13 夢はどうやら割り切れない

 母さんと腕から抜け出したであろうクマ次郎の会話は遠くに聞こえているからか、なにを話しているのかは謎だ。垣間見た表情からして、なにか重要なことを話しているというのにな。


 ひとり残された俺は項垂れていた形であっても、拳を強く握りしめている。痛みに堪えるように、辛さを逃がすように、息を吸って吐いてを繰り返しながら。いつもならほどほどに治まってくれるというのに、今回は手強いのか、効果が薄いようだ。痛みも熱さもまだ強く残っている。そうしている内に、暖かさを感じた。とたんに躯の痛みも熱さも嘘のように消えていく。消えていったと思う。


 頭の痛さだけは謎に強く残っていたからか、幻覚かも解らないのが怖いよね。柔く抱きしめられながらもぼんやりとそんなことを考えていたのだが、俺ができたことは歯を食いしばりながらもふーふーと息を漏らすことだけだった。母さんの「無意識でしょうが、自力で解こうとしているとは……」という驚きと気がかりが滲んでいるような声にも答えることなどできやしない。


「すみません。あなたをこんなにも苦しめるとは思いませんでした。ですが、そのままにはしておけなかったのです。いまもまだ目眩ましが必要な時ですので、もう少しだけ堪えてください。私は、あなたを失いたくはない。解ってください。そしてどうか、どうか――」


 だんだんと母さんの声が小さくなる。その話の内容は全然解らないが、母さんが切羽詰まっているだろうことはなぜか理解できた。不思議なことに。おそらくは絞り出したような声だったからであろう。だから俺は、大丈夫だからと口に出したかった。これ以上は心配させたくなかったから。何度も優しく頭を撫でられてしまったから、声は出せずじまいだが。


「クマ次郎、でしたよね?」

「――はい」


 母さんがクマ次郎を呼ぶと、「私は夜嗣さんに連絡をしてきますから、沙千さんを頼みますね」と声をかけた。クマ次郎は大きく頷きながら「はい! クマ次郎にお任せください!」と答えている。胸に腕をどん! と当てながら。さすがクマ次郎。テディベアだというのに、手足の可動範囲は広いらしい。だから飛びついたり抱きついたりが容易なのだろう。


 いまだって、母さんが俺を離すのと同時なぐらいに俺の胸に飛び込んできたぐらいだからな。行動が早すぎてビビるしかない。少々腰が引けてしまったが、「っと!」と受け止められたことはよかった。落としたとしてもそんなに高さはないし、膝の上になるのだから、衝撃は少ないかもしれないが。いやでもやっぱり、痛いのは遠慮したいよなあ。俺も嫌だわ。


「まじゅだぁあぁあ! だい゛じょ゛ぶですがぁ?」


 頭を撫でられたことで痛みもどこかにいってしまったようだし、大泣きするクマ次郎を宥めるのも楽になった。最早抱きつくよりは張り付くの方が正しくなってしまったクマ次郎の頭や背中をよしよし、大丈夫大丈夫と撫でていると、勢いよくドアが開く。物凄い勢いよく。吹っ飛ばなかったのは奇跡かね。


「しーちゃん大丈夫!?」

「おー、夜嗣か。おはよう」


 肩で息をしているらしい夜嗣に片手を上げて答えると、夜嗣は何度か目を瞬かせた後に屈むように腰だけ落とした。はあーと大きく息を吐きながら。


「よかった……。しーちゃんに大事がなくて本当によかった」


 心底安心したような声には申し訳なさしかない。昔からこうなので、ある程度までの痛みになら堪えることはできるのだが、それ以上だったので泣くしかないだろう。他になにができるというんだ。俺は知らないぞ。


 腕を伸ばして頭や頬を撫でてきた夜嗣だが、どうしてそう優しく触れてくるのか。俺に優しく触れても意味がないのにな。それは婚約者にしなさいな。さすがにいまは指摘できる雰囲気でもないから、言わないままだけども! ここで口を開いたら、空気ぶち壊し男の名が与えられるであろう。いらないからね、それは。


