現実
志貴は羅奈と瞬を引き連れ、煉瓦色のマンション「トールハウス滝灘」の四階、四〇五号室の前まで来た。
玄関扉を開け、志貴が玄関に入ろうとしたとき、それは聞こえた。
怒声。
悲鳴。
何かが壁にぶつかり、何かが床に落ちる音。
さらに怒声、悲鳴。
誰かが壁を叩いたような音、誰かが床を叩いたような音。
それらはリビングダイニングキッチンのほうから聞こえてきた。
志貴は舌打ちした。
「姉貴の奴、かんしゃくを起こしたな」
そう志貴がつぶやくと、志貴の背後にいた羅奈と瞬がそれぞれ反応した。
「……だ、大丈夫、なの?」
「警察、呼びましょうか?」
志貴はかぶりを振った。
「いつものことだよ。大方、姉貴がかんしゃくを起こして暴れ、お袋がパニックを起こしているだけだ。……警察は呼ぶなよ。もしも呼んだら、誰であろうと許さないからな」
志貴は玄関に入ると、扉を閉め、誰も中に入れないよう、鍵をかけた。
直後、玄関扉の外にいた羅奈が叫んだ。
「志貴くん? 志貴くん!」
「暑いだろうけど、そこでお前らは待ってろよ。事態が収まり次第、扉を開けてやるから、とにかくそこで待ってろ」
志貴は靴を脱ぎ散らかすと、うるさく足音を立てながら、怒声と悲鳴が響くリビングダイニングキッチンに入った。
ソファとテーブルの付近――そこで蓮華は明日香に対し、怒り狂っていた。
「わたしだって、わたしだって……色々と我慢をしてきたのよ。
ねえ、それが何か聞きたい? 聞きたい? なら、マジメに聞いてよ!
――暴君のお父様と戦って、頼りないお母様に怒りを覚えて、くだらない毎日を過ごす志貴にあきれて……それでもわたしは耐えてきた。
でも、もううんざり……こんなうっとうしい家族、わたしは要らない!」
「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」
明日香の弱々しい謝罪。
蓮華は目を剥き、足の裏でテーブルを何度か叩いた。
明日香は悲鳴を上げ、胸の前で手を組み、「ごめんなさい、ごめんなさい……!」と何度も謝罪の言葉を口にした。
一方、志貴は豹変した蓮華とパニックに陥った明日香を見たことで、何も声が出せなくなり、手足を動かすこともできなくなってしまった。
それでも志貴は声を出そうと、手足を動かそうと……自らを鼓舞する。
そのとき、蓮華が志貴のほうに目を向けた。
その目は怒りに満ちていて、ぎらぎらとしていた。
ヒヤリ。
志貴は恐怖に駆られ、思わず後退った。
すると、不意に蓮華は悲しそうな顔になったかと思えば、目に涙をたたえ、リビングダイニングキッチンから出て行った。
「おい、姉貴!」
志貴は我に返ると、蓮華を追いかけた。
蓮華は廊下の壁に寄りかかり、放心しているようだった。
「勉強のやりすぎだよ、姉貴。……大丈夫か?」
そのように志貴が蓮華を案じた瞬間、蓮華は悔しそうに唇を噛み締め、このようなことを言い出した。
「志貴はいいわよね、そんなにアホみたいにのんきでいられて。
……でもね、あなたの理想では、お金を稼げないどころか、まともに暮らすこともできやしないわよ」
それは正論だった。
志貴は何も言い返すことができなかった。
そんな志貴を蓮華はせせら笑ったかと思えば、すぐにマジメな顔になった。
「わたしが勉強をする理由はね、志貴……ちゃんとした高校や大学に入り、将来が約束された男性と結婚して子どもを産んで、誰からも羨むような家庭を持って、こんな最悪な家から一刻も早くおさらばするためよ。
そのためなら、そのためなら……わたしは死ぬ気で努力するわ」
今まで聞いたことがなかった、蓮華の本音……志貴は息を呑んだ。
最後、蓮華はこのような言葉で話を締めくくった。
「いつまでも子どものように友達と遊んでいないで、あなたも早く子どもから大人になりなさい。
なぜって、青春はいつか終わるものなのだから……現実を見て、現実を」
そう言って、蓮華は自分の部屋に戻っていった。
「……ふん」
そのように鼻を鳴らしてから、志貴はリビングダイニングキッチンに戻った。
が、どうやら明日香は自分の部屋に戻ったようで、そこには誰もいなく、蓮華の暴れた痕跡だけが残っていた。
志貴は舌打ちした。
「なんだよ、なんなんだよ。子どもから大人になれ、現実を見ろ、とかさ。大人なんて、大人なんて……クソッ!
おれは大人になんかならねえぞ。おれはおれのまま……子どものままだ。大人になんて、なってたまるか」
志貴は拳を固く握りしめ、それから力強くうなずいた。
「おれが自分の青春を信じる限り、おれの青春はまだ終わらねえ……終わらないんだよ」
その後、志貴は玄関の外で待っていた羅奈と瞬を東堂家に入れ、二人を自分の部屋に案内した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます