3-9

 志貴は玄関先で羅奈と瞬を見送ると、鼻歌を歌いながら、上機嫌で自分の部屋に戻った。

 が、結局はいつもの虚無感に襲われ、つらくなった志貴はベッドで寝ころび、そのまま一時間ほど寝てしまった。


 志貴が起きたとき、時刻は午後七時半を少し過ぎていて、とっくに外は暗くなっていた。


 今のところ、例の虚無感はなく、頭は冴えていた。


 そして今、志貴は誰かと話をしたかった。

 自分の気持ちを……自分の置かれている状況を、少しでも誰かと共有したかった。


 そしたら、ちょうど黒いワンピース姿の蓮華が志貴の部屋に入ってきた。


「きょうはお母様、料理を作らずに何も食べずに寝たいって」

「だろうな。……ん? ってことは、おれたちの夕食はどうなるんだよ」

「ええ、そうね。本当はわたしも嫌なんだけれども……わたしとあなたで外食しないかしら」


 外食。

 どこの飲食店に行くか分からないが、それは志貴が自分のことを打ち明ける場としては、うってつけだった。

 少なくとも、重たい話を自宅で話すよりかは、よっぽどマシ、そう志貴は思った。


「おれ、姉貴と外食したい。そんでおれ、姉貴にマジメな話があるんだ。とってもマジメな話があるんだ。……おれの話、聞いてくれるか?」


 蓮華は目をクワッと見開き、「へえ、いつもはふざけたようなあなたがマジメな話、ですって?」と若干だが驚いていた。


 だが、

「ちょうどいいわ。わたしも志貴と話がしたかったのよ。一緒に行きましょう、外食」

 そう蓮華は言うと、「支度してくるわね。あなたも支度なさい」と志貴の部屋から出て行った。


 とうとう打ち明けるときがきた、そう志貴は心から喜び、心から安堵した。

 そして時間が経てば経つほど、鼓動は高鳴っていく。


 それから十数分後、志貴は学校の制服から白いトップスと黒いスキニーパンツに着替え、支度も済まし、リビングのソファに座っていた蓮華と合流した。


 志貴は蓮華に尋ねた。


「ところで、どこで食べるんだ?」

「近場にね、わたしがたまに行っているカフェがあるのだけど、そこにしましょう。小規模だけど、あそこはおいしい料理を作ってくれるのよ。

 それにあのカフェ……『リューズカフェ』は穴場なのよね。人があまり来ないから、誰かに聞かれたくない話をするのなら、あそこが一番よ」


 そうして二人は東堂家を出た。


 夏の夜は日中ほどに活気はなかったが、それでも熱気はあった。

 だが、不思議と汗はあまり出ない。

 志貴にはそれが不気味に思えた。


 蓮華の言っていた「リューズカフェ」は、「トールハウス滝灘」から徒歩十分ほどの場所にあった。


 志貴と蓮華はカフェのドアを開け、店内に入った。


 席は六席しかなく、蓮華の言うとおり、小規模なカフェだった。

 カフェの客は志貴たちしかいないようで、話し声のしない店内では有線音楽放送がよく聞こえた。

 が、カフェの内装を見た志貴は、思わず「おお」と驚きの声を上げた。


 ダークウッド調の壁紙、アンティークウッド調のフロアタイル……どちらもシックな内装だった。


 濃紺色のエプロンを着た引き締まった顔の男性店員は志貴たちに挨拶すると、「お好きな席へどうぞ」とニコッとほほ笑んだ。


 すると、蓮華は男性店員にこのようなことを尋ねた。


「わたしたち、マジメな話をしながら食事をしようと思うのですけども、もしかしたらうるさくしてしまうのですが、それでもよろしいですか……?」

「少々お待ちください」


 男性店員は厨房内にいるがっしりとした体格の男性シェフの元へ行き、小声でシェフと話してから、再び志貴たちの前に立った。


 どうやら志貴たちのため、店を貸し切りにしてくれるらしく、それを聞いた志貴と蓮華は頭を下げ、何度もお礼を言った。


 志貴と蓮華は窓際にある二人席を選び、そこに座った。

 志貴はサンドイッチを、蓮華はドリアを頼んだ。


 注文を終えた志貴たち。

 だが、志貴たちは無言のまま。


 話があると言い出した志貴から話をするのが筋なのだろうが、いまだに志貴は言い悩んでいた。

 真実を知った蓮華はきっと怒るに違いなく、そんな事態を志貴は恐れていたのだ。


 そんなとき、蓮華が話の口火を切った。


「わたしね、ずっと志貴が憎かったの。……勝手気ままに振る舞う志貴のこと、ずっと憎かった」

「奇遇だな。おれもかんしゃくを起こす姉貴のこと、今でも憎いままだ」

「でしょうね。あなたがわたしを見るときのまなざしは、お父様とお母様を見るときのまなざしと一緒。わたしも……嫌われたものね」


 でもね、と蓮華は志貴に向かって言った。


「それでも、わたしたちは姉弟なのよ。志貴、それでもわたしたちは姉弟なの。

 嬉しいときも悲しいときも、わたしたちはずっとそばにいて、お互いを見てきた。

 だから分かってしまう……少なくとも、わたしはあなたのことが分かってしまう。あなたのつらさ、わたしには分かってしまうの」

「……つまり?」


 先ほどとは別の意味で、志貴は蓮華を恐れていた。

 けれど、蓮華の何に恐れているのか、志貴は自分でもよく分からなかった。

 だが、次に蓮華が言い放った言葉を聞いた志貴は、自分が何を恐れているのか、はっきりと分かった。


 それは優しさ……蓮華の優しさだった。


「志貴、あなたは……何か悪いことに巻きこまれているのではないかしら。今朝のわたしはあのように冷たく言ってしまったけれど、でも、でも……でもね?

 ここ最近、志貴の具合が悪そうなのは、何かあったからなのだと、わたしはにらんでいるわ。……教えて、志貴。何があったの?」


 志貴は息を呑む。


 蓮華の優しさを恐れていた志貴だが、それがどういう優しさなのかを知ったとき、志貴の心はたちまち浄化された。


 瞬く間に、志貴の目には涙が浮かぶ。

 まばたきをしないうちに涙は流れ、まばたきをすれば、さらに新しい涙が流れる。


 そのとき、志貴はある重要なことに気づき、思わずハッとした。


 志貴の目の前にいる人物は、勉強の呪いに囚われた東堂蓮華ではなかった。


 そう、彼女は志貴の姉……志貴の大切な姉だったのだ。

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