第五話 蠢くもの

 ──「僕たちの生を輝かせるものはなんだと思う? 金か、名誉か、愛か? 違うね。そんな見当違いが、この世界を沼のように停滞させてしまうのだよ! 僕たちの生は死だ、死によってのみ光り輝くのだ!」   シモン・コペルニー『礼讃と傲慢』




 銀に群青石を混ぜた魔法銀で作られたチョーカー型の拘束魔法具を素早く嵌められ、グラムは自力で首から下を動かすことができなくなってしまった。弱い電流を生み出し生体パルスを阻害する領域魔法を展開することで、生命維持したまま一切の行動を制限する、治安維持局が開発した最新装備だ。グラムがいた頃は、拘束魔法を記述した長い帯を対象者に巻きつけていた。


 法廷内はざわめいたまま、誰もが成り行きを呆然と見守るしかできなかった。やがて、グラムは担架に横たえられ、そのまま魔道法院の外へ運び出された。完全なる無力感の中に浸されたまま、グラムは青い空を見つめていた。まるで夢でも見ているかのように現実感のない状況だった。


「どういうことだ、説明しろ」


 ごく普通に口を開くことはできた。純白の軍団に尋ねるものの、反応は一切ない。そのままグラムは馬車の中に運び込まれた。両脇に四人ずつが腰掛けると、馬車は走り出した。ガタガタと石畳の道を進む。強い震動の中で、グラムは混乱を取り去るような論理を見出そうとしていた。


 ダンテ・パーシヴァルはゼロから作り上げられた架空の身分ではなかった。そして、その男は裁判を押してでも治安維持局が身柄を拘束したがっていた。さらに、拘束に動いたのがこの特殊強襲部隊だ。特殊強襲部隊が実動する状況は多くはない。その中のひとつが、指名手配された重要犯罪者の拘束だ。


 ダンテ・パーシヴァルは西方戦線の中心地であるパゴタ鉱山を襲撃したらしい。


 グラムはエニシングのことを考えていた。彼は報酬で動く人間だ。果たして、ダンテ・パーシヴァルが重大犯罪者であることを関知していただろうか。


 馬車は治安維持局の敷地内に入っていった。やがて建物の前で馬車が停まると、担架に乗ったままのグラムは素早く運び出される。通路を進むと階段を降りて地下に向かうのが分かる。


「おい、知ってるぞ。"消音区"を使う気だろう」


 消音区は文字通り外部に音が漏れない地下区画ではあるが、もうひとつ意味があった。小さな部屋の中に入る。


「よくご存知だネエ」


 高い男の声がした。グラムの乗った担架が大きな台の上に置かれ、病的なほど青白い男の顔が覗き込んだ。


「ダァンテ・パァーシヴァルゥー!」


 魔法銀でできた歯列がギラリと光る。


「何者だお前?」


 顔を思い切り歪めてグラムは獣のような眼差しを男に突き刺した。


「ダンテ・パーシヴァルよ、ここでは、貴様の無許可の発語は微塵たりとも意味をなさン!」


 ギリギリと歯を鳴らすと、魔法銀の短杖をグラムの脇腹に押し当てた。その瞬間に凄まじい衝撃がグラムを襲った。雷撃だった。一秒もない短い時間で意識が肉体から弾き出されるような感覚を味わって初めて、グラムは首から下が泥のように眠っているのにもかかわらず、激痛だけは当然のように駆け巡るのを知った。


 痛みや恐れと共に、かつての自分がムクムクと胸の奥底から首をもたげるのが分かった。


 ──痛みに対して己を乖離せよ。


 ──人間は外界情報を享受する。苦痛は情報の一部でしかない。


 治安維持局特殊強襲部隊の一員として、未知の敵性勢力に情報を奪われることは、所属する国や魔道府の肉薄した危機を意味した。だから、対拷問訓練や極限状態での振る舞いは心得ているつもりだった。


 そして、グラムの頭は常に状況を分析し続けていた。それが十五年前から身体に染み付いた習慣になっていた。


 この男は特殊尋問官と呼ばれる非公式の局員だ。消音区における情報収集、つまり拷問を専門にしている。


「ご存知かネ? 動物は視界を塞がれることで安心感を得る。だが、人間は、全く逆の反応を示すんだヨ。高次的な知性が、見えないものを掴み取るからサ」


 仮面の上から分厚い布が被せられる。不意に冷たい水が顔に浴びせられ、グラムは一瞬呼吸を見失った。濡れて貼り付く布が邪魔をして息が苦しくなる。


 男の魔法具は短杖と歯だ。細かい魔法構造は不明だが、歯を鳴らすことで魔法式が組み込まれた歯から短杖に魔法が転送され、発動するであろうことは容易にグラムの想像の範囲内にある。


