試合開始 吉田ラグビースクール戦
試合開始直前の空気が好きだ。緊張感がグラウンド全体を包み、全員が一転に集中する。感覚が研ぎ澄まされ、風の流れが見える気がした。手の中でボールを弄ぶ俺の横で、レフリーが時計に目をやる。
「
レフリーのコールに合わせ心臓が高鳴る。ピー、というホイッスル音とともに、俺はボールを足元に落下させた。ボールが接地すると同時にボールの下に足を差し入れるように蹴り上げるとボールは空高く舞い、フィールドの向かって左奥を目指す。
ラグビーのキックオフは少し特殊だ。ボールをキックすることで試合が始まる点はサッカーと共通しているが、その際にボールをワンバウンドさせてから蹴らなければならない。ドロップキックと呼ばれるキックだ。さらに、もう一つ条件があり、キックオフのボールは、十メートル以上、飛ばさなければならない。そのため、多くのケースにおいて、キックオフで蹴ったボールは、相手が獲得することになる。これらの理由から、キックオフを行うことは、未経験者にとって容易ではなく、キッカーは当然俺になった。
チームメイトたちが一斉にボールを追う。相手がボールをキャッチすれば、すぐに攻勢が始まる。その防戦をできるだけ相手陣深くで敷くために、一目散に走っていく。俺は、緩慢に彼らの後ろについていく。セオリーであれば、相手陣深くにボールを蹴りこんだ場合は、相手がボールを蹴り返してくることに備え、相手のキックが飛ぶであろう位置にバックスの数名が待機することになる。だが、俺は無防備にも酒匂一人を残して、一斉にボールを追う仲間の五メートルほど後ろを走って落下地点へ向かっていった。これだけフィールド後方が無防備であれば、吉田ラグビースクール側とすれば、ボールを酒匂がいない当たりに蹴り返し、陣地奪還を目指すのが通常だ。だが、俺は、ラグビースクールの連中の嗅覚と貪欲さ、そして自信を知っている。
相手がボールをキャッチするや否や、有来高校の一人がボールキャリアの中学生に襲い掛かる。しかし。その瞬間、中学生が、ディフェンスをくぐった。通常、ディフェンスが相手を捕まえるプレーであるタックルは相手の脚の部分を抱きしめるように飛びかかる。人にまとわりつかれたときに、最も動きを阻害されるのは、脚をつかまれたときというのは想像に難くないだろう。一方で、初心者は、動いている脚に飛び込むことをためらってしまう。有来高校のディフェンスも、その例に漏れず、背の低い中学生相手に覆いかぶさるような形でタックルをした。中学生は、姿勢をかがめ、そこをくぐったわけだ。中学生は、してやったりの顔だ。
「来たな」
俺は、小さく呟いた。相手は、必ずここを突破しにかかると踏んでいた。中学生は、素人たる高校ラグビー部を舐めている。正直、彼らにとってみれば、そのことは、俺がキックしたボールを追いかける一同の走り姿のうちにさえ、感じ取ることができただろう。それが、ラグビースクールでの長い経験で彼らに培われたラガーマンとしての勘だ。高校側のディフェンスがもろいと見た彼らは、その技術で、ディフェンスラインを突破しにかかる。そのまま、開幕早々得点という魂胆だろう。
わかるよ、たぶん俺でもそうしたさ。俺はそう心の中で呟きながら、その中学生の脚を迎え入れるように捕まえた。そのまま力を入れずに、相手の走る慣性に身を任せると、走っている途中で足を取られた形になった中学生は地面に俺もろとも倒れこんだ。土の香りが鼻腔をくすぐる。完全にディフェンスラインを突破した気でいた中学生は、不意の打撃に驚いたか、ボールをその手からこぼした。
「ノックオン」
レフリーが短く笛を吹いた。ラグビーでは、ボールを前に落とすのは、ノックオンと呼ばれる反則だ。ボールの所有権は相手、この場合で言うと吉田ラグビースクールから、有来高校に移る。
「す、すまん」
起き上がると、フォワードの西が謝罪の言葉を述べてきた。
「いいよ。誰だってファーストプレーは、緊張するさ。それより、次からは、脚を捕まえるという基本を思い出せよ。どうしても脚に行くのが怖ければ、相手のみぞおちに突き刺さるイメージで行け」
「お、おう」
西もそうだが、やはりチーム全体に硬さを感じる。俺たちの周りに灰色のオーラが立ち込めているようだ。俺は、そのもやを追い払うように声を張り上げた。
「集中!ここから突破していくぞ!」
俺は、ゆっくりとフィールド全体を見渡した。敵がまだ俺たちを舐めている間は、勝機がある。
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