再び

グラウンドへ

「いいじゃん。」


 今日はラグビー部に行くと告げたときの慎吾の反応は想定よりも軽く、また乗り気のようでもあった。


「軽いな。」


「やっぱ新しいもの始めたいからな。ハンドもコンタクトスポーツだし、そこは同じ血を感じる。」


 たしかにそうかも知れないが、牛丼と海鮮丼くらいは違う気がする。その喩えを口にすると、慎吾は「たぁしかに。」と口にした。言葉としては「確かに」だが、彼のそれには同意はほとんど含意されておらず、むしろおどけた否定であることが明らかな口調だった。


「でもまたなんでラグビー?確かに新しさはあるけどさ。」


「俺も行くつもりは毛ほどもなかったんだよ。でも、この高校の面接のときに、面接官がラグビー部の顧問だってこと知らずに、ずっとラグビーやってましたって言っちゃった。」


 あの面接の日からまだ一か月と経っていないが、随分と遠い目をしてしまった。物事が遠く思い出されるとき、問題なのはその時間的距離ではなく、現在の自分とどれだけの相違があるかという心理的距離だ。


「え?ラグビー?ハンドやってたんじゃなかったの?」


「中学の部活はハンドだったんだけど、小学生のことからクラブチーム的なところでラグビーやってたんだよ。」


「ハンドは片手間だったんだね!ひどい!」


「たぁしかに。」


「人の口癖を一瞬で真似してあしらうな。」


 慎吾は至極愉快そうな口調で俺を咎めた。慎吾はそれはさておき、とそれかけた話題をもとに戻す。


「それじゃあ放課後ラグビー部見に行こうか。」


「サンキュー。明日はハンド行こうな。」


 おう、という慎吾の返答と同時に教室前方のドアが空き、入学式前に俺たちに移動の指示を出した先生が入ってきた。


「あれ、先生担任じゃないのに、なんでまた来たんですか。」


 クラスの誰かがもっともなヤジを飛ばした。


「みなさんのクラスの担任を発表しに来ました。」


 おおー、と誰ともなしに教室内に小さな歓声が上がる。 でも普通こういうのって担任本人が来るものじゃあないのか。


「一年一組の担任の先生は…」


 無駄に溜める先生。溜められてもこの高校の先生はラグビー部の顧問しか知らないからわくわくのしようがない。


「私、小林でーす。」


 教室の空気が一瞬止まる。一拍置いても空気は動き出さず、三拍ほど経ってから、止めた張本人が言葉を発することで再び動き出した。


「リアクション薄いなー。」


「だって、先生、自分は担任じゃないって言ったじゃないですか。」


 ヤジを飛ばしたのは先程と同じ声の主だった。


「入学式前は、担任としてこの教室に来たんじゃないと言いました。私一人で一階の教室全部見て回りましたらね。満を持して、今担任としてこの教室に来ました。」


 再びクラスの皆が呆気にとられる。


「そういうわけだ、一年間よろしくな。」


 口の端を上げ、にやりと笑いながら小林先生は急に砕けた口調でそう言った。引き続きクラス内は沈黙が続いていたが、その静寂の質は先程のそれとは異なる。虚無的でありながら、決して不快でない笑いが、静かに教室内をたゆたう。その笑いは、自分たちの想定を超えてきた小林先生が、これからの一年間、自分たちにもたらしてくれるかもしれない小気味いいアクシデントを予感し、期待したことによるものだった。


「しかし癖のある担任だったなー。」


 入学式の日は、特にコンテンツもなく、ホームルームで事務的な説明がされたのと、教科書の受け取りをした程度で終了した。慎吾は今日受け取った教科書のほぼ全てを詰め込み、トレーニング機材としか思えない重量となった鞄を、そうとは思えないほど軽々と担ぎながら担任に関する感想を述べた。


「高校入ってから癖のある教員にしか遭遇してないよ。」


 例えばラグビー部顧問の、と名前を挙げようとして気づいた。あの顧問の先生の名前を聞くのを忘れていた。


「そういえばラグビー部ってどこで練習してるんだっけ?」


 下駄箱から赤いハイカットシューズを取り出しながら、慎吾が俺に尋ねる。


「たぶんあっちのグラウンド。昇降口を左に出たところ。ラグビーポールが立ってるの見たことある。」


「さすがラグビー経験者。」


「それは関係ないだろ。」


 軽口を叩く慎吾。


「いや、ラグビー経験者だから、ラグビーポールを意識するし印象に残るんだよ。」


 思いの外、根拠がしっかりしていた。軽口だと一蹴して申し訳なかった。


「岸山慎吾君は、意外とちゃんとした発言するんだな。」


「どういう意味だよ。」


 なぜか嬉しそうに笑う慎吾。


 昇降口は新入生でごった返していた。誰も彼も晴れやかな顔で、彼らの笑顔が彼ら自身をを祝福していた。地方の公立高校らしく、文武両道を謳うこの高校では、運動部を中心として新入生の勧誘と、体験入部が入学初日から始まる。勧誘する側にしてみれば、ホームルーム終わりの昇降口はまさに狩場で、外では上級生たちが声を張り上げていた。建物の中と外を隔てる防災ガラスのドアがあたかも結界のように、上級生たちは中へ入ってこようとはしない。それが暗黙の了解なのか、それとも教師陣から建物内では勧誘をしないように言われているのかは不明だが、そこに一定の秩序があった。確かに、建物の中で声を張り上げ勧誘をしたら、騒々しいことこの上無いだろう。この喧騒という混沌の中にある秩序が、無秩序な中学生だった俺には大人っぽいものに感じられ、その大人と同じ場所に立っていることで自分も少し成長した気分になった。