 雷撃魔法は古い魔法のひとつで、すでに数百年前には発見されていた。自然現象である雷を乾燥と振動・摩擦に置き換えた環境構成式が構文の中に取り入れられたのが始まりだという。単純な自然現象の模倣だけに、非常に力を持った魔法は、戦場でその威力を轟かせることになる。雷撃魔法も五指に入るほど歴史の中で人間を葬ってきた。


 再びグラムの思考の波を掻き乱すかのように雷撃が加えられる。無言で繰り返される苦痛は、拷問を受ける者に対して逃避する感情を植え付ける。逃避のための条件を与えてやれば、すぐに飛びつくようになる。それが自白に繋がるという理屈だ。


「お前、名前はなんという?」


 布を被せた中から前触れもなく横っ面を引っ叩く声に、特殊尋問官は言いようのない驚きを抱いた。雷撃でダメージを受けているはずだが、発せられた声からは戦きなど微塵も感じられなかったのが不思議だった。


「ダンテ・パーシヴァル、君は自分がどういう状況に置かれているか認識していないらしいネ」


「分かっているさ。パゴタ鉱山で起こった襲撃事件、その際に消えた群青石の行方を知る必要が治安維持局には──」


 グラムの胸に雷撃が打ちつけられる。自分の意思とは関係なく背中を逸らして、潰れた器官から声ともつかない音が絞り出される。拷問対象がそういう音を発するのを見るのが、特殊尋問官は好きだった。


「数分前に言ったことを失念したカ?」


 間髪を入れずに三度、雷撃をグラムの筋骨隆々とした胸にお見舞いする。煙と共に服の繊維が焦げるにおいが漂う。


「君はここでのルールを破ったんだヨ。恨むなら十秒前の君自身を恨むがいいヨ」


 分厚い石の壁で囲まれた小さな部屋には、苦痛を与えるために作られた器具がさながら博物館のように揃っていた。博物館と違うのは、それらがいまでも人間から尊厳を吸い出し錆に変えていることだった。グラムは厚い布の中で、特殊尋問官が何か金属製の道具を取り上げた音を聞いた。


「痛みというのは、魂の叫びダ。痛みを忘れた人間は、魂を鈍化させるものだヨ。魂は叫ぶわけだ、生をネ」


 パチン、と音がして二の腕に激痛が走る。皮膚の上を温かい液体が流れ落ちて行く感覚にグラムは思わず震えた。また同じように音がして、反対側の二の腕を痛みが駆け巡った。


 特殊尋問官は愉しんでいた。愉しんでいたし、それが自白をうまく引き出していた。まだ何も問うていない。だから、ここでのルールでは、拷問対象は答えることができない。特殊尋問官が何を知りたいか解っていたとしても。喋れば苦痛が与えられる。だから、待つしかないのだ。答える権利が目の前にぶら下がるのを。それは、救いと同義でもあった。


 パチン、という音が小さく木霊する。グラムは素早く痛みの種類を選別し、精神を集中させた。自己暗示で痛みに対する感覚を鈍化させる。もともと人間に備わっている自己防衛能力を極限まで引き出すことで、特殊強襲部隊は痛みの耐性を身につけてきた。


「血だらけじゃないカ。見っともないネ」


 喉の奥から漏れ出る笑い声。それは暗い穴蔵の奥底でクツクツと天井や壁、床を叩いて回った。まるで小さな悪魔がそこら中を行進しているようだ。


 凄まじい熱が傷口に押し当てられた。新しい苦痛にグラムも苦悶の声を上げる。


「止血してあげようという優しさだヨ。ありがたく受け取りなさいネ」


 また別の傷口に熱い何かが押し当てられる。二回目にはグラムは静かになっていた。身体を動かすことはできないが、頭の中では思考が縦横無尽に動き回っている。


 グラムは考えていた。この現状は、治安維持局が自分をダンテ・パーシヴァルだと誤認していることで引き起こされている。だが、だからといって、グラム・グランと名乗ればいいというものでもない。グラムは異端者なのだ。社会的にはすでに死んでいる。治安維持局が重大犯罪者の取り違えという大失態を世間に公表するはずはない。このままでは、グラムはダンテ・パーシヴァルとして消音区の中で人知れず命を絶やしていくしか道はない。それが消音区に込められたもうひとつの意味。ここでは、"起こらなかったこと"しか起こらないのだ。


