終わった世界に、君と僕。
湊利記
α
プロローグ
星が降り注いだようだと、少年は思った。
夜の街に輝く数々のビル明かりや外灯、そして大小様々な看板のLED照明。それらを雑居ビルの隙間から見上げての感想であった。
繁華街から一歩外れた裏街道。雑踏の喧噪を遠雷のように聞きながら、確たる目的を持って少年は進んでいく。
場末の
目鼻の整った顔立ちに、耳が隠れる細い栗色の髪。厚手の外套を着込んでいても尚分かる華奢な身体は、手折ればすぐに散らされる儚さを孕んでいた。
そんな少年が、何故此所へ。家出かドラッグか、はたまた自分らと同じ商売か。夜鷹達の興味は尽きず、酒とドラッグで酩酊した視線で少年の姿を追いかける。
少年はそんな夜鷹らに無機質な一瞥をくれると、さらに奥へと進んでいく。歩く度、下ろし立ての白いスニーカーに跳ねた汚泥が不細工な染みを幾つも作ったが、特にそれを気にすることはない。無数の飲食店の裏側、放置された生ゴミの山が室外機から出る温風によって悪臭を放っていたが、やはり少年は気にも止めなかった。
興味がない訳ではない。その真逆。それが当然だと考えているから、少年は気にしないのだ。
生物が生息しているから悪臭を放ち、日々の営みがあるから其処此処に排水の混じる汚泥が生まれる。
生きているから、臭うし汚い。不快ではあるが、気にしない。
臭いも汚れもない代わりに、死んでいる世界よりもずっと。
「ああ――――そういう事だったのか」
少年は唐突に独り言ちると、着込んでいた外套の懐に手を入れた。血管の浮き出る骸骨のような手。少年の白く透明な肌と相まって、それは丁度、大鎌を握る死神の手によく似ていた。
否、事実。
「アンタが、こんな場所に逃げ込んだ
少年は、死神だった。
唐突な銃声に、夜鷹達が肩を振るわせ悲鳴を上げる。片手で拳銃を構える少年は金切り声に眉を
淡々と響く規則正しい銃声。銃弾が配管を穿ち、噴き出した悪臭を放つ蒸気が周囲を満たす。気分は霧の街、ロンドン。金貨の代わりに地面へ薬莢を零し、悪臭の霧を掻き分け、少年は路地裏の深淵へと躍り出た。
「こちらに気付いてマンションを引き払ったのは、賢明な判断だ」
霧の途切れ目、膝を突く中年男性に向けて少年は言った。ぴったりと男の額に銃口を突き付け、不相応に凍て付いた双眼で睥睨しながら。
「でも詰めが甘いよ。完全に姿を消すなら、トーチを破棄しなければ意味がない。それとも、未練があったのか? 自分で捨て去った故郷というやつに」
「・・・・・・お願いだ、見逃してくれ」
銃口を見上げながら、掠れた声で男は言った。
「仕事はちゃんとしていただろう? 米も芋も、きちんと規定数を納めている。俺の仕事は完璧だ。くたばった他の連中と違って羽目を外さないし、自分の利益の為に納品分を誤魔化したりもしない。生活だって、慎ましやかだ。なあ、頼むよ。見逃してくれ」
「駄目だね、それは」
懇願する男に対し、少年は首を横へ振る。
「君は重大なペナルティを犯した。見逃せない」
少年の言葉に眼を見開き、男はやがて観念したように
「まだ二ヵ月なんだ」
「もう二ヵ月、だ」
容赦と抑揚のない、少年の声。男は説得は無理だと判断し、深い溜め息を吐いた。
「あっちじゃ、妊娠すらしなかったんだ。それなのに、此所へ来たら直ぐに生まれた。信じられるか? 問題があったのは俺達じゃあなかったんだよ。あの場所、
「だからといって、許可されていない人間を此所へ送り込んで
「終わりたくないんだよ、俺はッ!!」
感情をぶちまけるように、男は叫ぶ。雑居ビルに声が反射し、霧の中へ消えていった。
