⑤
朝は大体八時過ぎた頃に起床する。
飲食店に勤務していると、普通のサラリーマンと違って早起きに悩まされることがなくなる。
店の営業が十一時、開店前作業が十時から開始される。通勤時間も徒歩十分という塩梅であるから、ここ数年は満員電車に悩まされることも、忙しない朝も、無縁の毎日を送り続けている。
金銭面や将来性を除くと、実に優雅な生き方だと言えるかもしれない。穏やかな起床から始まり、
私は布団から抜け出したあと、まずは一杯のコーヒーから始まる。
小説を書く時と同じことだ。私のルーティンに、コーヒーは度々登場する。その内コーヒーをキャラクターとして登場させてやろうと目論んでいるくらいである。今はまだ、コーヒーという様々な可能性を秘めた存在を、私の意のままに操る自信がなく断念しているが、必ずや成し遂げてみせようと、それこそコーヒーに誓っていた――まずは一杯のコーヒーから始まるなどと恰好つけてはみたものの、私の朝はコーヒーで完結する。
カフェインで頭を冴えさせる作業の他、人間としての習性のもと歯を磨き、顔を洗う。仕事で使う制服などは店に置いてあるし、特に用意するものもない。部屋の隅にぽつんとしている洋服箪笥から適当な服を取り出し、着替える。それだけだ。
あとは物思いに耽っていたら、出勤の時間だった。この瞬間はいつも憂鬱だ。したくもないことに一日の多くの時間をとられることに
朝の陽ざしは、目に悪そうだ。
*
おそらくは、読者諸賢はすでにお分かりのことだと思うのだが、結論から言えば、私と澄田薫子は恋仲の関係になるのである。
ただ、平日の夕方に他愛もない話をするばかりの関係だったというのに、一体どういう馴れ初めがあってその結論に至るのか、私の人となりは前述で少しばかり理解されたと思われるが(てめえなんぞに興味はねえ、という方もおられるかもしれなかったが……それならそれで澄田薫子の事ばかりを追いかけていてほしい。それだけで構わない)あるいは、澄田薫子が極めて一般的な女子高生的思考を持つことからも、私たちが交らうことなど終ぞないのだろうと、一種の
店長が変わったのである。
禿げ頭デブ店長から、長身の爬虫類顔店長に。
それは本当に小さな変化だ。広義的な意味合いにおいては、誰が店長の椅子にすわったところで、そう変わるものではない。店が繁盛するかどうかは、大体においては立地がすべてである。
もちろんこんなことをのたまえば、方々から
少なくとも私は、特別な何かを試みようとする店長すら見たことがなかった。彼らはただ家族を食わせるためだけに働いている。希望も向上心もありはしない。機械のように黙々と働き、子を育み、白髪を増やして疲れ果てていく。アルバイトに比べると、老後に残る金はそりゃ多いだろう。しかし何が残るというのだろう。敬虔な修道女の如く、毎日毎日飽きもせずに何を求めているのだろう……私には死を待っているだけのようにしか見えなかった。
しかし、そうした普遍的な仕合せ、妻と子供に囲まれて死ぬといった、ありふれた生活にも希望があるということを知っている。
だからすべてを否定するわけではなかったが、私はそうした仕合せとは無縁の求道者であり、傑作を書く事でこそ、この世に生を受けた意味を見出せる人種だ。大志を抱け。川の流れに逆らうのだ。そう一念発起してから八年になる。そしてアルバイトとして今の店舗に在籍して二年になる。
店長が変わったのは二度目だった。前任者はとにかく温厚だった。特筆すべき能力というと謝ることだったくらいだ。何かしらのクレームを受けた際の尋常ではない謝り方は、さながらヘヴィメタルのヘッドバンキングの如く、横柄な態度だったクレーマーの方が引いてしまうほどのものだった。必殺技は土下座らしい。誇らしげに語っていた彼は、辺境の店舗に飛ばされてしまった。
代わりに新しくやってきた店長は、いわゆる仕事と家庭がすべての四十台ばかりの男だった。この男には僕と同じくらいの年の嫁と三人の女児が家庭にあって、基本的には順風満帆な生活を送っている。
奥さんの若さからくる至らなさだとか、夫婦ともに金遣いが荒いこととか、男児が生まれなかったこととかを鑑みると、その不安定さは垣間見えるが、それが店に持ち込まれるわけでもなく(そうだったら公私混同もいいところだ)仕事に対するやる気も満ち溢れていて、最初は皆いい店長がやってきた、と噂したものだった。若い嫁を捕まえただけあって、身長が高くスマートだったし、妻帯者であるという安心感からアルバイトの女子高校生からも密やかな人気を集めていた。ともあれ私は仕事が出来る人ならそれでよいと考えていたから、そういう点では前任者よりも適格であると思われた。
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