「ねえ、君ラグビーっぽい顔してるね!ラグビーやろうよ!」


 秩序は比較的すぐに破られた。昇降口の最終防衛ラインなど最初から存在しなかったかのように、なめらかに昇降口へ入ってきたその人は、俺の顔を見るなり勧誘をしてきた。というかラグビーっぽい顔ってなんだろうか、やっぱり長くやるとにじみ出るんだろうか。そしてラグビーっぽい顔ってあまり褒められている気はしない。


「あ、今から行くとこです。」


 圧倒されている俺の代わりに答えたのは慎吾だった。


「お、さすがぁ。第二グラウンドでやってるから!」


 あのラグビーポールが立っていたグラウンドは第二グラウンドと言うらしい。新入生が第二グラウンドとだけ言われても全くわからなそうだ。たまたま受験の日にラグビーポールを見ていた変な奴に声をかけたからいいものの、他の新入生はちんぷんかんぷんだろう、と勝手にラグビーの勧誘の行く手を心配する。ラグビー部員は狭い昇降口を縦横無尽に駆け回り、お、君ラグビーっぽい顔してるねぇ、と手当たり次第に男子に声をかけていた。ラグビーっぽい顔してる、とは彼の勧誘の常套句らしい。個人的には常套句を変えることをおすすめしたい。ラグビー部の先輩を尻目に昇降口を出ると、こちらはきちんと秩序を維持している部活の先輩に声をかけられた。やはり、前に出てグイグイと勧誘してくるのはハンドボール、バレーボール、陸上といった運動部が多かった。同じ運動部でも、野球とサッカーの二大巨塔は、勧誘しなくても一定程度の人は集まるのか、見当たらない。文化部は運動部を遠巻きに眺めながら看板を掲げ、控えめなアピールをしていた。余計なお世話かもしれないが、もう少し積極的に勧誘をしたほうがいいのではないだろうか。ラグビー部の先輩と足して二で割りたい。


 第二グラウンドは昇降口からほど近く、距離にして五十メートルほどしか離れていなかった。グラウンドに立つと、春の南風が茶色の土を巻き上げる。小学校や中学校のグラウンドはやや青白い土だったが、このグラウンドはまるでドーム球場のマウンドのような赤々とした土だ。サッカーコート、あるいはラグビーのコートもほぼ同じ大きさだと思うがそれらコート一個分をサッカー部とラグビー部で半々に分け合っていて、そのコートを取り囲むように陸上のトラック、といっても土の上にプラスチック製のガイドラインが釘によって打ち付けられているだけだが、があり、その周りを四月ではまだ寒そうなタンクトップ姿の陸上部員が走っていた。


 運動部の定番、野球部には、サッカー部やラグビー部のグラウンドの隣に別途用意されていた。野球部のグラウンドとの間には松が植え込まれた数メートル幅の地帯があり、そこにベンチがまばらに設置されていた。その植え込み地帯では各グラウンドでこれから部活を始めるのであろう、Tシャツを来た生徒たちが雑談に花を咲かせていた。ラグビー部は早くもウォームアップが始まっているようで、がたいのいい上級生と思しき男子生徒が二十人ほど連なって、一二三四とコートを半周を周回していた。入学式の日から早くも始まる体験入部期間は、新入生である自分たちはいわばお客様の期間なので、堂々と彼らに交じろうとしてもいいはずだが、厳しい練習を耐え抜いたのであろう男たちの体が、一年ないし二年という自分と彼らとの年齢の差によって生まれるものよりも、遥かに大きく見えた。先程昇降口で強引な勧誘を受けたときは、その先輩の大きさをそこまで意識しなかったが、今受ける威圧感はグラウンドの赤土が引き立てるものか、集団によるものか、はたまたあの先輩の雰囲気がいい意味で威厳を弱めたのか。同じようなことを思っているであろう慎吾と二人してグラウンドの隅で突っ立っていると後ろから声が飛んできた。


「よう、早速来たか。」


 思わぬ方向からの声に少しばかり肩を震わせながら振り返ると、例のラグビー部顧問が立っていた。


「突っ立ってないで着替えて来いよ。」


「どこでですか。」


「そのへんで。」


 そのへん、と顧問が指し示したのは、野球部のグラウンドとの間を区切る松の植え込み地帯だった。松がまばらに立っているとはいえ、周りの目を遮る効果はほぼなく、女子生徒の存在がやや気になる。とはいえ運動部、あまり顧問の先生にノーと言う余地はなさそうだ。


