第2話 疑惑の果実(静岡・33)



折角せっかくの旅行なのに、ついてないなあ……」


 雨に煙る日本庭園に向かって、ゆたかはこぼした。


「いいじゃない。旅館でのんびりっていうのも、普段できない贅沢だよ」


 声に振り向くと、和室の奥では妻の美里みのりが、一泊旅行に何を持ってきたのかと思うほど大きな鞄を漁っていた。


「私は、一緒に来られただけでも満足。しばらくは、ゆっくり旅行することもできなくなると思うし」

「まあ、そうだけどさ……」


 雨も見飽きて、穣は美里の側に戻って腰を下ろした。

 美里は鞄を脇において、お茶の用意にかかる。


「でも昔、何年も旅行できなかった時期あっただろ」

「ああ、コロナ?」


 その単語を口にするのも久しぶりだ。


「あの時って、二年か三年くらい、旅行禁止の雰囲気なかった?」

「うん。自粛、自粛って、よく言ってたよね」


 当時は何もかもがストレスで、先の見えない長いトンネルを歩いているようだとも感じた。それも、いつかは笑って振り返ることができるものだ。


「あれに比べたら、全然マシじゃない?」

「うん、まあ……そうだね」


 美里は曖昧あいまいに笑ってテレビをつけた。夫は気楽なものだ。


 だが流れてきたニュースも、決して気の紛れるようなものではなかった。


『昨日、都内のホテルで、横島大学元教授の綿貫わたぬき恒久つねひさ氏が亡くなっているのが発見された件で、自殺の可能性が高いことが関係者への取材で明らかになってきました』


「へえ、やっぱり自殺だったんだ」

「そりゃそうだろ。このタイミングでって……」


 適当に言うと、すかさず穣が言葉を返してきた。

 昨日は「口封じに消された可能性」を力説していたくせに。


 詳細は現在も警察が捜査中。それに続いてアナウンサーが読み上げた内容は、ここ最近すっかりお馴染みのものだ。


『綿貫氏はイプロスに関する研究で知られており、昨年経営破綻したエンデレーブ・ジャパンの顧問も務めていました。氏は、同社の贈収賄疑惑にも関わっていたとされ……』

「やましいことがあったんだよ」


 隣ではまた、夫が物知り顔で語りだす。美里はテレビに聞き入るフリをした。


『スタジオには、長年この問題を取材してきた高崎解説委員に来てもらっています。さて、高崎さん。疑惑の渦中の人物が……という感じですが』

『そうですね。まあ、警察からの正式な見解が出ていませんので、死因等については推測の域を出ませんけども』

『ええ、そうですね』


 そう前置きしてから二人が語りだした内容は、結局のところ穣と同じで批判的なニュアンスを含んでいた。


『続いてもその、イプロス関連のニュースになります……』


 一段落して、アナウンサーが手元の原稿を差し替える。


『アスクダムが、エンデの復興事業を起ち上げることを発表しました。エンデはかつてイプロスのプランテーション農地として発展したものの、その後の需要低下に伴い……』

「うわ、さすがやり手社長ね」


 この話題なら完全に美里の優勢だ。早速先制攻撃を仕掛ける。

 今度は穣がテレビに見入った。


「この社長、日本人なんだよ」

「え、そうなの?」


 やっぱり食いついた。


「うん。もともと『ASK.Aアスク・エー』って会社を起こして……しかもそれ、大学在学中だって。それが大きくなって、フォクスダムを合併したの」

「フォクスダム?」

「ヨーロッパの会社だったかな、オーガニック食品とかの。イプロス関連の商品とか、サプリも出してたんだけど」


 それが見事に失敗し、経営が傾いていたところをアスク・エーに吸収されたのだ。


「じゃあこのアスクダムって、言ってみればエンデレーブのライバルじゃない?」


 意外にも、穣は美里の話をちゃんと聞いていた。


「そう! だからやり手なんだよ。慈善事業で、ライバルの尻拭いまでして、イメージアップって訳よ。元々エンデレーブが叩かれるようになったのだって、裏でこの社長が絡んでたって話もあるんだから」

「何それ! えげつな」


 テレビの中では、復興事業の概要が続いていた。


『……同社は復興事業を通してこうした現状への理解を深めたいとしており、クラウドファンディングでも寄付を募るということです』


 そして高崎解説委員の解説に移る。


『元々この「エンデ」という町――まあ、現在は廃墟のようになっていますが、エンデレーブ社がイプロスのプランテーションのために開発した町でして……』

「エンデって、エンデレーブの社名から来てるんだよな?」

「そう。エンデレーブのおかげで発展したことで、改名したの。エンデレーブも元々は、イプロス産業を通して地元支援をウリにしてて。それでセレブの支持を集めてたんだけど――あ、ちょっと待って」


 美里が急に黙り込んだ。目を見開いて、虚空を見る。


「……動いた! ほら!」


 妻の大きなお腹に耳を当てると、生命の息吹が感じられた。


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