第22話 『夢幻物語』とペンネーム

 短い間を取った恵美。唇を湿らせると、話を再開する。

「悦子さんがいなくなってしまって、私、どうにかなってしまいそうだった。小説のことを話し合える友達と、小説のことを教えてくれる先生と、私にとっての目標でありライバルである人を、一度に失った――そういう感覚。いつまでも続いて、ショックが取れなかった。

 それが、二月も終わり頃になって、ふと気が付いたの。ああ、二月末は、悦子おねえちゃんが次に投稿しようとしていた賞の、締め切りなんだって。そう意識した途端、急に、書こうという意欲が湧いてきた。悦子おねえちゃんの分も頑張ろうって。

 初めて書くというのは、不安だったけれど、せめて第一作は、自分だけの力で書いてみようと、心に決めた。悦子おねえちゃんのことを思い出して、頼ってしまわないように、『悦子さん』と呼ぶように心がけた。ただし、ペンネームぐらい一緒にいてもらおうと考えたわ。『井藤悦子』を少し変えて、『藤井恵津子』。『恵美』の『恵』を入れさせてもらったの」

 恵美は適当な紙に、「藤井恵津子」と記した。

「ペンネームまで考えてたの?」

 ちょっとびっくりしたように、桃代が言葉を挟む。

「え、おかしいかな?」

「だって、自分で書いている分には、ペンネームなんていらないんじゃないかなと思って。どこかに投稿するなら、ともかくさ」

「私、最初から投稿する気だったもの」

 あっさりと、恵美。またびっくりするのは、桃代と津村。

「いきなりかい? 詳しくないけれど、どういう賞に……」

「ファンタジーアンドミステリー大賞、通称F&M賞っていうやつ。この賞、去年の第一回目のとき、悦子さんが最終選考まで残っているんだよ。だから、これを目安にしてやろうと思って、狙いを定めたの」

「てことは、長編か……。よくやるな」

「よく考えてみれば、そうかもしれないけど、そのときの私の頭には、F&M賞しかなかったのよ。自分の力でどこまでできるか、それが知りたくて」

「それで、首尾は? そもそも、書き上げられたの?」

 桃代が心配そうに言う。すでに過去のことを心配してくれるのは、わずかばかりの滑稽さと、大きな温かさを感じる。

「うん、『夢幻物語』という題名の、ヒロイックファンタジーを完成させることができた。枚数は三百枚ちょうど。結果は……まあ、順番に話すと、最終選考まで残ったのよ。運よく」

「ええ? 本当に?」

 桃代が声を上げる。すると、いつの間にか来ていたお客が、怪訝そうに視線を向けてきたため、すぐに声を落とす彼女だった。

「凄いな……」

 津村は、低くつぶやくように感心していた。

 恵美はしかし、聞き手二人の言葉に被せるように、話を続けた。

「えっと……。九月十五日、これまでにないくらい緊張していたと思う、私。その日は、『最終選考の結果をお知らせしますから、自宅にいてください』と言われてたから。電話の前で待っていたいんだけど、親にも話していなかったから、変に思われちゃいそうだったし、朝からずっと、部屋でじっとしていた。恐さと期待感、一緒になってぐちゃぐちゃ。

 電話の内容は……ペケ。悦子さんと同じ、最終選考で落ちちゃった。もう、魂が抜けた感じ。それからしばらく、何もやる気が出なくて、無気力状態」

「どうしてさ?」

 二人が、一斉に聞き返してきた。言葉を続けたのは、津村の方。

「そりゃあ、最後に落ちたのは悔しいことだったろうけど、初めて書いた小説で、そこまで行けたんだから」

「だけどね、私にとって、この結果って、とっても曖昧な気がしてさ。ここにはないけど、雑誌に載った選評での欠点の指摘も、悦子さんの作品に対してされたのとほとんど同じ。新味に乏しいっていう見方ばかり。

 それから、悩んじゃって。私ったら、悦子さんの作品に向けられた言葉を、ちっとも理解していなかった。頭で分かっていても、実際にはできなかったんだって。悦子さんの分も頑張るって決めたのに、全然、進歩がなかったという風にも受け取れるじゃない。それで、落ち込んじゃった訳」

「あー、それで障害物競走も負けたか」

「違うって」

 桃代の茶々に、声を立てて笑う恵美。話し始めるときは重かった気分も、もう楽になっていた。

「そうか……。そんなときに、俺、しつこく、君に頼んでいたんだ。悪い。君の気持ち、全然、考えていなかった」

 津村が、言いたくてたまらなかったという風に、早口で述べ立てた。

「そ、そんなことないよ。私が自分で勝手に、落ち込んでただけ。それにあの頃って、最低だったから。雑誌で、選考委員の人達の批評を読んで、全然、だめみたいに思えてきて。受賞作とは天と地ほども、差があるみたいな」

「ははあ……。恵美、あんたはつまり、批評されることに慣れていないよ」

「慣れていない?」

 桃代の言葉に、きょとんとする恵美。

「多少のきついけなしぐらい、新人賞では当たり前よ。あたしは美術関係の賞しか知らないけれど、小説の賞でも漫画の賞でもいいから、色々と選評に目を通してみなさいよ。すっごいのがあるから。今の恵美だったら、こんなこと言われたら気絶するんじゃないかって思えるぐらい、厳しいのもね」

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