【時代逆行】文明の利器禁止で事件に首突っ込んでみた EP11
細い道はあらかた除雪されていた。除けられた雪は道の両脇にこんもりと山になっている。瀬田はそんな路地をしっかりと踏みしめながら走っていた。
「そのマンションです!」
前を行く瀬田の背中ん高槻の声が飛ぶ。指し示すのは、八階建てのマンションだ。瀬田は振り返ることもせずマンションのエントランスに向かおうとして、電柱のそばで作業の準備をしていた男を思いきり突き飛ばしていった。
「ちょっと!」
男が叫ぶ声に高槻が頭を下げる。瀬田はマンションの中に入ると、エレベータではなく階段へ飛び掛かった。
「高槻くん、何階?!」
「八階っす!」
「なんで最上階に住んでやがるんだよ!」
呪詛の言葉を吐きながらも、瀬田は二段飛ばしで階段を駆け上がる。マンション中に響き渡りそうな足音で一気に最上階までを昇りきる。凍えるように寒いのに瀬田の額には玉の汗が浮いていた。瀬田はそれを拭うこともせず、廊下を速足で行く。
「何号室?」
「八〇二……ここです……」
焼けるような肺に喘ぎながら、高槻は膝に手をついた。瀬田は息を整える間もなく、インターホンを押した。無言の中、二人の激しい息遣いだけが焦燥感を駆り立てている。しばらくして、応答がある。
『はい』
瀬田はインターホンの横に手をついて、汗を垂らしている。
「相見東生……お前に引導を渡しに来た」
返答はなかった。インターホンの受話器を置く音がして、すぐにロックが外れ、ゆっくりとドアが開いた。顔を出したのは、小柄な若い男だった。その表情はどこか達観していて、この時が来ることを予期していたかのような空気をまとっていた。
「中にどうぞ」
東生は二人を中に招いた。単身者用のワンルームマンションだ。キッチンは使った形跡すらない。カーペットが敷かれた上に低いテーブルがあり、部屋の隅にはベッドがある。最低限の物しかない空間……その中に目を引くものがあった。
「これは……」
高槻が一面の壁を映像に収める。大きなコルクボードが立てかけられ、海外ドラマでよく見るような形で顔写真や記事のスクラップ、地図などが大量に貼りつけられている。
「何もないですが……どうぞ」
カーペットの上を示して、東生はテーブルのそばに腰を下ろした。瀬田と高槻もカーペットの上に胡坐をかく。二人の訪問者をじっと見つめて、東生は言った。
「大学で色々調べてる人がいるとウワサになってました。お二人のことですよね」
「なんでここに来たか、分かってるみたいだな」
「はい……」
近づいていた救急車のサイレンが少し離れたところでパタッと止まった。瀬田は手に持っていたスプリングタイムのCDをテーブルの上に投げ置いた。カラカラン、と乾いた音がする。
「これを仕込んだのはお前だろ」
東生が感情の分からない視線をそのCDに向けた。
「ずっとこの時を待っていました。あのゴミクズに天罰が下る時を」
「あの男がああなると分かっていたのか」
東生は微かに笑みを浮かべた。
「あいつは藤枝といいます。いつもは朝七時四十分頃にそこの道を通って新鷺駅に向かうんです、自転車で。ですが、今朝は昨日の吹雪であいつの自宅の庭はめちゃくちゃになっていたはず。あいつは妻には頭が上がらないから、雪かきや掃除をすることになる。当然、いつもより家を出る時間が遅れる……。八時頃には小学生の集団登校のグループがあの道を通ります。出くわすことになれば、自転車のまま車道に出て子どもたちを避けて走るでしょう。その辺りに水を撒いておけば、たまらずに自転車のまま転倒する。バスもちょうど同じ時間にあそこを通ります。運転手はローテーションで変わりますが、今日の運転手は強い光に弱く、蒸発現象を起こしやすい。一瞬だけでも前が見えなくなれば、車道に転倒しているあいつへの反応が遅れることになる」
淡々と言葉を発するその姿はロボットのようだった。
「膨大な量の調査をして、何度もシミュレーションをして、何度も試したんだろ。偶然の手によって、あの男を亡き者にしようとして……」
「偶然の手……? じゃあ、事故が起こるような状況を作っていたってことですか?」
高槻は恐ろしくなって東生を一瞥した。
「何百……いや、何千回も罠を仕掛けました」
「なんでそんなことを……」
高槻を見つめる東生の目は冬の空気のように冷たい。
「あいつに報いを受けさせたかったからです」
