④
夢の中はいつも過去へと遡った。
寝る前は嫌なことばかり思い浮かぶが、寝たら寝たで嫌な夢ばかりみる。
それは今までの私の人生がろくでもないものだったからだ。
今日の夢の私は九歳だ。幼いながら捻くれた性格がみてとれるような、形容しがたい、ふてこい表情を浮かべ、どこか
今日の夢の中の私も、七歳になるおとなしい弟を部屋から引っ張り出してきて「かくれんぼをやろう」と半ば強制的に遊びに付き合わせていた。その頃の私は暇になると家の中でかくれんぼをしていた。
覚えたてのむつかしい言葉を使う事からもその片鱗は見せていたものの、まだ小説に、物語に、文章に、魅了される前の頃だ。
外を駆け回る柄でもなかった(外で遊ぶ友達もいなかった)。鬼ごっこなどの疲れる遊びも嫌だったし、ゲームも一日一時間と定められていたから、やることといえば、かくれんぼくらいしかみつからなかった。
もちろん探そうと思えば色々な遊びがあったのかもしれないが、その時の私は盲目的にかくれんぼを愛していた。
かくれんぼしかない、かくれんぼをするしかない、と今にして思うと呪いでもかけられたかのように、正午から夕方までの時間、かくれんぼばかりをしていた。この日も交代ばんこに隠れ続け、そしてまた、私が隠れる番となった。
常に新しい隠れ場所を探し続ける毎日だったが、そろそろもう出尽くした感がある頃合いだった。実際にこの日以降かくれんぼをすることはなかった。それはそうした「
その日、私は両親の寝室のベッドの下に隠れた。
両親の寝室は、母に許可なく立ち入っては駄目と言われていた。当初は何故駄目なのかを教えてくれなかったが、歳を重ねるにつれ、知識を重ねるにつれ、私も駄目な理由を薄々感じ取っていた。
それは私が両親の寝室のベッドに隠れたからだし、かくれんぼなんかしていたからだ。その日の出来事は、恐らく私の創作の原点となっている。私が十六歳の頃、母は家を出ていった。答えを態度で示したのだ。
ベッドの下は膜を張ったように埃が溜まっている。
鼻がむずむずした筈だが、子供の私はまったく気にしなかった。鼻水でも詰まっていたのだろうか……兎に角その時の記憶は、ほとんど聴覚によるもので、視覚は薄暗い部屋の中でベッドの背面を見ていたのだから言わずもがなであるが、嗅覚も前述の通りなのかどうなのか機能はしていなくて、触覚もフローリングの冷たさだけを薄らと覚えているだけだった(この場合、味覚は必要ない。まさか埃を食えとは誰も言わないだろう)。
私は息をひそめ、弟が探しにくるのを待った。
子供の私は気がついてはいなかったが、かくれんぼは見つかるか見つからないかのスリリングを愉しむ遊びであって、巧妙に、完璧に隠れることが出来たら、そりゃあ自分の発想の柔軟さを誉めそやしてやりたい気分になって高揚するだろうが、その実、まったく見つかる様子がないとなると段々つまらなくなる。
冷めてくる。こんなところに挟まっていったい自分は何をしているのだろうと、深層心理で思ってしまうのだ。
それは子供でも同じだ。その時も全然見つけて貰えなくて、私はもう自分から出ていこうかな、などと考え始めていた。
後になって聞いたが、弟はもう既にかくれんぼをやめてテレビを見ていた。隠れている私はもちろんそんなことは知らないから、
そんな訳はなく、私は待ち続け、ついに部屋のドアが開く、軋む音が聞こえた。廊下から流れ込んでくる光が部屋にこもっていた陰鬱な影を塗りつぶし、私の足元まで広がってきたが、そこからすぅと何かをあきらめたかのようにその手を引っ込めていった。ドアが閉まったのだ。
床を擦るような足音が聞こえる。弟が来た。頭蓋骨から足の指先の筋線維まで動かさないぞという気概を持ち構えていた。
私がおかしいな、と思ったのは、弟は電気をつけなかったからだ。
あえて薄暗い部屋の中を探すといった、かくれんぼに対する何かしらのリスペクトがあるのだったら別だが、基本的に探し物をするなら灯りはつける。
もう一つおかしいと感じたのは、部屋に這入ってきた足音は三、四歩分くらい床を鳴らしただけだった。
私を探すのなら部屋中を歩き回らなければならない。そんな全体が見えるところから眺めただけで見つかるような場所には、かくれんぼ上級者である私は存在しない。弟だってそれを考えるだけの思考力はなくとも、同じだけかくれんぼをしてきたのだから、何となく分かっているはずだった。
