ぺこりが記憶の奥底に沈んていく頃には、澄田薫子も幾つかの業務は手慣れた様子で熟しつつ、また新しいことを覚えるのもそれ程苦にはならなくなっていて、やはりその愛嬌の良さから昼間働くパートの奥さんたちから可愛がられ、夕方頃からやってくる学生バイトたちにはちやほやされていた。私はそれを遠巻きにながめながら、黙々と作業を熟しているだけだった。


 まあ、そんなわけだから、彼女は早々に店に馴染んでいた。


 そもそもフレッシュな高校生は皆から歓迎されるのに、愛想がいいうえに作業の要領もよく、教えられたことはすぐに飲み込むし、人の作業を盗み見て自発的に行動する、昨今の若い世代にはあまり見られないような器量のよさも見せつけ、もう敵はいないと、一瞬で皆の心を掴んだのだ。


「いい新人が入ってくれたなあ」


 と、ホールのチーフ(接客スタッフの時間帯責任者)がしみじみ言った。


 ホールのチーフは安藤あんどうさんと言って、この道二十年弱のつわもので、会社の趨勢すうせいとともに歩んできた百戦錬磨のおばさんだった。


 二十年弱も働いているうえに、そろそろ更年期に差し掛かっているから、新人には辛辣な酷評を浴びせかけることで有名だったが、澄田薫子のことは、ことさら大げさにほめそやしていた。「なんて可愛い子なの!」「なんて仕事が出来る子なの!」「なんて面白い子なの!」なんて、なんて、なんて、と誰かがもう何でもいいんじゃん、って言ったくらいになんもかんもに褒め言葉を返すほどの溺愛ぶりで、きっと今までに新人に対していい思い出がないのだろう。


 新人が仕事でミスをしても、あるいは電話一本寄越さずに来なくなっても、いつも割りを食うのは、しわ寄せがくるのは、ベテランたちなのだ。


 私もそうだし、安藤さんもそうだった。その反動みたいなものがあったから、確かに器量のいい澄田薫子が輝いてみえたのかもしれない。安藤さんに好かれるということは、猿山の長に気に入られるのと同じことで、ただそれだけで澄田薫子の店の中での立ち位置は確保されていたのだった。


 澄田薫子は安藤さんだけじゃなく、皆に積極的に話しかけていた。


 彼女はいわゆるパーソナルスペースが小さい女の子で、会話の距離感が近かった。基本的には男性の方が広く、女性の方が短いといわれるものだ。澄田薫子はとりわけ女性が相手だと目と鼻の先までやってきてから会話をはじめる。傍からみていると、それは言葉の通り懐に潜り込んでいるみたいだった。


 きっと皆がこれにやられたのだろう。


 かくいう私も恐らくそうだった。自己紹介から三週間の時を経て、私と澄田薫子は二度目の会話をした。


 月曜日の夕方十七時頃の出来事だ。飲食店は土日の営業が忙しいかわりに、月曜日の営業が暇になる。一週間が(仕事が)始まった日に外食しようとするものが少ないからで、特にランチタイムが遠ざかった、ディナータイムには些か早いという時分はぱたりと人が来なくなる。従業員同士でコミュニケーションをとるには、絶好のタイミングというわけである。


 その時私はキッチンで明日使う肉やらの解凍作業にあたっていて、澄田薫子はホールでやる事もなく、目についた場所にアルコールを噴出させ、布巾で拭いていた。店には私と澄田薫子、あとは裏の休憩室で休憩している安藤さんがいるだけだった。


 とはいえ、澄田薫子は入ってからまだ三週間だ。


 ホールに一人というのは心もとなく、彼女もそれは理解していて、どこか浮足立ったような、視線を泳がせながらそわそわしていた。どうにもいたたまれないような感じで、澄田薫子は私に話しかけてきた。


 目と鼻の先とまでは言わないまでも、ほとんど話したことがない年上の異性に対しての距離感ではないのは確かだった。軽く手をあげるともう当たってしまいそうなくらいだ。


真田さなださん」

 キッチンの方に入ってきて、澄田薫子は囁くように言った。


 私はまさか話しかけられるとは思っていなかったから動揺した。とはいえキッチンには私以外の姿はなく、流石にわざわざ独り言をいうために馴染みのないキッチンに入ってくることはないだろうから、恐らくは私に話しかけているのだろうと理解したところで、およそ二十秒は経っていた気がした。


「この時間ってえ、ホールは何をすればいいんですか」


 と、そんな私をよそに澄田薫子は話し続けている。


 すこし舌ったらずだが、透き通るような声だった。彼女の声は度々キッチンにも聞こえてくる。「いらっしゃいませ!」「ありがとうございます!」と誰よりも大きな声で接客をしているからだ。


