信念の一人称
志貴の部屋に入るなり、瞬は「なんですか、このきちんと整理整頓された部屋は……荒っぽい志貴さんの部屋とは思えませんね」と言って、当然のように部屋にあったゴミ箱をのぞきこみ、真剣な顔つきでゴミ箱の匂いを「クンクン」と言ってから嗅ぐ。
「……うん、臭くないです。パーフェクトですよ、志貴さん!」
「苦しみながら死ね」
「とまあ、死んでね」
あうんの呼吸で、志貴と羅奈は瞬の額にデコピンした。
瞬は額を押さえ、「い、痛い……」としばらくのあいだ、うずくまっていた。
瞬がノックアウトしているあいだを狙って、志貴は先ほどから浮かない顔をしている羅奈に言葉をかけた。
「大丈夫だって、羅奈。姉貴とお袋、今は二人とも落ち着いてるからさ。だからな、パッといこうぜ」
「……うん、そうだよね。志貴くんがそう言うのなら、大丈夫だよね」
羅奈はニコッと笑い、それまでの暗い顔つきとは決別したようだった。
少しためらったが、志貴は羅奈の頭をなでた。
「そうそう、そうでなくっちゃな」
そのとき、それまでうずくまっていた瞬が立ち上がった。
「酷いですね、二人とも。このぼくにデコピンをするなんて、なんという大罪。すべてのかわいい女の子が許しても、このぼくが許しませんよ。
それになんですか、そのイチャイチャっぷりは……恋人がいないぼくへの当てつけですか、それ」
「いんや、違うな」
「だね。違うよ」
瞬の被害妄想を否定する志貴と羅奈。
瞬は志貴たちをあざ笑う。
「まあ、いいですよ。きみたちは好きなだけイチャイチャしていてください。
え、ぼく? ぼくはきみたちに恨みを募らせ、やがてきみたちを……ふ、ふふ。
さあて、このゲーム、最後に勝つのは誰でしょうかねぇ」
「少なくとも、お前は早々にゲームから退場するだろうな」
「ボクも同感かな。絶対、きみだけは勝者になれないと思う」
嫌な笑い方をする瞬に、志貴と羅奈は言い返した。
すると、急に瞬は真顔になったかと思えば、こんなことを羅奈に訊いた。
「そういえば、羅奈さんって、一人称が『ボク』なんですね。……ボクッ娘になった理由って、何かあるんですか?」
「あるはあるけど……なんでそんなこと訊くのかな。――ね、志貴くんもそう思うでしょう?」
羅奈は不快そうな顔をすると、志貴に同意を求めた。
が、志貴は瞬と同様に、羅奈がボクッ娘になった経緯を知りたかった。
なので、志貴は手を合わせると、羅奈に頼んだ。
「すまん、羅奈。よければ、おれにも教えてくれないか……? お前がボクッ娘になった理由、おれも知りたいんだ」
「えぇ……?」
羅奈は困惑したように眉をひそめたが、志貴の後押しのためか、ついに彼女は折れた。
羅奈はそっぽを向いたまま、話し始めた。
「『ボク』っていう一人称はさ、なんだか優しそうじゃん。だからね、ボクはそれを使ってるの。うん、それに……」
「……それに?」
志貴は話の続きを促した。
羅奈は口を一文字に結ぶと、一度息をつく。
それから彼女は志貴と瞬のほうに目を向け、言葉を継いだ。
「『わたし』とか『あたし』とか、そういう女性らしい一人称、ボクは大嫌いだから。
女性が使うような一人称を自分で言ったりするの、ボクはすごく不快に感じるんだ。……ボクの両親のせいで、ね」
羅奈の目がキッとなる。
「というと?」
話の続きが気になるのか、瞬は羅奈を急かした。
羅奈は目を伏せるが、すぐに視線を志貴たちに戻した。
「幼い頃から、ボクの一人称は『ボク』……でも、そのときから両親はボクの一人称を『わたし』やら『あたし』やらに変えようと、女性らしい一人称に変えようと、必死だった。
でもね、ボクは両親の言いなりになりたくなかった。だってこの優しそうな一人称、ボクは好きだから、手放したくなかったから。
両親から女性らしい一人称を強制されればされるほど、ボクはそれらの一人称が嫌いになった。
両親も必死だっただろうけど、ボクも必死だった。
結局、ボクは意地でもそれを守り通した。でも、でも……!」
つらそうに自分の両腕を抱きしめる羅奈。
もう話さなくていい、そう志貴が羅奈に言葉をかけるよりも前に、羅奈は堰を切ったように話し出した。
「ボクが自分の信念を守り通した結果、ボクは両親からの愛を失うことになった。
ボクが『ボク』という一人称を使うたび、ボクは両親からビンタを受ける。だから両親がいるところでは、ボクは自分の一人称を使えない。
……不条理だよね、こんなの。少なくとも、ボクはそう思うな」
羅奈は小さくしゃっくりすると、志貴と瞬に向かって弱々しくほほ笑んだ。
羅奈の心からの叫び。
それは志貴の胸を打った。
「なあ、羅奈。お前のどこを好きになったのか、おれは前に言ったけどさ……お前を好きになった理由、それとは別に追加してもいいか?」
「な、何かな」
志貴と羅奈は見つめ合う。
瞬は「おっとぉ? まさかの二度目の告白ですかぁ?」と二人をからかうが、そんなこと、志貴は意に介さなかった。
志貴はまっすぐに羅奈を見すえながら、堂々と言った。
「お前の一人称が好きなだけじゃない……おれ、お前の優しいところも好きだ」
羅奈は息を呑み、それから涙をにじませながら、ほほ笑んだ。
「志貴くん……そっか、そうなんだね。ありがと、志貴くんっ!」
志貴はニッと笑い、「ああ」とうなずいた。
そのとき、二人のイチャイチャっぷりに耐えかねたのか、不意に瞬が「うわあ……うわあ!」と悲鳴を上げた。
志貴は瞬をにらみつけ、「うるさいぞ、瞬」と注意した。
直後、このやり取りのどこがおかしかったのか、羅奈は笑い出した。
それに釣られ、志貴や瞬も笑い出す。
シリアスな雰囲気から脱した志貴たち。
その後、三人は話が弾み、夕暮れ前まで話しこんでいた。
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