魅惑の果実

上田 直巳

第1話 禁断の果実(エンデ・43)


『ようこそ、エンデへ! アスクダム社専属ガイドルの「シンラ」がご案内いたします』

「あ、どうも。よろしくです」


 思わず頭を下げてしまってから、ゆたかは慌てて口に手を当てた。


『こちらこそ、よろしくお願いいたします』


 シンラはそんな穣の態度を気に留めることなく、丁寧なお辞儀を返した。ウェーブのかかった栗色の髪がふわりと揺れる。


『それではこれより、当地エンデで栽培されていた「イプロス」の歴史を一緒に辿っていきましょう。こちらへどうぞ』


 優雅に右手を開いて誘う。穣は恐る恐る一歩を踏み出した。


 その姿は、はたから見ればさぞ滑稽こっけいだろう。

 何もない平坦な廊下を、ゴーグル型デバイスを着けた中年おやじが、へっぴり腰でそろそろと進んでいるのだ。


 映像は全て現実世界に重ねて投影されたもので、このゴーグルをかけたままでも障害物や段差は普段通り認識できる。

 わかっている。わかっているのだが、体がそれについていかない。


 現に目の前にいるシンラも、一昔前のホログラムのように体が若干透けているということもなく、見た目はまるで生身の人間だ。

 ゴーグルを外すと姿を消し、それでようやく「バーチャルの存在」だと確認できる。


 自分にしか見えないリアルな映像、自分にしか聞こえない音声。

 おまけに、こちらの言動にも一々反応するインタラクティブなバーチャル・ガイド(中でも各企業や施設専用に開発されたシンラのような存在を「ガイドル」と呼ぶらしい)は近年急速に普及して、ゆたかの会社でも導入しようという動きがあるほどだ。


