3-7

 志貴は羅奈と瞬を引き連れ、煉瓦色のマンション「トールハウス滝灘」の四階、四〇五号室の前まで来た。


 玄関扉を開け、志貴が玄関に入ろうとしたとき、それは聞こえた。


 怒声。

 悲鳴。

 何かが壁にぶつかり、何かが床に落ちる音。


 さらに怒声、悲鳴。

 誰かが壁を叩いたような音、誰かが床を叩いたような音。


 それらはリビングダイニングキッチンのほうから聞こえてきた。


 志貴は舌打ちした。


「姉貴の奴、かんしゃくを起こしたな」


 そう志貴がつぶやくと、志貴の背後にいた羅奈と瞬がそれぞれ反応した。


「……だ、大丈夫、なの?」

「警察、呼びましょうか?」


 志貴はかぶりを振った。


「いつものことだよ。大方、姉貴がかんしゃくを起こして暴れ、お袋がパニックを起こしているだけだ。……警察は呼ぶなよ。もしも呼んだら、誰であろうと許さないからな」


 志貴は玄関に入ると、扉を閉め、誰も中に入れないよう、鍵をかけた。


 直後、玄関扉の外にいた羅奈が叫んだ。


「志貴くん? 志貴くん!」

「暑いだろうけど、そこでお前らは待ってろよ。事態が収まり次第、扉を開けてやるから、とにかくそこで待ってろ」


 志貴は靴を脱ぎ散らかすと、うるさく足音を立てながら、怒声と悲鳴が響くリビングダイニングキッチンに入った。


 ソファとテーブルの付近――そこで蓮華は明日香に対し、怒り狂っていた。


「わたしだって、わたしだって……色々と我慢をしてきたのよ。

 ねえ、それが何か聞きたい? 聞きたい? なら、マジメに聞いてよ! 

 ――暴君のお父様と戦って、頼りないお母様に怒りを覚えて、くだらない毎日を過ごす志貴にあきれて……それでもわたしは耐えてきた。

 でも、もううんざり……こんなうっとうしい家族、わたしは要らない!」

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい」


 明日香の弱々しい謝罪。


 蓮華は目を剥き、足の裏でテーブルを何度か叩いた。


 明日香は悲鳴を上げ、胸の前で手を組み、「ごめんなさい、ごめんなさい……!」と何度も謝罪の言葉を口にした。


 一方、志貴は豹変した蓮華とパニックに陥った明日香を見たことで、何も声が出せなくなり、手足を動かすこともできなくなってしまった。


 それでも志貴は声を出そうと、手足を動かそうと……自らを鼓舞する。


 そのとき、蓮華が志貴のほうに目を向けた。

 その目は怒りに満ちていて、ぎらぎらとしていた。


 ヒヤリ。


 志貴は恐怖に駆られ、思わず後退った。


 すると、不意に蓮華は悲しそうな顔になったかと思えば、目に涙をたたえ、リビングダイニングキッチンから出て行った。


「おい、姉貴!」


 志貴は我に返ると、蓮華を追いかけた。


 蓮華は廊下の壁に寄りかかり、放心しているようだった。


「勉強のやりすぎだよ、姉貴。……大丈夫か?」


 そのように志貴が蓮華を案じた瞬間、蓮華は悔しそうに唇を噛み締め、このようなことを言い出した。


「志貴はいいわよね、そんなにアホみたいにのんきでいられて。

 ……でもね、あなたの理想では、お金を稼げないどころか、まともに暮らすこともできやしないわよ」


 それは正論だった。


 志貴は何も言い返すことができなかった。


 そんな志貴を蓮華はせせら笑ったかと思えば、すぐにマジメな顔になった。


「わたしが勉強をする理由はね、志貴……ちゃんとした高校や大学に入り、将来が約束された男性と結婚して子どもを産んで、誰からも羨むような家庭を持って、こんな最悪な家から一刻も早くおさらばするためよ。

 そのためなら、そのためなら……わたしは死ぬ気で努力するわ」


 今まで聞いたことがなかった、蓮華の本音……志貴は息を呑んだ。


 最後、蓮華はこのような言葉で話を締めくくった。


「いつまでも子どものように友達と遊んでいないで、あなたも早く子どもから大人になりなさい。

 なぜって、青春はいつか終わるものなのだから……現実を見て、現実を」


 そう言って、蓮華は自分の部屋に戻っていった。


「……ふん」


 そのように鼻を鳴らしてから、志貴はリビングダイニングキッチンに戻った。

 が、どうやら明日香は自分の部屋に戻ったようで、そこには誰もいなく、蓮華の暴れた痕跡だけが残っていた。


 志貴は舌打ちした。


「なんだよ、なんなんだよ。子どもから大人になれ、現実を見ろ、とかさ。大人なんて、大人なんて……クソッ!

 おれは大人になんかならねえぞ。おれはおれのまま……子どものままだ。大人になんて、なってたまるか」


 志貴は拳を固く握りしめ、それから力強くうなずいた。


「おれが自分の青春を信じる限り、おれの青春はまだ終わらねえ……終わらないんだよ」


 その後、志貴は玄関の外で待っていた羅奈と瞬を東堂家に入れ、二人を自分の部屋に案内した。

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