③
澄田薫子が来てからというもの、最近滞り気味だった執筆作業が、水を得た魚のように進みだしていた。アイデアやインスピレーションが滝のような勢いで溢れ、頭の中で泳いでいる言葉の数々が、適切な時に水面から顔をだして「俺を使え」と訴えてくる具合で、あるべきところにおさまるように文章を紡ぐことができた。
五畳ほどの狭い部屋。畳の上にあぐらを掻き、窓辺のローテーブルの上に置かれたパソコンに、スタンドライトを浴びせ、時に窓の外の空を眺めながら、その空を横切っていく烏の自由なさまに
パソコンの横には必ずコーヒーが置かれていた(季節によってホットかアイスか変わる)。
コーヒーは眠気を抑えるためのものであり、水分をとるためのものでもある。そして、誰かが言っていたのだ。閃きは、黒々としたコーヒーの中から飛び出してくるものだと。
特にその言った人が好きだったとか(名前も覚えていないくらいだ)何かしらの信憑性があるとか、そういうわけではなかったが、何となくそのフレーズが気にいって以来、実際に閃きが湧いてくるとは思っていなかったが、その何となく気にいったという感性を大事にするため、また戒めるためにコーヒーを
今日は窓を叩くような、強い雨が降っていた。
私が閃きの源であると確信している空や太陽、鳥たちは見えなかったが、その代わりに雨音が心地よい音色をたてている。
外を歩く時に雨が降ろうものなら悪態をついた挙句、天に唾を吐きかけるくらいに苛立つものだが、こと部屋の中にいる時に雨が降るのは、むしろ天然のBGMがやってきたと、かえしたてのひらとともに両手を広げ歓迎する始末だった。都合の良い考え方である。
私はそうした自分に都合の良いふうに振舞うことが悪い事だとは思っていなかった。生憎神も悪魔も信じてはいなかったし、嫌なものは嫌。良い時は良いのだと思うことのどこに、悪い事があろうや。もちろん議論しだせば私が言い負かされるのは分かっているから、誰にも言わないが。
そういうスタンスだから、人を遠ざけるのだ、恐らくは。
私はコーヒーを飲もうとして、もう空であることに気が付いた。舌打ちをして、緩慢な動きで立ち上がった。一人暮らし用の小さな冷蔵庫のとびらを開けると、缶ビールが一ケース分と900mlのアイスコーヒーが三本、牛乳、卵、魚肉ソーセージ、醤油くらいしか入っていなかった。
アイスコーヒーを手に取ると、冷蔵庫の隣に並んでいる棚から、青色のコップを取り出して、そこにアイスコーヒーを並々そそいだ。パソコンの前まで戻ると、またコーヒーを飲みながら執筆作業を進めた。
時刻は夜の二十時だった。今日は一日休みの日だった。昨日は仕事から帰ると、コンビニの唐揚げ弁当を食べ、風呂に入ってから、朝の四時ごろまで小説を書いていた。太陽が顔をだすと同時に眠りにつき、正午をすぎたくらいで目を覚ました。それからずっと、また書いていた。
休みの日は大体部屋にこもってそんなふうに過ごした。
健全ではないとは思いつつも、私を使命感のようなものが支配していて、書く以外のことをしている時間が無駄であるように思えた。
書かなければ、と追い立てられるような焦燥感に駆られた。
上手く書けないからというのもあるだろうし、あるいはフリーターという世間一般的に最下層に位置する立場であるがゆえというのもあるのだろうし……そうしたものがなくとも、物書きというのは、毎秒湧いてくる言葉の数々を取りこぼさないために、どうしても急いてしまう。
人生が短いというのは、本の虫としてもよく知っていて、生きている間に傑作を生みださねばならないことを考えると、時間は幾らあっても足りなかった。働いている場合ではないのだ、本当は。ただ、生きるには働く必要がある。働かざるもの食うべからず。働かないものに、世界は生きる資格を与えない。だから、私は小説を売る必要があった。それがまた、焦燥を助長させてしまうのだ。
明日は仕事だった。
調子が良くて朝まで書いていたい気分だったが、そろそろ眠らなければならない、と思ったのは夜中の一時くらいだった。パソコンの電源を落として、風呂に入った。めんどうくさいから風呂に湯をためることはあまりなかった。
さっとシャワーを浴びて歯磨きをした。布団を敷き、電気を消した。真っ暗な部屋の中、ぼうっと空中を眺めていると、いやな事ばかりが思い浮かぶ。
寝るときはただ寝るということだけに集中した。
眠る眠る眠る眠る。寝る寝る寝る寝る。お経のように心の中で唱えながら、いつも、気が付くと夢の中に落ちていった。
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