「ずっと引っ掛かってたんだよ」瀬田が言う。「この付近で目撃された赤いコートの女は≪赤いコートのカナコ≫と違って赤い傘を差していた。雨も降っていないのに。その理由は簡単で、顔を見られると男だとバレてしまうからなんだよ」
「え? じゃあ、東生さんが……」
東生は頬を緩ませて立ち上がると、クローゼットを開け放った。そして、中から赤いコートや赤い靴、赤い傘を取り出してカーペットの上に投げ捨てた。
「昔から体も小さくて、よく女の子に間違われていたんです。だから、僕でも≪カナコ≫になれると思ったんです」
「〝≪カナコ≫になる〟……?」
不気味な言葉に高槻は眉根を寄せた。瀬田はうなずいた。
「≪カナコ≫が現れれば、安倍川夏子がやってくるかもしれないでしょ」
「そのために≪カナコ≫の振りをしたんですか?」
「そうだよ。だから、中央棟の掲示板への視線は全部ブレイクダンス部に引き寄せられて完全な死角になったんだよ」
「そこに繋がるんですか……」
「あとはあの二人の学生が言ったとおりだな。安城が外に誘き出されて、試験問題のデータを掠め取るトラップを仕掛けたわけだ」
「姉はね」東生が静かに口を開いた。「いくつもの偶然が重なって、あんな最期を迎えることになってしまったんです。その一翼を担ったのは、安城なんですよ」
「偶然……」
高槻がつぶやく。
「俺の想像はこうだ」瀬田が話し始める。「五年前、紗南さんは夜の大学で、生きる力を挫かれるような出来事に見舞われた。その現場は研究室棟の裏手だ。ちょうどその頃、鷺市では通り魔が捕まったわけだが、その時に警備員の幸田が怪我を負ってしまった。埋め合わせに入った臨時の警備員は大学のことをろくに知らず、巡回にも漏れがあった。研究室棟の裏手は防犯カメラがないから警備員が目視で確認をしなければいけないところを仕損じた。だから、紗南さんは警備員に助けられなかったんだ」
「一体どういうことですか?」
「金山さんが言ってただろ。以前にも安城の研究室には試験問題を盗もうとして侵入しようとした奴がいるって。紗南さんはちょうどその現場に居合わせて……口封じされた」
「口封じ……でも、彼女は自宅で自分で……」
「紗南さんを襲った連中は酒に酔っていた。その頃はまだ学内で酒を飲んでもよかったんだろう。その犯人たちのリーダー格が、あの藤枝なんだろう。当時、奴が学生だったかは知らんが──」
「OBでした」東生がすぐさまそう付け加えた。「あいつが焚きつけたんですよ。安城を見返してやろうって。姉は篠原に作業を押しつけられて夜遅くまで作業をしていたんです。篠原は通り魔の件でテレビに出ていましたから。その作業が終わって、姉はやっと帰るところでした。そこで、藤枝たちに出くわしてしまったんですよ」
高槻はコルクボードに目をやった。
「お姉さんのことを調べるために青藍大学に入学しようとしたわけですか」
「それもありますが、姉は真実は僕だけには伝えてくれました」
「それがあのレターパックか」
東生はクローゼットの奥に押し込まれた衣装ケースから一冊のノートを取り出した。
「思い出したくなかっただろうに、あの時のことを全て書いてくれていました。僕はその裏づけと、あのゴミクズに罰を下す方法を探し続けていました」
「安城先生がお姉さんの最期のきっかけの一つとなったっていうのは……?」
「学生をバカにしたような安城の態度のせいで、藤枝たちは試験問題を盗み出そうと考えついてしまった。それに、安城があの夜も研究室で作業をしていたのなら、姉はあんなことにはなりませんでした。声を上げれば助けを求められたかもしれないのに……。どうすれば救えただろうかとずっと考えていたんです。試験問題を盗み出す時、掲示板に囮の封筒を貼りつけました。安城は試験問題の流出を恐れて、問題を差し替えた……夜までかかって。皮肉なもんですよね。姉を救う方法がこんな風にして見つかるなんて」
東生はフッと息を吐いた。憑き物が落ちたように、背中を丸めて生気のない顔を手に持った紗南からのノートに向けていた。
「そのノートは警察が証拠として持って行くかもしれない」
瀬田がそう言うと、東生は力なく歯を見せた。
「分かってます」
東生は覚悟していたかのように、スッとノートを瀬田に差し出した。何度も読み込んだのだろう。端はボロボロになっている。
「藤枝さんのこと……東生さんを罪に問えるんですか?」
高槻が聞くと、瀬田はうなずいた。
「たぶんね。殺意はあったからね」
