堕ちた女神

 志貴の目が覚めたとき、時刻は午後五時過ぎだった。


 だいぶ寝てから時間が経っていたので、志貴は目覚まし時計が壊れたのかと思い、あわてて窓からの景色を眺めた。

 見れば、すっかり外は暗くなっていた。


 やがて志貴は飲み物を飲むため、リビングダイニングキッチンに向かった。

 リビングダイニングキッチンに入った瞬間、志貴は驚いた。

 気配もなく、リビングのソファに蓮華が座っていたからだ。


「なんだ姉貴か……まったく、驚かせるなよな」


 ホッとため息をつく志貴だが、すぐに蓮華の異変に気づく。

 灰色のTシャツと橙色のスカンツ姿の蓮華は、スマートフォンを握りしめたまま、身体を震わせていた。


「大丈夫かよ、姉貴……おい、どうしたんだよ!」


 仰天した志貴は大声を出し、蓮華の肩を何度も揺さぶった。

 蓮華は震える声で言った。


「羅奈ちゃんが……自分の両親をナイフで襲って逃げたって、今さっき冬華ちゃんから連絡が来た、の」

「羅奈が両親をナイフで襲ったって……?」


 志貴は今朝にした冬華との話を思い出し、あっ、と声を上げた。

 羅奈がスクールバッグにナイフを入れているという話、それは本当だったのだ。

 驚きを隠せず、志貴は頭を抱える。


 さらに蓮華は言った。


「それだけじゃないの。警察官が羅奈ちゃんを事情聴取するため、彼女を探しているって……今さっき冬華ちゃんから聞いた、の」


 志貴は頭が真っ白になる。

 しかし、それもわずかのあいだだった。


 志貴はフラフラとリビングダイニングキッチンから出ると、ゆっくりと靴を履き、それから深呼吸をする。

 それでようやく意識がはっきりし、「羅奈……羅奈!」と大声を上げ、スマートフォンも持たずに家を飛び出した。


「警察官よりも早く、羅奈を探し出してやるんだ、おれは。そんでもって、少しでもあいつのそばにいてやるんだ、おれは……!」


 階段を使って四階から一階まで駆け下りた志貴は、直感を頼りに羅奈を探し始める。

 冬の夜はよく冷え、志貴は寒さを感じたが、なんのこれしき、志貴は夜の町を疾走することで寒さを忘れた。


 志貴は決して立ち止まらない。

 自分が一体どこを走っているのかなんてこと、志貴にはどうでもよかった。

 ただ志貴は羅奈の姿を探すことに専念していた。


 時折、道路を走るパトカーにドキリとしながらも、志貴は羅奈の姿を探し続けた。

 心臓がバクバクと悲鳴を上げても、汗だくになっても、赤信号になっても……志貴は走り続けた。


 やがて志貴は自問自答する。


「細道で泣いていたおれに手を差し伸ばしてくれた女神は、一体誰だった? ――羅奈、あいつだ……あいつだったんだ」


 さらに志貴は自問自答する。


「これまでおれが欺いていた奴は、一体誰だった? ――羅奈、だ。おれは……おれは最低だ!」


 志貴が叫んだとき、志貴は自分の名前を呼ぶ誰かの声に気づいた。

 誰だろう、と志貴は立ち止まるが、まずは呼吸のリズムを整えるほうが先だった。

 乱れに乱れた呼吸を整えているとき、ここが滝灘中学校のそばの閑静な住宅街だということに志貴は気づく。


 と、そのとき、誰かが志貴の肩をポンと叩いた。

 志貴はギョッとして、後ろを振り返る。

 その人物……それは学ラン姿の幻冬だった。

 幻冬の後ろには制服姿の冬華もいて、彼らは志貴と同様に息を切らしていた。


「お前らか、ちょうどよかったぜ。さっきおれ、姉貴から聞いたんだ。羅奈、羅奈が……!」


 事情を説明しようとする志貴を幻冬は制止した。


「ああ、それはすでにおれたちも分かっている。――まったく、両親を襲うのだなんて、どうかしているぞ、あいつは」


 幻冬は涙をにじませながら、そのように羅奈を非難した。

 それを聞いた冬華は「違う、違うんだって」とかぶりを振った。


「あの子、きのう両親から一人称のことについて言われたみたい。

 なんでも、一人称を『ボク』から『わたし』にするよう、両親から脅されたらしくて……あぁ、ウチはなんでもっと早くナイフのことを大人に伝えなかったんだし! ウチは……ウチは――」

「そんなことよりもお前ら、羅奈を探すぞ。ほら、早く!」


 志貴は冬華の言葉を遮り、再び走り出した。

 だがしかし、不意に志貴は立ち止まった。

 羅奈の居場所について、ピンとくるものがあったからだ。


 幻冬は志貴が羅奈を見つけたのかと勘違いしたのか、「いたのか?」と志貴を追い抜き、キョロキョロと辺りを見回した。


 志貴はつぶやく。


「……細道だ」


 志貴はそれだけ言うと、またもや走り出した。


 あのとき、志貴が泣いていた滝灘中学校付近の細道……つまりは羅奈の自宅付近の細道。

 どういうわけか、そこに羅奈はいると志貴は見当をつけたのだ。


「おい、志貴? 志貴!」

「ちょっとちょっと、待ってよね、あんたたちってば」


 幻冬と冬華の声を燃料とし、志貴はこの付近にあると思われる細道を探し始める。


 やがて志貴はあのときの細道にたどり着いた。

 細道の電柱のそば――そこに羅奈はうずくまっていた。

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