 この状況を脱する手はないだろうか……再び打ち下ろされる雷撃の中で、グラムは必死に考えていた。それは失神した男の姿のように映るかもしれない。


 孤立無援で行動が完全に封印されている。そばには、おそらく腕の立つ魔道士。肉弾戦ならグラムに分がありそうだが、そもそも肉体は使い物にならない。視覚は奪われているが、聴覚と嗅覚はある。そして、声を発する口がある。


 グラムには、万が一に備えて行うことがあった。予め様々な魔法符を作り、様々な場所にばら撒いておくのだ。ダネヴェの街にも複数の魔法を仕掛けてある。プティ救出の最終手段だ。それらは、遠隔でも発動させることができる。そして、その送信元はいまも胸につけている夜半の魔道士バッジだ。中には群青石の欠片を仕込んであり、詠唱すれば魔法を発動できる。街中に仕掛けてある全ての魔法を一度に"発火"させる許可文も記述してある。


 この魔法構造構築には、現在の魔法知識を導入している。現在の魔法技術では、魔法を構成する魔法具や魔法式の構文を分散させることで携帯する魔法具を小型化するのが主流になっている。パラゴーレムの魔法構造もそのトレンドを考慮して仮定的に構築した。グラムがつけているバッジも、そこに魔法式を書き込むことはできないが、別の場所にある遠隔発動の魔法を読み込んで街中の魔法符とリンクするようになっている。


 問題は、その遠隔発動の魔法具を魔道法院の弁護人控え室においたままにしてあるということだった。魔道法廷には魔法具の持ち込みができない。バッジは偽装しているが、遠隔魔法を記述した魔法符の手帳は裸のままで、さすがに持ち込むことはできなかった。遠隔魔法を起動して初めてバッジがスタンバイ状態になる。つまり、街に仕掛けた魔法を使って陽動はできない。プティ救出作戦に暗雲が立ち込めた時に状況を整えるつもりだったが、不意を突かれてそれどころではなかった。そもそもスタンバイ状態であったとしても、外の音がここまで聞こえるかどうかも微妙なところだ。


「ずいぶん大人しくなったものだネ。結局、君も他の取るに足らない犯罪者どもと変わりはないということだネ。先週やってきた男は、初めは威勢がよかったナ。最期には血反吐と涙と汗を流して必死に懇願していたヨ。指なんか一本も残ってやしなかったサ」


 太い錐がグラムの脇腹に挿し込まれていた。深く挿し入れては、傷口を広げる。腹腔内に血液が溜まって死が早まるのを防ぐためだ。身体は正直だ。失血が続くと、意識も少しずつ遠のいていく。死の危機に瀕すると人体は血液を身体の中心に集める。グラムの脇腹からはかなりの血液が流れ出していた。すぐに高温の何かが押し当てられ、傷口が焼かれる。


 特殊尋問官にはタスクが与えられる。拷問対象からの情報獲得だ。だから、この場で殺してしまうと、契約違反になる。話さなければ、死ぬことはない。もっとも、十全の状態ではいられなくなるだろうが。


 彼らが知りたいのは、パゴタ鉱山から消えた大質量の群青石だ。パゴタ鉱山は、アルテアとイストリアの国境にあったが、資源開発に乗り出したのはアルテアだった。そこで大規模な群青石鉱床が相次いで発見されると、イストリアが資源保有権を主張。両者の意見の食い違いは、やがて武力衝突へと発展した。


 西方魔道府が、西方戦線の拡大阻止策として、消えた資源量の明確な把握と周知を打ち出したことは想像に難くない。資源が消えたままでは、両者の対立の新たな火種になりかねない。


 グラムには答えが分かっていた。パラゴーレムを駆動させているのは、パゴタ鉱山から消えた群青石だろう。何者かがなんらかの動機でパラゴーレムを創り、放った。だが、ここで喋れば、それは生命の終焉を意味する。


 なぜなのだろう……グラムは考えた。なぜパラゴーレムの創造者は、こんなことをしたのか。殺戮自体が目的ならば、魔法知識のある創造者ならば単独で行えるだろう。わざわざロジックに従って自律行動するパラゴーレムを使う意味はどこにあるのだろうか?




