それが間違いだったと気が付いたのは、週末の営業の最中である。


 新任の店長は藤沢ふじさわといった。藤沢が店にやってきてから二週間目の日曜日。最近は週末もそれほど混み合うことなく、穏やかな営業が続いていたが、この日は、最近の遅れを取り戻すかのように忙しない営業となった。


 私はひたすらに調理し続けた。安藤さんをはじめ、ホールには澄田薫子の姿もあった。店内を縦横無尽に駆けまわって、愛想を振りまく澄田薫子の健気な姿に、心打たれた客は多かったろう。キッチンからその様子を伺い知ることは出来なかったが、あとから聞くと、彼女の獅子奮迅の活躍を皆が絶賛していた。それはきっと慰めの意味もあったのだ。


 その日、澄田薫子は悲しい思いをした。仕事に慣れ、ようやく一人前に働けるようになったから、仕事がたのしくなったと話していたらしい。そんな意欲が漲った日、おもむくままに精を出していた日に、彼女は泣いたのだ。


 それは一旦営業が落ち着き、私が休憩に行っていた瞬間に起きた出来事だった。最近は休憩室でも煙草は吸えない世の中であって、私は裏口を出た傍で夜空に向けて紫煙を吐いていた。仕事で疲れたあとの煙草は身に染みる。早く家に帰りたいなあ、などとぼんやり思って、曇天に隠れる月を眺めていたら、ゆっくりと背後の裏口の戸が開き、そこから澄田薫子が現れた。


 ここはスモーカーしかこない場所だから(出勤や退勤時は表口から出入りするように、ハウスルールで定められていた)もちろん、高校生の彼女が煙草を吸いにくるわけはないだろうし、それは隠れて吸っているのだとしても同じ事だ。おおやけには出来ない事なのだから、ここでは吸う事が出来ない。なら何故こんなところに? まさか私に会いに来たのか? などと浮ついた思考を瞬時に巡らせたが、彼女の表情を見てそうでないことは分かった。


 泣いていた。堪えるように鼻を啜って、涙を払おうと必死に瞼を瞬かせていた。私が気付いたように、澄田薫子も私の存在に気が付き、小さく息を呑んだ。


 薄暗い中に佇む私は、さぞかし幽霊然としていただろうと思いつつ、彼女は「ごめんなさい」と言って中に戻ろうとしたから「いや私が戻るよ」と返して煙草の火を消した。


 何故泣いているのか疑問に思ったが、それを聞けるほどの勇気も、聞いたところで正しい答えを返してやる度量もなかった私が唯一出来るのは、邪魔にならないことだけだ。そう思い立ち上がったところで、澄田薫子は「いや、悪いですよ……」と言った。


「もう煙草の火は消してしまった。落ち着くまでゆっくりするといい」


 私は自分の言葉が半ば芝居じみていることに辟易へきえきしながらも、裏口の戸を開けた。少し尾を引く思いだったものの、澄田薫子を残し、休憩室に戻った。戸がゆっくりと閉まっていく隙間から見た、薄暗い中に佇む彼女の後ろ姿は、そのまま闇に溶けて消えてしまいそうなほどの儚さがあった。


 到底たった独りでは生きていけそうもないように思われた。小動物に魅入られるようなそれは、そもそも彼女は実家で親の庇護を受けているのだろうし、まだまだ独りで生きていく必要はないのだが、そんな常識的な観点とは一切関係のないところで、どうにもほうってはおけないような気にさせられた。


 庇護欲といえば聞こえはいいものの、私は彼女のあのおしとやかな微笑みに興奮してしまったことを思いだす。庇護欲の皮をかぶっただけの性的な情欲なのではないのだろうか……下半身にそれらしい反応はなかったものの、どうにも関連付けねばならないように思った。


 私は缶コーヒーを飲みながら休憩していると、澄田薫子が戻ってきた。


 目元は赤らんでいたものの、涙はすべて流してきたらしく、幾分かすっきりした表情をしていた。文字通り垣間見た、危うげな儚さも鳴りを潜めている。今はまだ普段通りとは言えないが、ぎこちなくも、少し照れたようにはにかみ「真田さん、邪魔してしまってごめんなさい」と健気な様子を見せた。


 捻くれた人間性を持つ私は、女の狡猾こうかつさというものを疑っているから、こうした男心を擽るような仕草や行為などは演技なのかしらん、と穿った見方をしてしまうのだが、恐らくは、恐らくは、澄田薫子は基本的に真面目な良い子なのだ。辛いことがあった自分を差し置き、他人を気遣える立派な女性なのだ。私は感心しながら「気にしないでほしい」と優しく答えた。


 休憩室には壁に引っ付けられた長いテーブルがあって、そこにバラバラのメーカーのイスが三つ並んでいる。テーブルの横は書類を仕舞う棚があって、更にその横にはパソコン台がある。パソコン台の前にもイスはあったが、これは基本的に社員が使っていた。別に社員がパソコンで事務作業を行っていない時は使ってもよかったが、暗黙の了解で使わないようになっていた。


