【高槻の手記】サイバーガール

 それはどう形容すべきか分からなかったが、初めて一目惚れをした時の感覚に限りなく近いように思う。僕にとっては、もう何十年も前のことだが、たぶんこんな感じだったと思う。

 もともと西鷺駅周辺には用事もなく、近寄ることはなかった。しかし、あの時に瀬田に連れられてあの薄暗い階段を下りて行った先に、あのような人が鎮座しているとは夢にも思わなかった。

 清州。瀬田はそう呼んでいた。本名かどうかは分からない。だが、このネットの時代に本名などどうでもいいのかもしれない。華奢な体に、暗い部屋で生活しているせいか白い肌を持ち、長く艶のある黒髪、大きな茶色い瞳……さっきは恋に例えてしまったが、もちろん、僕が彼女に抱いているのは恋心などではない。凄まじいまでのアンバランス。しかし、そこには一個の人間としての調和が存在している。そういうものに不意に出会うことで、僕たちは存在というものを再認識させられるのかもしれない。

 青藍大学での事件が片付いて、僕はなんとかして彼女を≪名探偵チャンネル≫に引き込むことができないか考えていた。

「君が無駄な努力をするような人種だとは思いも寄らなかったよ」

 瀬田による渾身の皮肉も、僕には効かなかった。おっさん二人のむさくるしいチャンネルよりも、華のある方がいいに決まっているのだ。それに、可憐なサイバーガールが鷺市に芽生える悪の芽を摘むのならば、それほどシンボリックなことはない。

 だから、僕は単独で再びあの≪清州電子工作部≫を訪れることにした。蔦の絡まるビルの脇に口を開けた地下への階段は、相変わらずジメジメとしている。階段を降り切って、錆びかかった鉄扉と向き合う。扉の脇のインターホンのボタンを押す。しかし、反応がない。扉の上にある監視カメラは僕を睨みつけて動かない。もう一度インターホンのボタンを押すが、何も起こらない。

 心が折れそうになるが、すかさず瀬田に電話を掛ける。

「瀬田さん、≪清州電子工作部≫って定休日とかあるんですか?」

『知らん』

「インターホン押しても反応がないんですよ」

『今「あっぷる・ぷりんせす!」がいいところだからもう切るよ』

「なんで幼児向けのアニメ観てるんですか、ジジイのくせに」

『お菓子持って行ってないの?』

「なんですか、お菓子って?」

『いや、この前も≪エムズベーカリー≫のやつ持って行ったじゃん』

「え、あれないとダメなんですか?」

『そりゃそうだよ……』

「そういう大切なことは早く言ってくださいよ……」

 僕は電話を切って、階段を駆け上がった。すぐに鷺中央駅へ向かう。やや車を飛ばして≪エムズベーカリー≫まで。

 残念なことに、≪エムズベーカリー≫のメロンパンもクリームパンも人気で売り切れていた。僕は再び瀬田に電話を掛けた。

『なに? 今、公園でかくれんぼしてるんだから邪魔しないでよ』

「なんで小学生みたいな一日を送ってんですか。清洲さんなんですけど、絶対に≪エムズベーカリー≫じゃないとダメなんですか? 別の店じゃダメ?」

『ああ……確か、新鷺中央駅の構内にある≪トシロー・イズモ≫の焼きプリンも好きって言ってた気がする』

「分かりました」

 すぐに鷺中央駅の構内に向かう。今度は≪トシロー・イズモ≫の焼きプリンを六つ手に入れることができた。なにやらテレビでも紹介されたらしく、ポップが飾ってあった。プリンの入った箱を抱えながら、再び≪清州電子工作部≫の鉄扉の前に立った。

 インターホンを押す。清州にどう話を持ち掛ければいいか頭の中でシミュレーションする。しかし、またもや反応がない。監視カメラに≪トシロー・イズモ≫の箱を見せつける。それでも反応がない。

 僕は打ちひしがれたような気分になったが、三度瀬田に電話を掛けた。

「瀬田さん、清洲さんが出て来てくれないんですよ」

『あのさ、今、轆轤ろくろ回して湯呑の形整えてる最中で集中しなきゃいけないのよ』

「なんで一気に大人の趣味みたいなことしてんですか。そこは子どもっぽいことしててくださいよ」

『今度は何?』

「≪トシロー・イズモ≫の焼きプリンを持ってきてるのに清洲さんが扉を開けてくれないんです」

『また今度にしたら?』

「プリン一個七百八十円もしたんですよ」

『この前、俺から四万も持って行ったんだからいいだろ、それくらい……』

 まだ根に持っているらしい。器の小さい男だ。僕は怒りに任せて電話を切った。≪清州電子工作部≫の前を立ち去ろうにも、不完全燃焼のままでは後ろ髪が引かれる思いだ。

 すると、知らない番号から電話がかかってきた。

『ボクの店の前でウロウロしてるみたいだが、目障りだから消えてくれ』

 清州の声だった。

「いや、なんで僕の番号知ってるんですか?」

『お前の電話番号を突き止めるくらい訳ないことだ』

「中に入れてくれませんかね。話したいことがあるんで」

『今は無理』

「いいじゃないですか、ちょっとお話しするだけですから」

『今、ドバイにいるんだよ』

「……はい?」

『お前、ボクが引きこもりのオタクだと思ってるだろ』

「まあ、正直、そういうイメージではいました」

『そのプリン、消費期限が早いからすぐに食べないと腐るぞ』

 一方的に電話が切れてしまった。

 あの暗闇が友達みたいな少女がドバイに? 何をしに? どうやって電話番号を突き止めた?

 疑問は尽きない。だが、今は瀬田にこう持ち掛けるつもりだった。

「プリン食べません?」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る