「やることがないんです。いつもみんな何してるんですか」


「……どう、だったかなあ」


 私は頭を掻きながら、しどろもどろにそう言った。澄田薫子を近くで見ると、口を開くたびにうっすらと浮き上がるえくぼがあった。


 私はそのえくぼを眺めていると妙な既視感におそわれた。何だろうと記憶を掘り返すと、初恋の人の顔が思い浮かんだ。あの子も確かえくぼが印象的だった。そんなことを思いながら、私は澄田薫子を連れて何か仕事はないか店の中を歩いた。客は誰もいなかった。


 一通り探したけど、特に何か思い当たる事もなく、気が付けば安藤さんの休憩が終わっていた。元気よく帰ってくる安藤さんの下に澄田薫子は駆けていった。


 ほんの五分ほどの間、確かに何かを話していた筈だが、記憶には残っていなかった。高校生の女子が自分に話しかけてくることなんてまったくなかったから、その事実だけを認識してしまって、中身に意識が移らなかった。


 二度目の会話から二日後には、三度目の会話があった。


 その日もまた同じ時間に、同じ内容の質問をしてきた。平日の夕方はやはり暇だ。しかし月曜日よりは水曜日の方が客足多いのも確かで、例に漏れず今日は二組だけテーブルが埋まっていた。私が調理し、それを澄田薫子が持っていく。その流れ作業を二回繰り返したあと「やることないですか」と、月曜日とは違って、何故か、少しだけ笑みを浮かべながら彼女は言った。


「……うーん、やることね」

 私はまた、濁すように答えた。


 きっと、澄田薫子は私がそう答える事を知っていたのだ。


 予想通りの返事が面白かったらしく、澄田薫子はくすくす笑いながら、口元を柔らかく握った手で隠して目を細める。


 えくぼが見えなくなったことに落胆しながらも、その一連の動作に、ただおしとやかに笑っただけの動作に……僕は興奮していた。いや、欲情しているのだった。下半身に血が集まっていくのを感じる。


 高校生に欲情なんて、そんなことをしてはいけないと思った。そう思えば思う程、どんどん硬くなっていく。


 厨房で働く人は、サロンと呼ばれる前掛けをかける。サロンがあってよかった。でなければ、澄田薫子にもバレていたかもしれない。流石に男のそういうメカニズムを知らないって年ごろでもないだろうから、そうしたらきっと嫌われていただろうし、それを影で言いふらされてしまったら、もう私はここにはいられないし、下手をすると、出るところに出ていたかもしれない。


 私は小説を書かなければならない。捕まる事でいい小説がかけるようになるのなら、それもまたよかったかもしれないが、そういうビジョンは見えなかった。世の中に落胆し、絶望し、ただ腐っていくだけの醜い自分が、石の壁に囲まれた部屋で、ぼうっと天井を眺めている自分が見えた。


 暫くの間、その得体の知れない興奮を抑えるのに必死だった。まるで私は変態のようだった。


「ほら……お子様用のエプロン畳んだら」


 私は苦し紛れにそう言った。デフォルメされたコックさんが描かれた、使い捨てのお子様用エプロンは折り紙のようにコンパクトに折りたたみ、然るべきところに仕舞うようになっている。


 それはそのまま置いておくとぐちゃぐちゃになるからだったし、幅もとるからだった。確か安藤さんが暇なときにそれをしていた気がする。澄田薫子は私の言葉にきょとんとした。案が出てくるとは思わなかったのだろう。実際、月曜日は五分店の中をうろついて何も浮かばなかった。


「どうやるんですか?」

 澄田薫子はきょとんとしたまま首を傾げる。


「いや、分からないけど」


「ええ? それじゃ駄目じゃないですか!」


 彼女はよく笑う子だった。それもくすくす笑うのだ。


 私と澄田薫子は、平日の夕方にいつも同じやり取りをした。二人で暇つぶしが出来る仕事を探した。エプロンもそうだった。時にはキッチンの作業を手伝ってもらったりした。


 いつしかその時間が待ち遠しくなっていた。


 バイトに行くのは億劫おっくうだったが、シフト表を眺め澄田薫子の文字があった時、私はひそかに歓喜した。女子高校生がシフトに入っているかどうかで一喜一憂している様をとにかく滑稽に思った。私はプライドが高かったし、常識的でもあった。彼女と話す時はいつも、話を聞いてやっている、といった体でとりつくろいながら自尊心を保っていた。あるいは方々に、私は高校生を手籠てごめにする気など毛頭ありませんといった危機管理的アピールでもあった。

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