながら宣う来良に対し、半眼で璃子は言った。「で、要求は何な訳よ?」
「高校生活を大学と同じ四年制にする」
「留年すればいいじゃない」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
夢のない友人を持つと碌な事がない――来良はげんなりと呟き、空気が抜けた風船のようにしなしなと顔面から崩れ去る。
「つーかさ、遊びたかったら大学で良いじゃん。高校生で遊ぶっていっても、たかが知れてるでしょ。使えるお金だって少ないし、遊べる場所だって免許がないから限られる。高校なんてたった三年間なんだから大人しく待って、大学入学してからパーッとやればいいんだよ」
「こうやって、分不相応な夢を抱いて大学デビューして散っていくんだね・・・・・・」
「ほっとけ、アンタも似たようなもんだろうが」
「うーん、違うんだよね・・・・・・」
前髪を弄りながら、来良は窓越しに校庭を眺める。校庭を二つに分けてサッカー部と野球部が練習に励んでいた。
「ぶっちゃけ、男とかどうでもいい」
「だったら恋したいとか言うな」
「いや、恋愛不要とか硬派とか気取っている訳じゃあないんですがね」つまらなげに応えると、来良は椅子から立ち上がった。「なんていうかさ、最近色々あって急にわたしの周りにある全部が陳腐になっちゃったんだよね。だからここは一つ、恋でもしちゃって青春力的なモノをチャージしたいという次第な訳でして」
「可哀想」
「そうです。可哀想なんですよ、わたしは」
「いや、さ」
嘆息し、璃子は後頭部を掻き毟る。双眼で天井を睨み、僅かに黙考。意を決したように来良を見つめ、口を開いた。
「アンタと付き合う男が可哀想だな、って意味。好きだからって訳じゃなくて、そういう風に回復アイテムみたいな付き合い方されたら堪ったもんじゃないよ。それ、やめた方がいいよ。マジで」
語る璃子の表情は、いつになく真剣だった。いつもなら「また説教ですか」と茶々を入れる来良であったが、僅かに怒りを湛えた貌に気圧されて口籠もる。口籠もりながら、気付いた。
――
だから怒ったのか、悪いことをしたな。己の発言に対し僅かに後悔しながら、来良は思考する。こんな風に怒る程好きになった人、自分には居ないなと。
「アンタに何があったか知らないけれど、自分の都合に人を巻き込んじゃ駄目。分かった?」
「・・・・・・はい」
「まあ・・・・・・それはそうとして」
これ以上語ると小言になると判断し、璃子は唐突に話題を切り替えた。彼女のこういうソツない空気の読み具合、親友ながらいつも感心している。
「あの噂の転校生、アンタのクラスだったよね?
璃子の口にしたその名前を聞いた瞬間、来良はびくりと身体を震わせた。
「うちのクラスでも話題になってるよ。高校で転校生って珍しいし、あの顔だからね。あれで整形してないっていうんだから、神様ってのも意地が悪いよね。というか、どうしたの? メッチャ凄い表情しているんだけど」
「う・・・・・・うん、なんでもない」
逸らそうとした話題が直球だったから、なんて口が裂けても言えない。
「クラスの女子共が、軒並み餓えた雌みたいになっているのを見ちゃっているからね。故に彼の名前を聞いただけで臆してしまう小心なわたしが居りまして」
「お前も女子だろう」
「彼女たちに比べたら、わたしなんてとてもとても。恋する乙女の目ってハートマークで表現されてるけれど、あれって真っ赤な嘘だよね。肉を狙う獣の目だよ、小さい頃ドキュメンタリーで見たやつと一緒。インパラ襲ってるライオン」
「・・・・・・さっきまで恋したいとか妄言吐いていた奴の言葉とは、到底思えないな」
半眼で来良を一瞥し、璃子はがっくりと肩を落とした。
「ま、取り敢えず書いちゃいなよ、大学。どうせ来良なら、家から近いって理由で中央とか行きそうだけどね」
「幾ら何でもそんな理由で進路なんて決めませんよ、わたしも。大学は将来も一気に決まっちゃうから、流石にそこは慎重に選ぶ。臆病なんですよ、わたしは」
「慎重な奴が、ハーバード大学なんて書くか」
「てっぺん目指すなら、やっぱアイビーだぜ」
身を屈め机の上で適当にボールペンを走らせながら、来良はおざなりに答えた。
「そもそもさ、来良は一体何になりたいの?」
「それが分かれば苦労はしないよ。スポーツ選手、アイドル、漫画家とか小さい頃はそれなりにあったけれどさ、この歳でそれを目指せるのは身の程知らずか天才だけ。わたしのような凡才は精々コツコツ勉強して、大学の偏差値を上げて就活に備えるのが関の山さ」
「分かってんじゃん」
「だから反抗してみたくなるんですよ、こうやってね」
にっと笑い、来良は書き終えた進路希望調査表を璃子に見えるよう掲げる。第一希望ハーバード大学、第二希望パリ大学、第三希望ケンブリッジ大学と雑な字で書かれた最下段、その他の項目にマルが付けられ、自分で引いた罫線の上に流麗な文字で『世界征服』と書かれていた。
「間違いなく説教コースじゃん、これ」
「でも、その説教分の時間を先生から奪うことには成功する。謂わば、時間泥棒。気分は怪盗さ。宛ら、この進路希望調査表はその予告状ってね」
「アンタやっぱ馬鹿だわ・・・・・・」
肩を竦め、璃子は笑う来良に言う。
「まあとにかく、それ提出したら帰ろうよ。今日あたしも陸部ないからさ。久しぶりにカラオケでも行ってみる?」
「・・・・・・また、音程外した歌を延々聞かされる羽目になるのか」げんなりした顔で筆箱を学生鞄に放り込むと、来良はそれを肩に掛けた。「アーティストに謝るレベルだよ、アレ」
「うっさい。リズムを掴むの難しいんだよ」
「そういう問題じゃあないと思うよ」
「で、行くの? 行かないの?」
「行ってあげますよ。ヒトカラは虚しいからね」
言ってろと小突く璃子に対し、来良は笑いながら逃げ惑う。
逃げ惑いながら、一つの机がふいに視界に入った。ぴたりと停まり、そのまま電池が切れた人形のように微動だにしない。
教室は静寂に包まれ、傾き始めた夕陽がチリチリと東風瑞 来良の背中を焼く。
「おーい、早くしないと歌う時間減るよ。最近、中高生を対象にした誘拐が流行ってるみたいで警察とかうるさいからさ」
「分かった。行く行く」
痺れを切らした璃子に急かされ、来良は足早に踵を返した。
教室から出る際に、振り返ってその机に視線を向ける。
そこは、件の柄野久 午兎の席。
夕日が差し込み、机が真っ赤に染まる。
染まっているのは、何も机だけではない。柄野久 午兎自身も、きっと真っ赤に染まっている。そうして、手の先から赤い雫がぽたりぽたりと堕ちるのだ。
東風瑞 来良は、知っている。
噂の転校生柄野久 午兎が、殺人鬼である事を。
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