卑怯者

 一歩、また一歩と、志貴はフェンス前にいる栗色の制服を着た蓮華に近づく。

 蓮華は志貴が屋上に現れたことに気づくと、その長い髪をかき上げた。


 志貴は立ち止まる。

 蓮華との距離を二メートルほど空けて。


 話の口火を切ったのは蓮華だった。


「来たのね、志貴」

「なんだよ、その言い方。来ちゃいけなかったか?」

「もちろん、そんなことはないわ。あなたはここに来るべき人なの……そう、誰よりもね」

「意味分からねえし。つーか姉貴、愛しの授業は?」


 志貴は嫌みを込めて蓮華に尋ねた。

 だが、そんなことはどうでもいいとばかり、蓮華はかぶりを振り、自分の話を優先させた。


「あなたに重要な話が……あるの。とっても重要な話があるのよ、志貴」

「分からねえな、それ。そんなのはおれたちの家で話せばいいことだろう?

 わざわざ教室を抜け出して、冬の屋上とかいう寒いところで――しかも二人っきりになって――話さなくてもいいだろうに」

「ここなら誰にも聞かれない、誰にも邪魔されないと思ったからよ。……それに家ではこんなこと、話したくなかったから、というのもあるわね」

「なんだよ、姉貴がおれに何を話すっていうんだ」


 わずかのあいだ、蓮華は目を伏せたが、すぐに彼女は視線を志貴に戻した。


「忠告するわ。今すぐにでも、あなたたちは羅奈ちゃんに『ダークレモネード作戦』のことや『青春乙女作戦』のことを打ち明けるの。そして彼女に謝りなさい。ごめんなさい、ってね」


 志貴は拍子抜けした。


「なんだ、そんな話か」

「なんだ、ですって? ……志貴、あなたは分かっていないわね。それがどれほど重要なことなのか、まるで分かっていない!」

「安心しろよ、姉貴。すでにおれたちは……『えっち会』は崩壊した。で、おれと羅奈も仲違いした。

 ってことはつまり、『青春乙女作戦』も終わりを告げたんだ」

「……何が言いたいわけ?」


「『ダークレモネード作戦』や『青春乙女作戦』なんてもんは、知る人ぞ知る作戦なんだよ。そんな作戦があったことなんて、部外者の羅奈には分かりっこない。……そうだよ、そうなんだよ。だから――」


 だから羅奈には何も言わずに、何も謝らなくてもいい。


 志貴は確かにその言葉を口にした。


 だが、志貴は分かっていた。本当は分かっていた。

 その言葉を口にするということの意味を。


「へぇ、そう。そうなのね。志貴は“そういう奴”だったのね。……なるほど、分かったわ。よく分かった」


 そう言って、蓮華は志貴とすれ違うと、屋上から出ようとする。


「お、おい、姉貴……?」


 志貴は蓮華を呼び止めた。

 が、蓮華は一度も後ろを振り返らず、早足で屋上から立ち去ってしまった。


 誰もいない屋上で、静かに志貴はつぶやいた。


「気づいていた……本当は気づいていたんだ」


 羅奈に真実を打ち明けることをしないずるい自分に、彼女に面と向かって謝ることもしない卑怯者の自分に。


 志貴は震える右手で胸を押さえつけ、それから膝から崩れ落ちた。

 そして、このように何度も自分に向かって言った……自分を罵った。


「おれはずるい、卑怯者だ、卑怯者だ……ひ、卑怯、者だ!」


 それからしばらくして、志貴は教室に戻ったが、それはスクールバッグを持って早退するためだった。


 スクールバッグを乱暴につかみ取ると、志貴は堂々と教室を出て、勝手に学校を早退した。


 そのまま志貴は家に帰宅するが、どうも明日香は不在のようで、今東堂家にいるのは志貴一人だけのようだった。


 私服に着替えもせず、志貴は部屋のベッドで横になると、深い眠りについた。

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