【高槻の手記】子ども時代について

 瀬田が言っていた「日向にいる人間は日陰を見ない」という言葉が引っかかっていた。あの島田夢の失踪を調査するにあたって、何度も鷺市立第二小学校に赴いた。その度に、瀬田が教師たちに見せる一種アナーキーな姿勢から彼がろくな子ども時代の思い出を持っていないらしいことは何となく分かっていた。彼が何を思ってあんなことを言ったのか、僕には見当がつかなかった。

僕にとって子ども時代というのは、際限のない世界を感じながら自由に飛び回るような飛翔の時代だった。だから、今回の事件の中でどこか陰鬱な雰囲気を漂わせるまだ幼い子どもたちが、まるで別世界の住人のように感じられた。その点、瀬田にとっては彼らを理解するのはたやすいことだったのかもしれない。茶化して瀬田の子ども時代について聞いては見たものの、彼の様子にそれ以上踏み込むことはできなかった。

 子どもの頃はといえば、全力でぶつかり合って拳も言葉をもぶつけ合ったものだ。だからこそ、相手の拳にどれくらいの思いが込められていて、どれくらい相手の心を傷つけたかが分かった。こんなことを言うと時代錯誤と言われるかもしれないが、本当に誰かのことを理解しようとすれば、殴り合って罵り合うしかなかった。大人になってから全く馴染みがなかった小学校に足を踏み入れて、子どもたちはひどく窮屈な世界に閉じ込められているように見えた。もしかすると、子ども時代の瀬田もそういった世界の狭さを身に染みて感じていたのかもしれない。

 大昔は、子どもというのは未完成な大人だと考えられていた。世の中は大人が中心になっていたわけだ。そこには、子どもという概念すらなかった。では、大人と子供の違いとは一体何なのだろうか。

 大人が見る限り、子どもは理性的とは言い難い。すぐに感情的になり、善悪の判断も曖昧で、法の遵守能力も比較的低い。大人が全てそうではないというわけではない。だが、大人と子どもとの間には理路整然さに明らかな違いがある。自分の考えや感情や身の置き所といった自分自身というものが整理されているか否かということだ。

 大人の社会に放り込まれた子どもたちは、大人のロジックを当て嵌められることになる。そのことに気づく者と気づかない者がいるのだろう。僕は後者だった。子どもというのは残酷だ。よりエネルギーの強い者、より数の多い方、より声がデカい者が分かりやすく教室を支配する。その構造はそのまま大人になっても維持される。子ども時代と違うのは、その構造自体が整理され、経済力が加わっただけだ。だから、子どもの理論はそのまま大人の理論になっている。どうあるべきなのかは誰にも分からない。だが、大人によって、そういうものだと決められているだけだ。

 日向にいる人間は日陰を見ない。

 大人になった僕にも思うところがあった。社会からドロップアウトするあの感覚を、瀬田は子どもの時にすでに味わっていたのだ。大人でさえ受け止めるのが厳しいこの巨大な構造を子どもの小さな体が受け止めきれるはずがない。

 誰もが分かっているはずだ。この構造の中で、部屋の片隅に固まるホコリのようにはなりたくないと。そうなってしまうことは、自らの人生を丸ごと脇役に押し込んでしまうことに等しい。他人のために人生の時間を消費する日々を誰が望むのだろうか。誰もが自分の人生を主役としていきたいに決まっている。誰かのサポートに回ったとしても、だ。

 瀬田が見せたアナーキーな表情というものは、そこから発せられているのかもしれない。自分一人だけではこの構造をどうすることもできない。かといって、社会的弱者たちが束になっても何かが起こるわけでもない。たとえ、この構造の中で革命を起こしても、訪れるのは強者と弱者という二層構造に他ならない。血気盛んな子どもはいるが、そういう大人がいないのは無駄なことだと分かっているからなのかもしれない。だから、何もかも諦めてしまう。

 以前、通っていた小学校に行ったことがある。校舎も校庭も遊具も教室も全てが小さく見えた。あれだけ広く大きく見えたのに、いつからあれほどまでに小さくなってしまったのだろうか。

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