新生活

 有来高校の合格発表は、校舎の窓ガラスに合格者の受験番号が張り出される形で行われることになっていた。有来高校は自宅からは少し遠く、自転車で三十分程かかる。ちょっとした遠出のようで、もし合格しても、毎日この距離を通うのかと考えると少し気が滅入った。しかし、あまり深刻に考えたこともなかったけど、この高校に落ちたらどうしようか。特にこれがしたいということもないので、どこの高校に行ってもそんなに変わりはないのだが、やはりこの高校を目指して、中学3年生の間ずっと勉強をしてきたので落ちるということは、考えたくなかった。


 入学試験終了後、翌日には学習塾が文字回答を公表していてそれで下自己採点はギリギリ合格できるかなといった感じの点数だった。バッドサプライズがなければ合格できるとは思うが、合格できると自信を持って言えるほどの点数ではなかった。この二週間は特にそのことが頭に浮かぶこともなかったのだが、有来高校へ向かう三十分までの間はそれ以外のことが、むしろ頭に浮かんでこずその時間は三十分というよりは三週間以上あるように感じられた。


 長い時を経て、高校の正門にたどり着いた。ひさしぶりに有来高校の門をくぐる。前と変わらないルートで自転車置き場に自転車をおき、暗い道を通って昇降口へ向かう。しかし、昇降口の前には誰もいなかった。確かに少し早めに来て、合格発表まであと三十分ほどあるのだがそれにしても、誰も見かけないというのは妙だ。ひょっとしたら、合格の掲示がされるのはここではないのかもしれない。いずれにせよ、この高校のどこかであることは間違いないので、時間的余裕もあることだし、ゆっくりと学校内を回りながら、合格発表の掲示がされる場所を探すことにした。


 校内を歩いてみて気付いたが、この高校は敷地がとても広い。十五分ほど歩いても合格発表の場所は発見が出来ず、少し焦りだしたところでたくさんの人の声が薄っすらと聞こえてきて、そのまま歩みをすすめると人だかりができていた。目的の場所を見つけられて安心したというよりかは、逆回りに回るべきだったということに対して、少し落ち込んでいた。


 その場所は、自転車置き場周辺とは打って変わって、開放的な明るい広場だった。広場は円状に芝生が整備されており、その芝生エリアを取り囲むようにコンクリートの道が敷かれており、芝生広場を挟んで校舎と門が向かい合っていた。門と言っても、そこまで大きな入口ではなく、おそらくここは教師が通用門として利用しているのだろう。高校の外の道路からあの門を通って校内に入り左に行くと車が何台か駐められており、そこは教員用の駐車場らしかった。右手には整備された植え込みとこれまた芝生のエリアが広がっており、なぜか蘇鉄なども植えられていた。さらに奥には深緑の木々が見え、あれが駐輪場付近の森につながっているのかもしれない。とすれば高校をほぼ一周してしまったことになる。


 図らずとも校内を悠長に散策してしまったせいで、時刻を確認すると合格発表まではあと数分だった。周りも少し浮き足だっている。その時、窓の向こうの景色に動きがあった。室内は暗く、少し見えづらいが大きな模造紙を数枚抱え二名の教師が入ってきた。少し浮き足立っていた空気が引き締まる。ここにいる全員が今この瞬間、人生を数枚の紙に委ねている。そこに自分が思う四桁の数字が無機質な活字で印字されていることを祈っていた。


 俺の番号は三百五番なので、B1サイズのその紙に四列で印刷されている数字の二列目あたりにあたりをつけ数字を探し出す。受験番号は合格者のみが印字されているのではなく、全員の受験番号が記されていて、その右隣に合格だとか不合格と書いてあった。


 紙の中腹やや下あたりに三百五の番号を見つけた。少し怖くてそのすぐ右にある文字列に目が移せない。何百時間の努力の結晶が三センチ目線を移動させた先にある。息をのみ気合を入れる。短く息を吐く。えいやと視線を移す。


 端的に二文字、合格とあった。頭の中にここ数か月の記憶が凝縮されてゆく。体の中で歓喜の渦が巻く一方で、あれだけ頑張ったのだから当然だという少し冷めた満足感が渾然一体として奇妙な熱になった。


 ひとまず、家で待っている母にメールを連絡をしよう。スマートフォンを取り出してメッセンジャーアプリを立ち上げ、しばし考えてから、ちょっと格好を付けたくなって「サクラサク」だけ打った。かつては大学の合格を知らせる電報で同様の文面が使われていたというそのフレーズは、二十一世紀の情報技術で母の元に送られた。母からはすぐ、「合格ってこと?!」と喜ぶ絵文字付きの返信があった。キザになった自分が急に恥ずかしくなり、「そう」とだけ返し画面を消した。


