第三章 クズ少年に恋人を

異変

 それから月日は経ち、季節は暖かな春から暑くて過ごしにくい夏へと変わった。


 志貴たち四人の関係性はというと、「青春乙女作戦」が実行されてからはぎくしゃくすることが減り、それについていえば、志貴はだいぶ気が楽になった。


 志貴は羅奈たちとともに王鳴館で過ごすことを楽しみ、さらには羅奈と二人きりでデートすることを愛おしく思っていた。


 一方で、志貴は「だけど」と煩悶することがあるのもまた事実。


 自分たちがしていること、それは悪なのではないのか、と。

 羅奈を騙すことに、なんの意味があるのだろう、とか。


 いったん考えると、それはオリとなり、志貴を苦しめる。


 誰かにこの気持ちを伝えたい、いつしかそう志貴は思っていた。


 けれど、志貴の気持ちを誰かが知ったあとの展開――それを志貴は恐れていた。


 志貴たちの現状を知った家族や大人たちは、きっと志貴たちを許さないだろう。


 そのため、志貴は誰にも気持ちを打ち明けられずにいた。


 だからこの夏、志貴は日記を書くことにした。


 スマートフォンの日記アプリで、自分の気持ちを思う存分ぶちまけてみたのだ。


 が、それでも志貴の心は晴れなかった。

 どころか、ここ最近、志貴は虚無感に襲われるようになり、さらには食欲も減退するようになってしまった。


 志貴が虚無感に苛まれるのは、大抵一人でいるとき。

 食欲が特に減退するのは、自宅で朝食や夕食を摂るとき。


 それは間違いなく、自分の感情を日記にぶつけたことでの反動であり、志貴の精神が危うくなっている何よりの証拠だった。


 けれど、それでもなんとか志貴は自分をごまかし続けた。


 そして気がつけば、志貴たちの中学校は残り一週間で夏休みを迎えようとしていた。


 七月十四日の金曜日の朝――時刻は午前七時過ぎ。


 食べきりサイズのヨーグルトを食べ終えた志貴が、ぼんやりと食卓の前の椅子に座っていると、リビングダイニングキッチンにいた蓮華が心配そうに声をかけてきた。


「前は朝食でも大食いだったけれど、きょうもこんな軽食で……まさかあなた、どこか具合でも悪いの? 夕食のときも、そんなに食べていないようだけれど」


 志貴は蓮華のほうを見るなり、目をパチクリとさせた。


 いつもは口うるさい蓮華が志貴を心配する――それは珍しいことだったからだ。


 それがなんだか、志貴には新鮮に感じられた。


 まだ志貴はパジャマ姿のままだったが、すでに彼女は白い半袖のブラウスと栗色のチェック柄のプリーツスカートに着替えていた。


 若干反応が遅れたが、志貴はかぶりを振った。


「おれに限って、そんなことは絶対にないだろうよ。……お袋だって、そう思うだろう?」


 志貴は対面に座るエプロン姿の母、明日香に同意を求めた。


「え? えぇ……まあ」


 明日香はオドオドとした様子で、そう答えた。


 先日、四十歳を迎えたばかりの明日香。

 彼女はやつれた顔をしているばかりではなく、三十代後半の頃から、いつも眉をひそめているように見える顔をしていた。


 そのため、明日香の表情から感情を読み取るのは非情に難しかった。

 それはポーカーフェースのような役割も果たしている、と言ってもいいだろう。


 感情を読み取ることが難しい明日香の表情、さらにはそんな彼女の曖昧な返事。


 志貴の意見に肯定的なのか、それとも否定的なのか、志貴には分かりかねた。


 蓮華は頼りない明日香をにらみつけたあと、志貴に向かって説教じみたことを言った。


「ともかく、最近の志貴は覇気がないわ。それは志貴がちゃんと食事を食べていないから、というのもあるのだと思う。

 もっとこう、シャキッとしなさい。いいわね?」

「ああ、分かったよ。分かりましたよ、っと」


 志貴は椅子から立ち上がると、リビングダイニングキッチンから離れ、洗面台のある部屋まで向かった。


 洗面鏡の前に立った志貴は、気合いを入れるため、両手で頬をピシャリと叩いた。


「しっかりしろ、おれ……気を抜くな、もっとシャキッとしろ。

 家族なんて、クソ食らえだ。そんなおれには……羅奈たちがいる。だからまだ大丈夫、大丈夫なんだ。

 そうだ、そうなんだよ。まだおれには青春がある。おれの青春は、まだ終わってなんかない!」


 このとき、すでに志貴は家族を見限っていた。


 そんな志貴に残されているもの、それは恋人と悪友たちだけなのだと、志貴は信じていた。


 だからこそ、志貴は羅奈たちと遊ぶことをやめなかった。


 今一度、志貴は決意する。


 幻冬と冬華を裏切ることはしない。

 青春乙女の羅奈の笑顔を守る。

 自分にとっての青春を信じる。

「青春乙女作戦」を続ける。


「……よし」


 志貴は鏡に映る自分にコクリとうなずくと、洗面台のある部屋から出た。


 そのとき、志貴は父の洋介が家にいないことに気がついた。


「そういや、親父の奴、どこに……あ」


 唐突に志貴は思い出した。


 洋介は出張のため、きょうの朝早くから家を出ていたということ、家に帰ってくるのは翌日になるということ、それらを志貴はちゃんと思い出した。


「なんだよ、やればできるじゃん、おれ」


 そう志貴は自分を励ますと、部屋に戻り、登校のための身支度を始めた。


 半袖のワイシャツとスラックスに着替えた志貴は、さらにもう一度頬を叩く。


「よし……よし!」


 そう志貴は意気込んでから、スクールバッグを背負い、家を出るのだった。

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