不覚
新しいクラスメートとの歓談に興じていると教室の前のドアから男性教師が入ってきた。別に悪いことをしていたわけでもないが、教室内に突如天使が通る。彼が俺たちの担任なのだろうか。教卓へ向かう男性は、肌が浅黒い胡麻塩頭の初老の男性で、どことなく覇気がない。それでいて白のワイシャツの上にナイロンジャケットを着用しており、服装だけなら今にも夕日に向かって走り出しそうだった。まだ朝だが。なんとなく、この教師が担任で、盛り上がりのあるクラスというのが想像できなかった。
「あ、私は担任だから来たわけじゃないですよ。」
先手を打たれた。というか発表前にそんなこと言っていいのか。
「これから入学式がありますので、体育館に移動します。体育館シューズを持って廊下に出てください。入学式の後のホームルームで担任の発表があるので楽しみにしていてくださいね。」
クラスに期待と不安のざわめきが走る。そんな中それとなく慎吾を見ると安心と満足が半々になったような顔をしていた。そんなにあの教師が担任でなくて良かったのか。ひどいやつ。俺も全く同じ気持ちだ。
男性教師に促され、教室内の生徒が席を立ち始める。俺も新品の体育館シューズを鞄からりだす。なにもかも新品尽くしの今日は、落ち着かない感じもするが、特別感がある。体育館シューズも中学まで使っていた、スリッポンのようなものではなく、きちんと靴ひもがあるタイプのものだ。教室のどこかから、バッシュみたいだな、という嬉しそうな声が聞こえる。確かに、今まで使っていたものと比べれば本格的で、バッシュ、つまりバスケットボールシューズのようでもある。
廊下に出ると、他のクラスも順順に廊下に出てきていた。およそ効率的とは思えないが三百余人の群衆が体育館へと移動する。新しいことづくめの今日、もしや体育館さえも我々に感動をもたらしてくれるのではとの期待を抱いたが果たして裏切られた。体育館はどこにいっても体育館にすぎないらしい。中学と同じような木張りの床の体育館で、バスケットボールコート二面分の広さだ。ただ、中学と違い天井の梁にバレーボールは挟まっていなかった。
入学式も目新しいものはなかった。国歌を斉唱し、えらいおじさんたちが喋って終わる。閉式の辞が読まれる頃には校長の祝辞の内容は忘れていた。通り一遍のことしか言われなかった気がする。節度を持ってだとか、大人に近づく責務だとか。来賓も言葉は変えても言う内容は同じだ。並べられた言葉は、青春の味方ではなさそうで、むしろ敵の武器でありそうだ。入学式も三度目となると感動も薄れるようだったが、在校生による校歌紹介には、本来期待されるものと別の種類の感動があった。小学校や中学校の入学式では、在校生が頼れる大きなお兄さんに見えて、俺もあんなに大きくなれるんだと胸打たれた。今日は、校歌を歌う在校生のうちに、何人か目あるいは表情筋が死んでいる者を認め、いたく共感した。この変化は、俺がひねたからではなく、相手の心情をおもんぱかることができるようになった成長だと捉えたい。体育館から退場する皆の顔を伺うに、入学式に感動を覚えた者は極めて少数派のようだったが、それでも皆一様に晴れやかな顔をしていた。恐らくそれはこの式典が、ここにいる一年生の皆の新しい高校生活の発走の号砲になったからだ。校長の祝辞でオンユアマーク、校歌紹介でセット、入学生退場でバン!
体育館を出ると外の明るさに目が眩んだ。校長劇団のマチネは印象に残らなかったが、この劇場から出た後の太陽の眩しさは、一級品だった。船出は上々だ。ひとまず寄港しホームルームだ。
「赤岩ー!」
燦々と輝くお天道様に大きさだけは負けない、しかし明瞭さで大敗しているしゃがれた声で呼び止められた。このような声の友人に心当たりはなく、そもそも現時点で友人の存在に心当たりがない。誰だろうと思い振り返ると、同じ考えを繰り返すことになった。この人誰だろう。年齢から言うと教師には違いなかった。自分の父とほぼ同じくらいの年齢のようだ。恐らく理系科目の教師ではないだろう、黒めの肌が白髪と対象的な男性教師が、おやつを見つけたこどものような満面の笑みでこちらを見ている。
「今日来いよ!」
修飾語が致命的に欠落するあたり、国語教師でもなさそうだ。
「どこにですか。」
「第二グラウンド。」
この先生は一度に口にできる文字数が決まっているのか?
「何しにですか。」
「部活。」
「いやそもそも何部なんですか。」
ここで教師が意外そうな顔をした。多分俺はずっとさっきからこの教師と同じ顔だ。
「いや、お前やるんだろ、ラグビー。」
「あ」
この世でしてはいけないことは、答えに窮してとっさに嘘をつくことだ。もし、君が高校入試の面接を受けていた、高校ではラグビーを辞めたいと思っているときは特に気をつかたほうがいい。答える相手がラグビー部の顧問である可能性がある。
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