 高校の入試の倍率は一般に二倍を割り込むことが多いと聞く。有来高校も同様にそうであったはずだ。当然俺と同じ中学でこの高校を受験しているやつも少なからずいて、彼らも近くにいることだろう。受験前はどうしてもナイーブになるので、お互い茶化しつつも励ましあったりした。倍率が二倍に満たないのであれば五割以上の確率で彼らも合格しているはずだが、もし彼らが不合格であったときに、この俺の中の静かな歓喜を押さえ込んで適当な反応をする自信がなかったので、そそくさとその場を後にした。


 合格発表も終わり、入学まで春休みは残り二週間程度だったが、制服の採寸やらなんやら、進学準備に追われ、また、高校生活という薔薇色のキーワードに胸躍らされ、華やかな高校生活を夢想していると、あっという間に四月を迎えた。


 もともと、俺は新しい環境というものがあまり得意ではなく、どちらかと言うと保守的なほうだ。幼いころに通わされそうになった学童保育も、結構強く拒んでいた記憶がある。今日のような、新学期、ましてや入学したての初日なんてのはかなり緊張する。起きる予定だった時刻よりだいぶ早く目が覚め、かなり余裕を持って家を出た。今年は例年より気温が低く、朝の空気はまだ冷たい。自転車でスピードを出し過ぎると風が体にしみるので、ペダルはゆっくりと回した。身を包む制服は、思春期の少年の体の成長速度を高く評価して一回り、いや二回り大きく作ったため、服と体の間にも空気が入る余地が大きく、それが寒さに拍車をかけている気もする。赤信号に引っかかったタイミングで、自分の新しい制服を眺める。中学校の頃はブレザーだったので、この漆黒の学ランは新鮮な気持ちで着ることができる。市内は学ランが制服の中学のほうが多く、母曰く、そういう学校の場合は高校1年くらいまでは同じ制服のまま粘り、体の成長が服の限界を超えたタイミングで新調することも多いようだ。新しい学校生活の始まりに、今までと同じ制服というのは何か締まらない気もする。その点新品の制服に袖を通せることは、サイズ違いからくる違和感を除けば幸運なことなのかもしれない。この後の三年間で何百回、あるいはそれ以上通ることになるであろうこの道も、まだ当然新鮮だ。


 有来高校の門をくぐると、またあの鬱蒼とした森に包まれた自転車置き場だ。しかし新入生を迎えるこの季節に木々も浮足立っているのか、入試の日より心なしか明るく見えた。朝日が差し込んでいるからかも知れないが。この森には桜の木は無いらしく、新生活の定番である薄桃色の花弁は姿を見せない。もっとも、この季節になると桜の見頃は過ぎていることも多く、桜の木があったとしても見られるのは、まだ木の枝にしがみついている根性のある一部の花弁と、その他大勢の風雨に負けた花弁が人に踏まれてしおしおになっている姿なのだが。


 自転車を駐め、昇降口に向かうとクラス分け名簿が貼ってあった。昇降口には少し来るタイミングが早すぎたのか、人はまばらで、一年生のクラス分けが貼ってあるあたりにはちょうど誰もいなかった。一年一組から順に見ていくと、早速自分の名前を見つけた。出席番号は十一番だった。めちゃくちゃゾロ目だった。クラスの面子を一通り眺めてみたが、同じ中学の奴らはいなかった。そもそも、うちの中学から有来高校を受験したのが数名だったはずなので、彼らが全員合格していたとしても、同じクラスになる確率はそう高くないだろう。他のクラスもついでに見てみると、確かに見知った名前があったが、前任がバラバラのクラスだった。紙は全部で八枚貼られているのでこの高校は一学年八クラスのようだ。改めて一年一組のクラス分け名簿を眺める。他の中学にも小学校の同期やらなんやらの知り合いがいるかもしれない。伊藤敬…なんか見覚えがあるけどよくある名字だし、よくありそうな名前だから、記憶の奥底にあるイトウくんと同一人物かわからないな…。高橋恵美もなんか見たことある気がするけど、どこで見た名前なのかピンとこない。大塚…はあの大塚とは違うな…などと一人一人吟味する時間はあまり有意義でないことに途中で気づき、さっさと教室に向かうことにした。


