第18話 思い出にとらわれても

「先輩、そろそろ交替の時間でーす!」

「あ、もう、十二時半」

 美術部後輩に応じながら、時計を確かめる桃代。

 恵美は、言葉の矛先を収めざる得なくなった感じだ。

「あれ? 副部長はどうしたんですか?」

「あいつならね」

 桃代は、恵美へ視線をよこして、片目をつむった。



                 4


 キャンパス内で、優は、四年生の知り合いと顔を合わせた。黙って会釈し、すれ違うだけで済ませようとしたが、呼び止められた。

「縁川君、ちょっと」

 すでに行き過ぎていた優が振り返ると、柴原理世子――文芸部の前の部長――が立ち止まり、小さく手招きしている姿が目に入った。白い肌を、淡いチェックのコートで包んでいる。

「何でしょうか」

「もう大丈夫? 一時は、私達より学校に来る日数が少なかったみたいだけど」

 柴原の小さな口から、息が白くなって広がる。十一月の寒い日だった。

「はい、何とか。ああ、すみません、ご心配をおかけして。僕みたいなのに」

「何を言うのよ」

 柴原は長い髪を揺らし、教育棟の壁に掛かる大時計の方を見やった。

「時間、ある? ここじゃ寒くて、まともに話しできないから、学食か喫茶で」

「はあ、まあ、暇ですけど」

「よし」

 学内喫茶に向かう。学生食堂より小規模だが、店内はこぎれいで、メニューの方は気の利いた物が揃っている。

「お腹、空いていない? トーストサンドか何か、頼む?」

「食生活が不規則で、そういう感覚はあんまり……。入れようと思えば、入りますよ。おごりでしたら」

「それなら」

 くすっと笑って、注文をする柴原。

 しばらくして、できたメニューをセルフサービスで運び、席に着く。

「とりあえず、食べて」

 コートを脱ぎ、脇に置きながら、柴原が勧めてくれる。

 言われるがまま、手にパンを取る優。それにぱく付いていると、相手の苦笑している表情が目に入った。

「な、何ですか?」

「それだけ食欲あれば、大丈夫だなって。そう思って」

「……」

「思い出したくないことかもしれないけど……井藤さんのお葬式のとき、縁川君の様子、端から見ていられなかったわよ。ずうっと落ち込んでいるかと思ったら、急に大声出して泣き出したり、わめいたり……。精神的に参ってるな、大丈夫かなって、本当に心配したんだから」

「す、すみません」

 優は、耳まで赤くなっているのが、自分でも分かった。

「謝ることなんかないわ。ちょっぴり、井藤さんの親類縁者の人達が、迷惑がっていたみたいだけどね」

「そうですよね、やっぱり」

「冗談よ。それより、今の君よ。口では平気そうに言うけど、普通にキャンパスライフしてる?」

「そのつもりですが」

 そう答えてはみたものの、優に自信はなかった。

「本当に? 人付き合いが悪くなったり、きちんと返事しなくなったり、していない?」

「さあ……どうでしょう」

「噂に聞いたんだけど、家、出たんですってね」

「……知っているんですか」

「それはもう、嫌でもね、耳に入ってくるものなの。中には、悦子の幽霊と結婚すると言い出した君が、親と大喧嘩して、家を飛び出す羽目になった、なんていうひどい噂もあるけど……。変なこと言って、ごめんなさい」

「いえ、かまいません。ああ、そういう風に見られてるんだ、俺」

 他人にどう見られているかなんて、ほとんど考えていなかったことに、今さらに気付く優。

「多分、俺、変わったんでしょう。変わったつもりはないんだけど、変わった。

妹も、どこかおかしいし」

「恵美ちゃんね? 井藤さんと一緒になって、小説を書いていたっていう。井藤さんのお葬式でも見かけたし、去年、学園祭にも来ていたから、知っているわ。あの子も、まだ……」

「どうやら……。三月頃だったか、小説、悦子さんの分まで頑張って書くんだって、張り切っていたのに」

「お葬式の思い出ばっかりになるけど、あの妹さんも、ひどく顔色が悪く見えたから、気になっていたのよ。ひょっとしたら、書き始めてみて、壁にぶつかったのかもね」

「重ね重ね、心配をおかけしたようで。だけど、もう大丈夫ですよ。俺が先に復活しますから」

「私が今、気にしているのは、君が一途だなってことなんだけど。水曜日、用もないのに残って、井藤さんと一緒に帰るようにしていたでしょ」

「はあ」

「今もずっと、井藤さんのことを思い続けているんじゃないかって……。どうかしら?」

 柴原のきれいな瞳に見上げられ、優は一瞬、どぎまぎした。

「え……と。確かに、まだ悦子のことを思っていますよ」

「そう……。私があれこれ言うのはお節介でしょうけど、聞くだけ聞いて。いつかは、井藤悦子さんのこと、心に仕舞い込んで、女の子を受け入れること。分かる? その女の子はきっと、井藤さんと同じぐらい、あなたのことを思うはず。そのときが来れば、あやふやな比較なんかしないで、純粋な気持ちで、受け入れてあげて」

「……分かりました」

 食べるのも忘れて、聞き入っていた優は、たまらなくなった。

 ほとんどつながりなんてないのに、これだけ心配してくれる人がいるんだ。自分は、自分一人だけで生きようとしていたけど、間違っているのかもしれない。少なくとも、周りを見る必要は絶対にある。

 そういう思いが、頭の中を行き来する。

 その内、泣いてしまいそうになった。何だか、みっともないことに思えてきたので、ごまかすために、急いで次の言葉を口に乗せる。

「……女の子が現れてくれる、そういう機会が、あればいいんですけどねえ」

「うーん。とりあえず、前向きにね」

 柴原は困ったような笑顔を見せた。そこまでは、面倒見切れないといったところだろうか。

「そう言えば、柴原先輩、就職はどうなりましたか?」

「嫌なこと聞くわねえ。別にいいけれど。第一志望にしていた企業は無理だったけど、次善の出版関連に運よく」

「こういう時勢ですから、とりあえず、次善でもおめでとうございますと言わせてもらいます。――出版社かあ」

「それがどうかした?」

「いえ、妹が作品を書いたら、拾ってやってくれないかなって」

 冗談めかして優は言った。

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