ゆっくりとノートを開こうとした瀬田のすぐそばで、東生が音もなく立ち上がった。彼はベランダに続く窓を開けて、勢いをつけた。
「バカ野郎!」
瀬田が叫ぶより早く、東生はベランダの向こうに身を投げた。二人してベランダに駆け寄る。外で男の悲鳴が聞こえる。ベランダの手すりに手を掛けて、眼下に目を向ける。道の脇にこんもりと山になった雪の中に東生が呆然とした表情で仰向けになっていた。
「大丈夫か?!」
電柱で作業をしていた男たちが口々に叫ぶ。瀬田たちは急いで部屋を出ると今度はエレベータに乗って一階まで下りた。外に出て道に出ると、雪の上で大の字になった東生が力なく笑い声を上げていた。その週には作業員たちの姿がある。
「何があった?」
瀬田には意味不明だった。八階の高さから落ちれば、下が雪でもただでは済まない。だが、東生は明らかに無傷だった。
「途中で電線に引っ掛かって……」
作業員たちが異口同音に言う。
「感電は?」
「ちょうど停電作業をしてたんですよ」
瀬田と高槻は思わず顔を見合わせた。偶然が重なって、東生の命は守られた。そこに、紗南の存在を感じずにはいられなかった。
* * *
警察がやって来て、東生の身柄を確保した。警察によれば、大学での試験問題流出も不法侵入や不正アクセスなど刑事事件として扱う見込みらしい。瀬田と高槻はひと通り事情聴取を受け、それが終わったころには辺りはすっかり暗くなっていた。
そのまま二人は≪梟亭≫のボックス席に収まることになった。
「今日は疲れたよ……」
テーブルの上に突っ伏して瀬田が溜息をついた。
「朝早かったですもんね」
「というか、今回はずっと疲れてたからね」
高槻からスマホが返却されたが、それに手をつける様子はない。
「しかしまあ、今回は色々と凄かったですね。大学にパソコンにオカルトに偶然に……」
「四万も搾取されたからな」
「いや、そのうちの三万は瀬田さんが自分でやったことですからね」
「なんで事件解決するのに四万も払わないといけないんだよ」
「でも、一万でも嫌だって言ってたわりに結構やる気だったじゃないですか。結局、口ではギャーギャー言っておきながら、根は探偵なんですね」
「まあ、大学が謝礼くれるからね」
「大学にはどうします? 明日あたり行ってみますか?」
「そうだね。謝礼くれるからね」
譫言のように繰り返す瀬田に目をやって、高槻は聞いた。
「コーヒー飲みます?」
「そうだね。謝礼くれるからね」
謝礼ゾンビと化してしまった瀬田に呆れつつも、高槻は手元に置いた青藍大学の手帳をパラパラとめくった。
「しかし、瀬田さん、いつの段階であんな仮説を組み立てたんですか?」
瀬田はようやく身を起こして背もたれに身を預けた。
「昨日さ、相見家に電話したじゃん。アレのちょっと前くらいだね」
「瀬田さんにしてはギリギリまで分からなかったんですね」
「だって、色々込み合ってたからね」
「試験問題の流出に関わってた学生もそのうち警察が炙り出しそうですね」
「もう俺は疲れたから、あいつらに任せたよ」
「それにしても、あの清洲さん、なんともすごい存在感でしたね。地獄に咲いた花みたいな」
「清州に需要があるとは思えんけどね」
「いや、そんなことないですよ。絶対人気出ますよ。また≪清州電子工作部≫行きましょうよ」
「あのさ、高槻くんさ、清州のところだけ異常に再生数伸びてたら俺は泣くよ」
おそらく泣くことになるだろう。
「いつも事件の振り返りをしてるじゃないですか。今回はどうします?」
「面倒だからやりたくない」子どもみたいなことを言う。「それに、振り返りのところだけ観ればいいとかいう奴が出てくるから、それは癪に障る」
今度は動画配信者然とした意見を放った。
「たださ」瀬田は真面目な顔になる。「東生の両親にとっては辛い結末だよな」
「そうですね。五年前と今回で……でも、東生さんの命が助かっただけでも良しとしないとって感じですよね」
「どんなに辛い状況でも偶然によって希望が見えることはあるわけよ。生きていさえいればね」
物悲しい表情を浮かべる瀬田にそれ以上の何かを聞く気は高槻にはなかった。
「じゃあ、今回の尺はちょっと短いですが、締めますか」
「うん」瀬田はカメラを見る。「観てくれてありがとうな。フォローといいね、いつも言ってんだから忘れるなよ。……お腹すいたからナポリタン食べようぜ」
「そうしましょう」
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