 したがって私と澄田薫子は横に並んで座る形となった。基本的に女子高校生は私をはじめとした大人の男……とりわけ接点の少ないキッチンの大人の男には警戒心を抱いており、稀に休憩が被ってしまって、先に私らが長テーブルに座っていた時などは更衣室から出てこなくなる。澄田薫子もきっとそうするのだろうと思ったが、特に気にした様子もなく、自然な流れで私の横に座すのだった。澄田薫子にはそうした天真爛漫な面があった。きっと男がどう思っているかなど気にもしていないのだろう。しかし、ちゃんと気遣いは出来るのだ。迷惑はかけまいとするのだ。皆が彼女のことを気に入るのも当然のことだった。


「なんか恥ずかしいですね」

 澄田薫子は苦笑しながら言った。


「……恥ずかしい、なんてことはないと思うけど」


 狭い休憩室で澄田薫子と二人きりという状況にドギマギしていた私は、いたたまれなくて前方の無機質なコンクリートの壁を眺めていた。正直今は会話する気分でもないだろうと思っていたから少し面を食らった。


「何があったとか、聞いてくれないんですか」


 私がちらりと視線を向けると、上目遣いの彼女と目が合った。


 その言葉の意味は暫く図りかねていた。私が無言でいると澄田薫子はつらつらと話し始めた。後にして思うと、誰でもよかったのだ。本当は同い年の子や良くしてくれる安藤さんに聞いて欲しかったのだろうが、生憎とこの場にはいなかった。表に安藤さんはいるが働いている真っ最中だ。


 話を要約すると、澄田薫子は失敗を犯した。


 運ばなければならない卓とは別の卓に料理を運んでしまったらしかった。それに一早く気が付いたのは長身の爬虫類顔店長だ。彼女がすっかりいつもの通りに仕事をこなし、ホールの従業員が接客以外の作業をするパントリーに戻ってきた時、鬼の形相で店長が待ち構えていた。


 その日は忙しく皆が余裕を無くしていた。


 そんなふうに怒ると誰だって泣いてしまうだろうというような、兎に角配慮のなっていない怒り方だったらしいと、のちに安藤さんに聞いた。店長として注意は必要なのかもしれないが、それはほとんど八つ当たりの域だったようだ。あまりの忙しさに苛々して素が出てしまった感じだった。実際に店長は、この後も度々癇癪のようなものを起こした。当初の人気は何処へやら、澄田薫子の一件から安藤さんの心がまず離れた。もちろん澄田薫子もそうだ。信頼の集める安藤さんと人気を集める澄田薫子に嫌煙されては、それが店全体に広がるのも無理からぬことだった。店長は癇癪かんしゃくもちらしいと瞬時に噂は広がった。


「あたしが間違えたのが悪いんですけど……」


「うん」


「でも、そんな言い方あるのかなって」


「うん」


「一生懸命やっているつもりなのに、別にミスをしたくてしたわけじゃないのに、そういうのが伝わっていないのかなって思うと、なんか、悲しくなっちゃって」


 ことの経緯を説明している内に、どんどん澄田薫子の中に渦巻いていた悲しみが怒りへと変貌していく様子を、私は言葉の節々から感じていた。最後の方になると、何があったかを聞くというよりは、不満を聞いていた。女性は不満を吐いている時が一番女性らしいと思った。


 ああ、女の人なんだなあ、などと思うのだ。

 前提として自分が悪いと愚痴を言う行為を正当化しようとするところとか、同調を誘う話し方とか、感情に訴えかけるような声のトーンの使い方とか……話すのが上手いのだ、女の人は。


 どこかで聞いた話だが、男は空間把握能力に優れているが、女は言葉の流暢性に優れているらしい。そういう脳の構造になっているのだそうだ。きっと同じ内容を私が話しても、今思っているような、澄田薫子の味方になってあげたいという気持ちにさせることはできないだろう。私は女のそうした面をどこか滑稽に思いながらも、まんまと転がされていることに、それに気が付いていることに、一種の愉悦のようなものを得ているようだった。


 あるいはこの時既に私は彼女に魅了され尽くしていて、そんな女性的なテクニックとは関係なく、脊髄反射のように彼女の言葉を肯定してしまっているのかもしれなかった。


 私はほとんど相槌をうっているだけだった。それでいいのかと思ったが、そうする以外の言葉は思い浮かばなかった。ただ、今回ばかりは変に慰めるよりも、聞き役に徹していたのがよかったのかもしれない。


 彼女は「すっきりしました」と言って、店の制服から学校の制服に着替えて帰っていった。時刻は二十一時二十五分だった。


 彼女は高校生だからこれ以上は働けない。そのことを失念していた私は、彼女も休憩なのだと勝手に認識していただけだった。とにもかくにも、かわり映えのしない店の中の小さな事件は終幕した。


 澄田薫子はその頃から様々なことを私に相談してくるようになった。「明日テストなんですけど、勉強した方がいいですか?」「ハリネズミ飼いたいんですけど、飼っていいですか?」「今日のシフトに店長がいるんですけど、どうしたらいいですか?」それはほとんど冗談めいたものだったが、私は澄田薫子との距離が如実に近づいていることを察していた。


 優越感と背徳感が混じりあったような感情が胸の内に広がっていく。女子高校生と仲良くなっているという事実は、私の筆を走らせるのに、あるいは持ち前の劣等感を消し去るのには十分だった。


 しかし、それも一時のものであるのは言うまでもない。

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