 とはいえ、技術テクノロジーの日進月歩は賞賛すべきでも、人間はそう簡単に進化できるものではない。その実感は、年々恐怖を伴って重くし掛かるようになってきた。

 小さな箱をぶら下げていた、昔の「オーディオガイド」が懐かしい。


 隣を見ると、息子の一颯いぶきは何もない空間に向かって、穣には見えない「誰か」と平気で対話しているようだ。子供はこういうのにすぐ慣れるものだと感心させられる。


「こんなの、学校の授業でも使うよ」


 一颯は一瞬振り返って言い放ち、また壁のほうを向いてしまった。久しぶりの面会だというのに、リアルの親よりバーチャルの他人か。嫌な時代になったものだ。


一颯いぶきのほうにも、このシンラさんって、見えてるのか?」


 優しい微笑を浮かべて佇むガイドルを横目で見ながら、ゆたかはたずねた。


 短いけれど短過ぎない絶妙なスカート丈と、ピタリとしたニーハイブーツの間に生じる絶対領域。大きいけれど大き過ぎない適度な起伏。

 小学生の息子には少々勿体ない……いや、時期尚早といったところか。


「違うよ。僕のガイドは、キャプテン・バンジョーだよ!」

「バンジョー!?」


 すると息子は、再び虚空に向かって話しかけた。


「キャプテン・バンジョー、パパにも姿見せてあげてよ」


 直後、野太い声があたりに響く。


『なぁにい、パパァ!?』


 ビクッとなった穣の視界に、立派な口髭を生やした大男が現れた。昔SF映画やアニメで見た、宇宙艦隊の乗組員のような格好だが、なぜか手には丸い弦楽器を抱えている。


『おお。ではこちらが、イブキ君のパパさんですかな? この少年は、将来立派な船士せんしになりますぞ!』


 大げさに体を揺すり、抑揚のあるしゃべり方。見た目はリアルながらアニメのキャラクターといった感じだ。

 そして話しながら、弦楽器をジャカジャカかき鳴らす。


「本当にバンジョーだ……」

「パパもキャプテン・バンジョーが良ければ、変えられるよ」

「いや。それより、そろそろ先へ進もうか」


 あくまで、シンラの顔がどこか寂しげに見えたからだ。それだけだ。


 一連のやり取りをそばで見守りながら、彼女はまばたきもするし、身じろぎもするし、キャプテン・バンジョーの大声にはゆたかと一緒になって驚いて胸をおさえていた。

 そんな人間らしい、いや、人間っぽい仕草を見てしまうと、AIだからといって感情がないとは思えない。

 自分に言い訳をして、穣はさっきより少しだけ慣れた足取りで進んだ。




 建物を一歩外へ出ると、そこは鬱蒼うっそうとした密林だ。

 入って来た時はきれいに整備された庭だったのに。そう思ってゴーグルを取ると、い茂る木々は跡形もなく消えた。

 ゴーグルをかけ直す。視界を木々が埋め尽くし、風が吹くと枝葉が揺れる。葉擦れの音さえ聞こえてくる。


 ゆたかがある程度納得したのを確認して、シンラは話を進めた。


『イプロスはここ、エンデの付近に自生する植物として1973年に発見されました。ああ、探検隊が到着したようですね。ついて行ってみましょう』


 説明の途中で、後ろから複数の足音が聞こえてきた。男たちが大きな荷物を背負って穣の横を通り過ぎていく。

 促されて後に続くと、獣道を分け入って、その先で何かを見つけたらしい。興奮した様子で周りにしゃがむ。


 その背をぼんやり眺めていると、隣のシンラが進み出て彼らの肩越しに覗き込んだ。それから穣に手招きする。


 仕方なしに近づいてみると、そこにあったのは、光り輝く若木だ。


 若木はぐんぐん成長して天を衝き、枝を広げた。周囲のあちこちで同じような木々が一斉に育つ。足元からも木が生えてきて思わず後ずさった。


 探検隊はいつの間にか姿を消し、多様な密林は全てイプロスの木で置き換えられた。広大なイプロス農園だ。

 明るい笑い声がして、子供達が駆け抜ける。サアッと風が吹いて、なびく髪の一本一本までリアルだ。


 イプロスが「奇跡のフルーツ」としてもてはやされ、日本でも世界でも人気を博していたあの頃、一度も訪れたことのないこの地エンデで繰り広げられていた「日常」――当時のゆたかが現実と信じて疑わなかったのも、まさにこんな光景だった。


 ところが間もなく、不穏な音楽がわき起こり、空には暗雲が立ち込めた。ここから「本当の現実」が始まる。


 子供たちは大きなかごいっぱいに重いフルーツを背負って、ふらつきながら学校へ向かう。

 その「学校」も、外観とダミーの教室がそれらしいだけで、中では収穫したフルーツの選別や梱包、加工処理が行われていた。


 シンラに連れられて、今度は居住区へ向かう。

 大通りから見えるリゾート風の建物は全てイプロス成金のためのもので、その裏で労働者らは粗末な小屋に寝起きしているという。


 農園や加工場で用いられる強い化学薬品によって皮膚のただれた老人が、せんべい布団に横たわっている。シンラに促されて話しかけると、日本語で答えが返ってきた。シンラとなのだから、多言語対応は当たり前か。

 よくよく話を聞くと、年齢は自分とあまり変わらないというから驚きだ。日本にいる両親でさえもっと若く見える。


 健康へのすごい効果がうたわれていた「奇跡のフルーツ」栽培の裏に、こんな実情があったとは。


 自動運転のカートに乗って、農園の外に出た。それまで細々と続けられてきた地元の農業は大企業の圧力に負けて廃業を余儀なくされ、農薬散布により濁った川には死んだ魚が浮いている。

 もはや彼らにとって、イプロス以外に生きる道はないのだ。


 ただしそれも、ブームが去るまでの短い期間だけのこと。


 急速に発展したエンデの町は、元に戻るすべを持たなかった。荒れたイプロス農園の跡地では、自分たちが食べるための作物さえ育てられず、人々はこの地を離れていった。


『こうして、イプロス産業は全て撤退し、後に残ったのは「負の遺産」だけとなりました』


 打ち捨てられた町を見渡して、シンラは重い溜息をついた。

 

 けれどすぐ、その目に強い光を宿して言う。


『我々は、同じくイプロスに携わった者として、この地を再び蘇らせることを決意しました』


 穣は、昔ニュースで聞いたのを思い出した。アスクダムは元々、このエンデでイプロス栽培を独占していた会社とはライバル関係だった。


 イプロス産業では奮わなかったアスクダムだが、いち早く他の事業に主軸を移していたことが幸いして、ブームの急速な衰退に巻き込まれることなく逆に業績を伸ばした。

 敏腕社長はエンデ復興の慈善事業を起ち上げ、倒産したライバル社の尻拭いをして企業イメージを大いに向上させた。


「そして町に人々が戻り、彼らの感謝のしるしとして、このイプロス記念館が建てられたのです。落成式での、弊社社長のスピーチをご覧ください」


 いつの間にか、最初の建物に戻ってきていた。

 記念館前に設けられた演台を囲んで、たくさんの人が詰めかけている。どちらを見ても人・人・人。その実体は映像と音だとわかっていても、息苦しさを覚えてしまう。

 背の低い一颯いぶきは大丈夫だろうかと、思わず隣を向いたが、現地人のおばさんの横顔が見えただけだった。


 小柄な女性が登壇し、力強い口調で話し始めた。日本語だ。

 これも多言語対応かと思ったが、遠目に見るその容貌は現地人のそれではなく、西洋人でもなく、もっと馴染みのある――日本人のように見える。


 そういえば、アスクダムは日本の会社だったか? いや、外国だけど代替わりで日本人がトップに就いたとか、何かそんなことを聞いた気がする。


 演説はますます熱を帯び、群衆もそれに応える。


 そして女社長はこう締めくくった。


「私たちは禁断の果実に手を出してしまった。その歴史を忘れてはならない」



 

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