私が疑問符を頭上に浮かべると同時に、ぴちゃぴちゃと、水音のようなものが部屋の中に響き始めた。
何の音なのか分からずに困惑していると、ドサッ、という音とともに、ベッドが激しく揺れた。
目の前の背面が軋んでいる。私は心底驚いて声を出してしまいそうになったが口元を手で覆って何とか堪えた。
弟がベッドの上に乗ったと思いつつも謎の水音は絶え間なく響き、続くように荒い息遣いが聞こえはじめ、そしてそれが何やら二人分あるような気がした。ぴちゃぴちゃという水音、ベッドが軋む音、布が擦り切れる音、そして二人分の荒い息。「いいわ……」と短く言った母の声。
私は気が付いた。弟ではなく母だ。お母さんが部屋に這入ってきたのだ。
とはいえ母は父の会社の後輩だとかいう人とリビングで話し込んでいたはずだ。何故その時、父の会社の後輩とやらが、昼間から我が家を出入りしていたのか、当時は興味がなかったから気にもしなかったが、今にして思うと、それは兎に角不自然な光景だった。
奇妙ですらある。母は私と弟に、その父の会社の後輩が来たことは、父に言っては駄目、と念入りに言い聞かせた。母は怖い人だった。ヒステリックな人だった。私たちは出来るだけ母の機嫌を損ねないようにしていた。
そこで何が行われたのか、幼い私には分からなかった。
終始耳を知らない音が支配していた。母の声が聞こえたのを皮切りに、囁くような男の声も聞こえた。大人の男の声だった。きっと父の会社の後輩だということは分かった。あれだけ私たちに入るなと言っていた、夫婦の不可侵的な寝室に、何故その父の会社の後輩とやらとともに這入ってきたのか。
恐らく二人はベッドに寝転がっている。大きくなっていく軋む音、荒い息遣い……
母は父ではない男とセックスしていた。
ひたすらセックスの音を聞かされ続けた幼い私は、もちろん理解は出来ないものの、おかしなことが起きている、ということだけは認識していて、ふとした拍子に、ベッドの縁から落ちてきた母の下着をそっと手に取り、
あるいは
私はその行為が滞りなく終わるまで、じっとしていた。
二人が夫婦の寝室から出ていく音が聞こえてくると、恐る恐るベッドの下から部屋を見渡し、確かにいない事を確認すると、音を出さないように這い出た。部屋のドアに耳をあてて外の音を聞き、とにかく慎重に、部屋をあとにした。
私はこの日の出来事を今だに夢に見る。
それは全貌が解明されたあとも、母が出ていったあとも変わらない。程なく本の虫として蛹から
私は真っ先に性知識について詳しく書かれた、保健体育の本を読み漁った。そうして明らかにしていくと、次に湧いてきたのは、何故母と父の会社の後輩は、そういう関係にあったのか。
或いは、何故そういう関係になってしまったのか。
父という夫が居るにもかかわらず、欲望に身を委ねた母は、何を思っていたのか……その答えを知るために小説を読み始めた。それがすべての入口だった。この日の出来事は、私の内面にある不定形で、不明瞭な、真っ白の幼心に、決定的な何かをもたらした。
それはキャンパスの上に水を含まず絵具だけで塗りたくっているような、一種の暴力めいたものだ。
何色なのかは定かではなかった。安直な一般論で例えるのなら、桃色なのかもしれない。ただしそれは正しい関係の延長線上にある行為に対するものであって、この母と父の会社の後輩の関係の延長線上にある行為に対するものではないと思った。紫? 青? 黒? そんな陰鬱としたイメージが浮かんでくるのは、うしろめたさ、という言葉から影を連想するからなのかもしれないが、或いは、理解が及んでいないものとして、広大な海や空(この場合は夜だろうか)を連想する場合もあるのかもしれない。
私はたまに、そうして二人の関係性について思考を巡らせるものだが、陰鬱な色というのは一貫していても、その時々によって微妙な違いがあって、それには恐らく、その時々の私の気分や価値観によって変質しているのだということは解る。
しかし、当時の私がどういう人格だったのかを思い起こしてみても(だいたいは茫洋としていた)それを色の変化と結びつけるには、どんな因果関係があるのかは掴めなかった。
だから私は、小説を書き始めてしまったのかもしれない。
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