私はそうして朝のルーティンを終え(もちろんコーヒーは忘れなかった)玄関先でしばらく立ち尽くし、何か忘れ物はないだろうかと考えた。


 携帯と財布、家の鍵くらいしか持つ物などないというのに、どこか棲み処を離れることに躊躇いを覚えながらも、ゆっくりと駅へと進んだ。思えば本能的に、ここを進めば後戻りが出来なくなるということを理解していたのかもしれない。どれほど言葉で取り繕うとも、私には下心があった。


 うら若き乙女との逢瀬に、妄想を絡めた様々な期待を抱いていた。恋に焦がれた小学生時代とは訳が違う。それなりに酸いも甘いもを乗り越えてきた青年である私にあるのは、恋などという生易しいものではなく、供給源は宇宙なのではなかろうかと疑うほどの情欲と、うら若き乙女を弄する背徳心……そして小説に捧げるための探求心だった。新たな刺激を欲していた。澄田薫子によって開けられた小さな穴を、もっと大きく、深いものにするために。あるいはそれすらも下心を隠すための言い訳に過ぎないのかもしれないし、その下心すらも何かしらの本質を隠すための言い訳なのかもしれない。


 小説を書くため感情というものに向き合ってしばらくであるが、己の心がもっとも難解で、きっと分かっているだけで他人の心もまた難解なのだろうと、そんなふうに袋小路に追い詰められていく次第であった。


 とにもかくにも約束を守らない男は駄目らしいから、私は待ち合わせ場所に向かわなければならない。誰に聞いた話なのかは言わなくても分かるだろう――あいつは男に対する偏見に満ちていて、この程度の話は序の口なのだ――とはいえ、待ち合わせまで余裕があったから、私は暫くの間、駅前の喫茶店で時間をつぶした。コーヒーと読むものさえあれば、二日は待つ自信がある。かしこい私はちゃんとバッグに文庫本を忍ばせている。


 約束の十一時になる前に、私は都心の駅前に移動していた。プラットホームには改札を目指す人々が黙々と歩き続けている。それぞれの目的地がある筈なのに、皆が改札を経由していくのだから、何だか可笑しくなる。型にはまったように改札を抜けると、エスカレーターを一つ下り、駅の出口辺りで柱にもたれ掛かって待つことにした。携帯を見ると待ち合わせの十分前だった。


 程なくして澄田薫子はやってきた。


 背伸びをしたり、きょろきょろしたりして私を探しているのが目に入った。私の心は俄かに騒めいたが、一方で澄田薫子の愛らしい仕草をつぶさに観察する余裕もあった。やがて二人の視線は交差する。溶けるように表情を綻ばせた彼女の小さなえくぼが、私の眼球から脳を犯していく……。


 ああ、なんていとしい姿なのだ。


 私は胸の奥底から湧き上がる興奮を無視することは出来なかった。澄田薫子は白色のワンピースを着ていた。裾から瑞々しく焼けた四肢が露わになっており、清楚な印象をたたえるとともに、ひそむような淫靡さがあった。貞淑な聖女の破廉恥なシーンを見てしまったかのような、背徳の可憐さがそこには隠れている。それはうら若き乙女が持つ特有の魅力であるように思った。この時期にしか醸すことが出来ない女の魅力を垣間見ているのだと思うと、腰の燻る火種が大炎と化すのも近いのではないかと、己を戒めることに躍起になるほかなかった。


「おまたせしてしまって、ごめんなさい」

 澄田薫子は小さく眉をひそめて言った。私は暫く見惚れていた。


「いま、来たところだった」


 私はようやくそう返すと、彼女ははにかみ「あ」「おはようございます!」またえくぼをみせる。「ああ。おはよう」と改めて挨拶を交わすと、少しぎこちなくも、どちらともなく歩き始めた。


 今日は澄田薫子の買い物に付き合うことになっていた。どうしてそういう約束が取り付けられたのかは定かでない。分かっているのは、私から言い出したことではないということだ。

 なら、彼女から言い出したのだろう。私は健全なる男児のマナーとして彼女の服装を褒めた方がよいのだろうかと、いやいや、それは出会った瞬間に言うものである。既に期は逸した。などとやきもき考えている間に目的地のショッピングモールに辿り着いてしまった。私は何を話しただろうか。


 澄田薫子は親友の誕生日プレゼント選びに付き合ってほしいと言った。


 成人した先輩の男に、それも私のような愚鈍ぐどんそうな奴を選び、親友の誕生日プレゼント選びを付き合ってほしいなどと、迂闊なことをのたまう女子高校生が今どき存在しているのだろうか――もしや、私に好意でもあるのかしらん――などと様々に思考を巡らせたが、何のことはなく、彼女は真剣にプレゼントを選んでいた。もう少し和気あいあいとするものだと思っておったが、いやあ、さながら果たし合いに挑む侍のような目つきで、手触りのよい怪獣のぬいぐるみと睨めっこしている様は、彼女の生来の生真面目さと、その融通の利かない生真面目さからくる不器用さを表しているようだったが、一方でどこか女を演じているようにも見え、そうしたところに猜疑心さいぎしんを抱いてしまう私という男は、何にも知らない阿呆の男よりは不幸せなのかもしれなかった。あるいは幸せなのかもしれない。この時の私には最早自分が幸福なのかどうかも分からなかった。

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