「お前だって、見ただろう? 此所では人間が普通に暮らして、やがて普通に死んでいく。俺だってな、そうやって生きて死にたいんだよ! 叶わぬ願いだって事は重々承知している。でもな、知ってしまったんだ。こっちに来て、そういう暮らしがあるって事を。だから分不相応にも抱いてしまうんだ、家族で暮らして老いて死ぬという贅沢な幻想を!!」
「馬鹿だな、君は」
男に向けて、少年は言葉を紡ぐ。
「望まなければいいんだよ。受け入れればいい。しょうがないって諦めれば、こんな馬鹿な事をする事もなかったろうに」
「馬鹿な事?」男は少年を見上げ、歯を軋ませる。「自分の子供を残したいっていう事が、馬鹿な事なのか!? 家族で幸せに暮らして老いて死ぬ事が、そんなに馬鹿な事だというのか!?」
「そうだ」
にべもなく、少年は答えた。
「生きるということは、僕らには贅沢だ。君や僕がせっせと食料や資源を運んでいるのも、決して生きる為じゃあない。健やかに、死ぬ為だ。それらが尽きた後の争いを何度も経験してきたアンタなら、分かっているんじゃあないか?」
「笑えない冗談だ」
凍て付いた視線を向ける少年に対し、男は自嘲気味に嗤う。
「お前みたいな〝
それから乾いた眼差しで銃口を眺め、汚泥で黒ずんだ右手を少年に向けて伸ばした。
「妻と息子は?」
「既に始末した。後はアンタだけだ」
「・・・・・・やっぱりな」
掠れた声で応えると、男は伸ばした手で少年の握る銃を掴む。奪う気かと少年は身構えるが、男は少年から銃をもぎ取る事なく
「送ってくれよ、アイツらの居る世界に」
「それは無理だ。僕らが生まれてくる二百年も昔に、宗教は潰えた。よって死後の世界は存在しない」
「馬鹿だな、お前。やはり年相応の子供か」
眉間に銃口を突き付けたまま、男は笑う。屈託のないその笑みに少年は少し戸惑った。その困惑した表情に男は失笑する。
「あるんだよ、天国は。宗教とか関係ない。死んだ後に辿り着く所が人間には必要なんだ。旅路の果てで安らぐ為に。お前も長く生きれば、
「――なら、一生分からないな」
「僕が大人になる時間なんて、世界にはもう残っていないんだから」
言い放つと、少年は銃を血潮で汚れた外套の中へ納めた。ふいに屍と化した男へ視線を向ける。汚泥へその身を沈めた彼の貌は、不自然な程安らかであった。それがとても不明瞭で気味が悪く、少年は逃げるように踵を返した。
いつの間にか霧は晴れ、叫び声を上げていた夜鷹達の姿は何処にもない。単純に逃げたのか、はたまた男を助ける為に警察を呼びに行ったのか。どちらにしても少年にとっては些細な事であったので、気にも止めずに踵を返し表通りへと歩み出す。
人々が行き交う大通り。寄せては還す、人の波。音楽と話し声が混ざり合い、極彩色の喧噪を形作る。遠くから響く、パトカーの赤い音。それらに染まらぬよう、少年は白い外套をはためかせながら進んでいった。
あれ程の汚泥と返り血に染まった外套もスニーカーも、今は下ろし立てのように染み一つ付いていない。消煙の臭いさえ皆無。背後で夜鷹達に促され、警察官が二人路地裏へ入っていく。しかし彼らが少年を犯人だと判別する事は出来ないだろう。それだけ少年の存在は完全に漂白されていた。
横断歩道の手前で、少年は立ち止まる。信号は赤。ふと見上げた夜空には、冬と春の星座がせめぎ合っていた。
「・・・・・・あの星の中には、きっと死んだ星もあるんだろうな」
独り言ちると同時に信号が青に変わり、少年は歩き出す。
何故彼は笑って死んで逝ったのか、考えながら。
自分はどんな風に終わるのか、思いを巡らせながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます