05 学園では平穏にいきたい(5)

 特進科の秘密を知ってしまった俺はといえば、他言しないようにしようと誓う。誰にというわけでもないが、公にしてよいものでもないと思うのですよね。夜嗣はこうして特進科の――というのか、学園の内部事情に詳しいことが窺えるが、夜嗣については夜嗣自身がどうにかするであろう。俺は夜嗣ではないからね、そこまでの責任は持てません。


 こちらのどうにかしたいことはどうにもならなかったわけだし、これはたとえ先生に相談しても無意味ですわ。クマ次郎が無理なことを、あの担任が解決できるはずもない。あの人は年中、腐っているので忙しいんだ。邪魔をしてはいけないよね。餌食にもなりたくないし。


 それはそれとして、聞きたいことはなくなったので、この場から離れようとソファから立ち上がるが、「嫌!」「嫌ですー!」と悲痛な叫びが部屋に響く。躯に加わった衝撃とともに。


 な、なに? なにが起きたのかと軽い痛みが残る横腹あたりに視線を遣ると、クマ次郎がいた。嫌々と頭を振っている。どうやら先程の叫びは、どうにか夜嗣から抜け出して、俺の腰に抱きついてきたであろうクマ次郎の叫び声だったようだ。離れ難いことがありありと解るのだが、クマ次郎は重要人物なのだ。いや、人ではないから、重要クマか? 重要ぬいぐるみ? もうこの際、人でもクマでもぬいぐるみでもいいが、勝手に移動させてはダメだろう。クマ次郎が俺といたくとも、超えてはならないものはきちんと存在している。俺ではそれを取り除くことは難しい。ただの凡人だからね。コネもツテもないのなら、そんなものよ。


 ふぐぐと泣くのを堪えているテディベアを一度抱きかかえると、丸テーブルに戻してやる。ここにきてティーセットは消えていたし、問題はなさげなのでね。


 なにを勘違いしているのか、ついにはあうあうと泣き出したクマ次郎の頭を撫でながら、「ちょっと待ってて」と思考を巡らせる。渡すにはなにがよいのかと。


 ハンカチは手を拭くのに使っているからダメだし、学生証はもっとダメだ。いまこの場では制服姿でしかないからなあ。カバンには菓子が入っているけど食べかけだし、うーん、なにがいいかなあ……。あ! ネクタイはいけるか? 腰に巻けば大丈夫そう? そうだな、いけそうだな!


 ネクタイを解きながらそんなことを考え、クマ次郎の腰へと結びつけてやる。蝶々結びが少々歪になったけれども、概ね大丈夫そうだ。ぬいぐるみだし、ウエストの関係でなんとかできたかもな。


 クマ次郎はおそらく、置いていかれると思っているのだろうけど、半分正解で半分間違いである。肝心なことは言っていないので、まだ置いていく気はなかった。まだね。


「クマ次郎、そのネクタイをプレゼントするから、俺だと思って大事にしてくれ」

「マスター! ふわわー!」


 よし言ったと、ふたたび頭を撫でてやる。これで帰っても問題はないだろう。いつも一緒にいられることだしさ。いやー、いい仕事をしましたよー。とっさにしては。


 キラキラした目で見てくるクマ次郎はなぜだか蝶々結びの端を手に取って匂いを嗅ぎ始め、悦に浸っている。「マスターの匂いです!」「いい匂いです!」とな。ネクタイの匂いはネクタイの匂いしかしないと思うのだが、大丈夫か、このぬいぐるみは。こうなると、将来が心配になってくるな……。主に性癖について。


 軽く引いていると、「へえ」という夜嗣のひっくい声が耳元で聞こえてきたので、「ひんっ!?」と変な反応になったではないですか!


「耳はやめろぉ!」

「ああ、ごめん。なにをするのか気になって。しーちゃんには俺のネクタイをあげようね」

「風紀がうるさいもんなー」

「そういうこと。こちらにはちゃんと替えはあるし、問題ないよ」

「ありがたくもらっとくな!」


 怒られるのは嫌だしなー。風紀に捕まると長い説教に次ぐ説教という噂だし。そんなのに時間を潰されるぐらいなら、夜嗣との魔法の練習にあてたいわな。俺に伸びしろはないけれども。それに個人講義は眠たくなるし。寝てはいけないと解っていても、魔法の理論は難しいんだよなあ。書かれている魔法式を見ているだけでも頭が痛くなるのは、昔から直ってないわ。


 あげようねの言葉の直後に、「はいどうぞ」と、渡されたネクタイ。綺麗な円形に畳まれたそれは、差し出した手のひらに載せられた。どこからともなく現れて――。空間庫かアイテムボックスか、そんな能力を持っているのだろう。便利すぎる能力は俺も使いたいが、生憎と授かってないんだよなー。はー、羨ましいですな。


 うへへうへへと締まりなく笑うクマ次郎を横目にネクタイを結び直して、今度こそこの場を去ろうと踵を返すが、「!」と強い力で腕を掴まれてしまう。な、なんですか!? ちょっといま転けそうになったんですが!?


 いや、それよりも! なにを言った――? 


「え、に、兄様……?」


 なぜか荒ぶりだした流々是さんの口からもたらされた言葉には反応が鈍くなる。いや、オウム返しはできたが、それだけだ。俺の頭の中には、『兄様とはなんですかね?』の一点しかない。ええ……、突然どうしましたか? 俺はひとりっ子であって、上も下もいないんですが? まさかの、先生をお母さんと呼んでしまう呪いが発動してしまいましたか? そうだったなら、そっとしておきますよ? 俺はなにも聞いていないし、なにも見ておりません。ええ、なにも。


「る、流々是さん?」

「兄様はクマ次郎だけ甘やかしてっ! いくらクマ次郎がかわいいからと言っても、甘やかしたままではいけませんよ! いえ、甘やかしは兄様の特技なんですが! しかしですね、特定の者だけを甘やかすのはよくないです! ですから、私も甘やかしてくださいっ」

「流々是さん!?」


 おそるおそる流々是さんを見たが、勢いは止まることを知らないようで、最終的にはわけの解らないことを宣ってきた。詰め寄ってきながら。俺を兄様兄様と呼ぶ流々是さんは、間違って呼んでしまった風ではない。とてもそんな風には見えない。怖いぐらいに平然と、さらりと言っている。まるでそういう付き合いがあるかのように――。


 壁にぶつかる俺を見たことで少しばかり落ち着きを取り戻したのかなんなのか、表情は柔らかめになったのだが、「さあ、早く甘やかしてください」と頭を見せてくる。いやいや、これはまったく落ち着いてないよな? 落ち着くどころか、勢いが残ったままですよね!?


「ちょっ、守青さんっ、見てないで助けてください! 夜嗣もなんとかしろぉ!」


 お嬢様がおかしいよ!? どうなってんの!?


 あわわわと慌てる俺とは対象的に、残りの二人は涼し気な顔をしている。やっぱり特進科だと、いかなる時でも冷静さを失わないように教育されているんだろう。さすが、特進科! 俺も学びたいです!


「確かに、クマ次郎だけ甘やかしたままのは気分が悪いですね」

「はい?」

「しーちゃんはもっと頭を撫でるといいよ」

「なんだって!?」


 違ったあ! 別に冷静ではなかった! にこにこ顔はこれだから解らないんだよぉおぉー! 解るようにしてくれないかね! あー、騙されたわー!


 残りの二人も、錯乱してるのか!? と言いたげなことを言い出し始めて、収拾がつかない。俺はなにも、クマ次郎だけを甘やかした気はないんだけども、三人から見るとどうやら違うらしい。鬼気迫る圧がひしひしと伝わってくるのだから。


 なんなんだよと叫びたくなるが、とにかくこの場を収めるためには言うことを聞くしかない。それが一番の方法だろう。俺が頭を撫でてもどうしようもないとは思うけどな! 代わる代わる頭を撫でながらも、遠い目になってしまったのはそういうことだ。


 どうしてかは解らないが、三人は俺に対して強い好意を抱いているらしい。俺はなにもしていないというのに。謎すぎて怖いですわ。まあ、一番ヤバいのは、この空気の中でも一心不乱にネクタイの匂いを嗅ぎ続けているぬいぐるみかな……。あ、あれ? もしかしなくても、俺の周りには変わった人しかいない感じですか?

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