 一か月前、この高校に受験をするお客さんとして来たときは自分の靴をビニール袋に入れて持ち歩いたが、今日はれっきとしたこの高校の生徒として来ているので自分の下駄箱がちゃんとある。上履きのスリッパもピカピカの新品を持参している。そのことだけで、新たしい生活が始まるんだということを再認識して気分が昂揚した。


 今まで小中で履いていた上履きとは異なる感覚にさえわくわくしつつ、一年一組に向かう。一組というだけあって、昇降口から一番近いところにあり、このことは今後高校になれ、朝ギリギリに登校するようになったときには、秒単位のチャイムとの戦いにおいて大きなアドバンテージとなることを予感しつつ、教室の扉に手をかけた。あまり立て付けが良さそうでない音を発しながら扉が開く。新生活の幕開けにはあまりふさわしくない音だった。教室には男女合わせて十人程度がいて、歴史を感じる開扉音に皆こちらを向いた。知らない人、しかしこれから見知った関係になる人の前でのリアクションは何が適切かわからず、適当にどうもーなどと言いながら自分の席を探した。


 自分の席の周りには、斜め左後ろの席にすでに一人だけ男子生徒が来ていた。高一にしては少し老け顔の、それでいて不健康ではなく、むしろスポーツに打ち込んだ健康さを感じさせる男だった。


「おはよう」


「おはよう」


 うん。挨拶は大事だ。すこし単調すぎるきらいはあるが。当然ながらお互いどことなく距離を測りかねている感が、いかにも新生活らしい。


 「俺は航一郎。北中出身。よろしくね。」


 小、中とずっと名字の赤岩で呼ばれてきた俺は、ずっと航一郎という名前で呼ばれることに憧れていて、あえて名前だけで自己紹介してやろうと計画していた。名前の方が、なんとなく垢抜けている感じがして好きだ。


「俺、岸山慎吾。家は海川なんだ。」


 岸山慎吾は、いや俺も名前で呼ばれたいのだから彼のことも名前で呼ぼう、慎吾は俺が住み、またこの高校もある今橋市の隣の市の名前を挙げた。幼稚園から今に至るまで今橋から出ていない俺にとっては、隣の市出身の奴でさえも、新しい存在だった。


「そうか、じゃあ有来にあんまり中学の知り合いはいない?」


「ゼロだね。今橋に知り合いがいないこともないんだけど。みんな別の高校行っちゃって。」


「へえ、今橋にも知り合いいるんだ。何関係?」


 俺と同じように、地方に住む学生にとって、市をまたがっての知り合いがいる人は少数派だと思っていたので、多少の驚きをもって訪ねた。


「中学の頃、ハンドやってて。地域選抜に選ばれてそこの知り合いが少しいるんだ。」


「え、俺もハンドやってた!てか選抜とかすごいね。俺ポストだったけど、慎吾はどこやってたの?」


「俺はレフトバック。」


「はー、花形じゃん。しかも選抜。かっこいいなー。」


「そんな大したものじゃないけどね。」


 慎吾は少し照れくさそうに、目を細めて笑っていた。物腰もやわらかくて人に好かれそうだ。その一方ハンドボール部では、いわゆる点取り屋のポジションだったそうで、そのギャップが同性ながらかっこいいなと思った。対する俺は縁の下の力持ち的ポジション。私生活と同じだ。


「じゃあ、高校もハンドやるの?」


「少し悩んでる。高校からは新しいこと始めたい気持ちもあるし。選抜って言っても県レベルな訳じゃないしね。でもまあ、一応ハンドも見てみようとは思ってるよ。」


「じゃあ、部活見学ハンド見に行こうぜ。ぜ。俺も何部にするか全く決めてないけど興味はある。」


「いいよ。てか航一郎もハンドに決めてるわけじゃないんだね。」


「いやー、俺もせっかくだからいろいろ見たくて。」


 幸いなことに、入学初日から始まる部活動探しの旅の友を得た。高校の部活は中学までやっていたものをそのままやると言うやつも多そうで、いろいろ見たいという奴がどれほどいるのか少し心配していた。もちろん一人で体験入部巡りをしたって問題ないのだが、初めての場所、友がいると心強い。


 二人で部活動談義に花を咲かせているうちに、教室の人口密度は上がっていた。気付くと、俺の前後の席や隣の席のやつも来ていて、当たり障りのない自己紹介からはじめ、恙無くクラス内の交友関係を構築していった。有来高校での初めてのクラスは結構悪くないようだ。

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