 植え込みの付近を蛍光色のスポーツウェアを纏った上級生が往来する中、その流れに取り残されたかのように体操着を着た六名の集団があった。


 「もしかしてラグビー部?」


 そう彼らに声を掛けたのは慎吾だった。新入生だと決めつけてため口で話しかけているが万が一上級生だったらどうするんだろう。


 「あ、そうだよ。」


 集団の中で一番背の低い男が、体つきに似合わない低い声でそう答えた。よかった、新入生で。


「もしかしてラグビー部?」


「そう。まさかここで着替えるなんてね。」


 受け答えをしていない他の五人も一様に首肯した。他の部活も今日同じように体験入部をしているのに、ここに六名の新入生しかおらず、その全員がラグビー部の体験入部ということは、他の部活の人たちは他の「まともな」場所で着替えていそうだ。勧誘の仕方から薄々感じてはいたが、ラグビー部は校内でかなり特異な立ち位置なのだろうと言うことが推量られた。ともあれここまで来たからにはここで着替えよう。なぜ入学式初日の持ち物一覧として体操着がリストにあったのか謎だったが、よく考えればこの部活動体験のためだったようだ。高校で部活に入ったら、部活指定のバッグを買うだろうという見込みで、とりあえず中学の頃から引き続き使っているスクールバックの奥底から体操着を引っ張り出す。新しいものに与えられる擬態語はピカピカと相場が決まっているが、体操着の色はピカピカとは程遠くどちらかといえばクリーム色に近い。体操着を取り出してはたと気づいたが、制服から体操着に着替えるためには一旦パンツになる工程を経なければならない。ふと顔を上げると先着の六人組はアルカイックスマイルだ。気づいたか、そのとおりだ、がんばれ、と言いたげな顔だ。覚悟を決め、えいやと、可能な限りのスピードで早着替えをする。思わぬ辱めを受けながらの初めての体操着だったが、どのような形であれ初めてとは気持ちのいいもので、改めて憧れの高校に入ったんだという幸せな気持ちで満たされる。さっきまでパンツだったが。


「おーい、新入生集合。」


 恥ずかしさと喜びを胸のうちで混ぜ合わせていると、先程までグラウンドで走っていた上級生から声が飛んできた。低いが、不思議と様々な部活動の声が飛び交うグラウンドでもよく通る声だった。集団の先頭でこちらを見ている、やや小柄で浅黒なあの人はキャプテンだろうか。俺を含めた新入生はその低い声が醸し出す威厳に本能的に反応し、弾かれたように走り出す。


「なんかオーラあるなあの人。」


 走りながら小声で慎吾に話しかけたが、慎吾の耳には届かなかったようだった。その気持ちはわかる。声だけで、俺たちに分からせる人がいる部活は、間違いなく俺たちの高校生活を彩ってくれるだろう。まだスパイクを持っておらず、ただの運動靴でグラウンドの土を蹶る俺たちの足は、グリップが足りずに、わずかばかり空転した。



 グラウンドは人を変える。否、彼らはグラウンドによって変えられる。俺を半ば強引にラグビー部へ誘った顧問も、昇降口でまるでナンパのような新入生勧誘をしていた先輩も、赤土舞い上がるこのグラウンドに立つと、一人の戦士であった。土のグラウンドで練習をしているからだろうか、彼らの腕、そして足は擦過傷とそれが治った痕が痛々しく残っている。一年を通じて太陽の下走り続けたからであろう、その肌は春暖には似合わぬ小麦色だ。ところでラグビーのポジションは大きく二つに分けられる。フォワードとバックスだ。フォワードは重戦車のごとく、敵陣に突撃し、体をぶつけ合ってボール争奪する。対してバックスはフォワードが肉弾戦の末に確保したボールを右へ左へ展開し、グラウンドを舞いながら敵陣深くのゴールを目指す。その役割の違いから、フォワードは恰幅が良く、敵を跳ね飛ばす力強さが、バックスは敵を巧みに躱す俊敏さが特徴だ。本来はそうだ。しかし、目の前にいる彼らは誰がフォワードで誰がバックスなのか、一見しただけでは見分けがつかなかった。それほどまでに、つい先日まで中学生であった自身との体格の差は歴然だった。俺は、小中の九年間で積み重ねた技術というアドバンテージを、どこか過信し、たとえ高校生の中に入っても、遜色なくプレーできるだろうと楽観していた。忘れていたわけではないのだが、ラグビーはコンタクトスポーツだ。しかも他のいくつかの球技と異なりプレーヤー同士が直接激突することが認められている。つまり、しばしば技術は力で潰すことができる。柔能く剛を制すとはいうが、このスポーツではしばしば、力こそ力だ。心の中で緩んでた兜の緒が引き締まる思いだった。

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