「ましゅたー、ご飯食べに、いきましょうっ」


 すんすんと鼻を啜るクマ次郎の頭をもう一度だけ撫でて、「そうだな」と立ち上がる。もちろん、クマ次郎を抱きかかえながらね。離れてくれなかったので。いいけどね、軽いし。隣がちょっと見られないだけでね、うん。夜嗣からくる圧はなんでなんだろうな。もしかして、一人占めしたいのか? いやでも、俺を一人占めしても面白くもなんともないしなあ……。謎だよなあ。それでも、圧に屈することはなかったんだけど。夜嗣の方も解っているからこそ、手を取ってしっかり握ってくるんだけどね。まるで自分を見ろとでも言いたげに。見た目的には、完全に迷子に構う人だけれども。


 今日の朝食はなんだろうなあと暢気に思うまでには回復しているようであり、さきほどまでのマイナス感情なんていうのは存在していなかった。夢は夢と割り切れたらどんなに楽になるんだろうかとは思うけれども、俺は――俺だけは、割り切ってはいけないのだとも感じてしまう。相反する感情思いがケンカをしそうになるがしかし、朝食の匂いに全てを持っていかれてしまった。これは……!


 ――朝からデミグラスソースの煮込みハンバーグとは強い! 好きだけれども、朝からの食べ物ではないだろうよ。好きだけどぉ!


 シミをつくらないように制服を死守しなければという決意は、ひゅーと彼方へと飛んでいってしまった。紙エプロンは便利です。朝からの煮込みハンバーグもありでございましてよー!


 夜嗣とクマ次郎とも一緒だったが、俺だけは食い意地を張りすぎて重くなった腹で登校しなければならなくなってしまいましたよね。まあ、それはそれで、全てはハンバーグがおいしいのが悪いんですよ。俺ではなくて!



 ◆◆◆



 明日は土曜休みであるので、待ち合わせをして買い物に行くこととなった。なんの買い物かというと、ダンジョン実習のための買い物である。


 お嬢様たちには登校してすぐに連絡をしておいたらしく、きちんと許可を得ている。俺は夜嗣がいないと特進科に対して連絡のひとつもできないので、夜嗣様々だ。先回ってくれる夜嗣がいないと、詰んでいたことが多すぎること多すぎること。反省します。


 学園の近くには武器屋や防具屋、雑貨屋や金物屋、飲食店というように、いろんなお店が建ち並ぶアーケード商店街が存在しているので、買い物は一箇所でできてしまうのがありがたい。まあ、大体が学園生に向けた初心者向けのお店なので、自分で開拓する必要もあるにはあるが。デパートはデパートでまたあるのだから、買い物の幅は広いはずだ。あれ、デパートじゃなくて百貨店だっけ? どちらでも同じだっけ? とこんがらがってきたので、深く考えることは止めましたが。結論は『え、知らない』である。知らないものは知らないんでね。


 なんだかんだと午前中の授業を終えて、なにを食べようかなあと食券に並んでいたわけだが、横から「兄様!」という弾けた声が響いた。と同時に、躯には衝撃がある。「どぅわっ!?」と変な声が出てもすぐに「んぐぅ!」と詰まってしまったのは、柔らかなものに顔が埋まったからだ。


 ううん? はい? 柔らかなもの……? ってなんですか?


 クエスチョンマークしか浮かばない頭では、なにがなんだか理解できなくなっている。あとはなんか、息苦しいような違うような。え、なにが起こっていますかね、いま。


 声から察するに、なぜここにお嬢様がいるのかは解らないが、やってきてしまったものはしかたがない。目立つけどね。凄まじく目立つけど! 俺は平穏にいきたいから、わざわざ俺を構う必要はないんだけどもね! 言っても聞いてくれなさそうな雰囲気はひしひしと感じていますが。


「静伊、沙千さんの顔を見てみて」

「いやああああ! 兄様ぁ!」


 あ、なんか声が遠いわー。マジでなにが起こっていたりするんですか? 誰か俺に教えてくれませんかね。ええ、ええ、解っていますよ、驚きでそれどころではないということはね!

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