 プティは騒がしい魔道法廷の様子を確かめたくて仕方なかった。ずいぶん長い間この被告人控え室に閉じ込められている。すぐそばには無愛想な廷吏が、プティが間違いを起こさないように静かに立っている。しばらくすると、入室してくる濃紫のスーツ。背後にはエミリーの姿も見える。彼女は部屋の入り口のところでじっとこちらを見ていた。


「アリさん!」


 この緊張状態にあって、見知った顔に出会えるのは心強かった。


「申し訳ない、パルヴィさん。裁判が無期限休止になってしまった」


「どういうことですか」


 ネイサンは額の脂汗を白いハンカチで拭いながら、困惑したように眉尻を下げた。


「私の補佐が指名手配中の重大犯罪者だったんだよ」


 頭が混乱しそうになりながら、プティはネイサンの言葉を反芻した。


「そんなことって……だってグラムさんは……」


 思わず言ってしまってから息を飲んだ。だが、ネイサンは目敏さを持ち合わせてはいないようだった。


「いや、彼の名前はダンテ・パーシヴァル。魔道府が寄越した弁護人補佐だった。あなたの弁護も彼が精力的に動いていたんだが……どうしてこんなことに?」


「何をしたんですか、その人は?」


「パゴタ鉱山襲撃」


 気づくと、エミリーが不機嫌そうな顔をプティに向けていた。プティは無意識のうちに身を引いて彼女の顔色を伺った。自分にいわれのない罪を着せようとした敵と見做していたのだ。


「そんなことより、いまあなたグラムって言った?」


 エミリーとネイサンの力量の差が一目瞭然となった瞬間だった。法廷で闘うのであれば、どんなに小さな綻びも貪欲に掻き出して来なければならない。


 プティは答えなかった。グラムがこの街、いや、魔道府を含めた社会との間にどのような軋轢を築いたかは知らない。だが、彼の様子からおおっぴらに素性を明かせない理由があるに違いなかった。


 さきほどは、その軋轢が重大犯罪なのではと考えてしまっていた。はたまた、本当の名前がダンテ何某なのかと……。


「私にはトチ狂った行動原理に思える。西方戦線をかき回して、その身体で魔道法廷に潜り込んで少女の無罪を勝ち取る手助けをする? 仮面で顔を隠していたって、露見するリスクがあまりにも高すぎる。それに、偽名を使いもしない」


「……何が言いたいんですか」


 熱を帯びた論理を早口でまくしたてるアルビノの女を前にプティもネイサンも圧倒されていた。


「グラム! あのクソ野郎の声を一瞬たりとも忘れたことなどない! クソ忌々しいクズの権化!」


 いきなり鬼の形相で怒号を発したエミリーには今度は廷吏までも唖然とするばかりだった。エミリーはその指で突き刺さんばかりにネイサンに詰め寄った。


「あなた、補佐とは裁判の準備で時間を共にしたでしょう。詳しく話を聞かせてもらう! パルヴィさん、あなたの身柄はこの後、措置所へ移送される。それまで大人しく待っていなさい」


 エミリーとネイサンは部屋を出て行った。二人連れだってではなく、エミリーがネイサンの首根っこをしっかりと掴んで。




「そいつは、エニシング!」


 旧市街を物凄い勢いで歩きながら、エミリーは叫んだ。追いつくのにやっとのネイサンは息が上がってしまってる。


「え、え、エニシングとは?」


「何でも屋のエニシング! 知らないの?」


「も、申し訳ない……」


 燃える瞳で焼き尽くさんばかりにネイサンを睨みつける。


「もっと色々なことを知りなさい! つまり、この裁判は裏で色々手が回されていたということよ!」


「パーシヴァルさんを送り込んだのが、魔道府ということですか?」


「パーシヴァルじゃない! グラムよ、グラム・グラン! ああっ、口に出すのも忌々しい!」


 行き交う人々が振り向くほど、エミリーは激昂していた。その理由に見当もつかないネイサンはただただ翻弄され、恐れ、逃げ出したい衝動に駆られたが、首根っこを掴まれたままではどうしようもない。


「でも、なぜあの少女を無罪にしたいのか」


「スペンサーさんもパーシヴァルさんも、無罪を信じているようでしたよ。理由は分かりませんが」


「だから、パーシヴァルじゃないって言ってるでしょう!」


「す、すみません……! 誰なんですか、そのグラム・グランというのは……」


「異端要覧で索引でも浚いなさい! この期に及んでまだ姿を現わすつもりなのよ、あのクソ野郎は!」


 とんでもない禁忌に触れているような気がして、ネイサンは何も尋ねることができなくなっていた。何かを言えば怒鳴られると確信すらしていた。


 やがて、丁字路までやって来ると、エミリーはようやくネイサンを解放した。


「あなたは措置所へ行きなさい。パルヴィさんの裁判は無期限休止になった。所外保護申請を出せば、彼女は一時的だけど自由になる」


「どうしてそんなことを、あなたが……?」


 エミリーはやや落ち着きを取り戻して顎に手をやった。


「カラセナ壊滅には、何か裏がある。直感だけど、そう思う。そこにパルヴィさんとあのクソ野郎が絡んでいる。なぜあのクソ野郎がダンテ・パーシヴァルを名乗っていたのかも解らない。パゴタ鉱山襲撃犯のことを知っていれば、そんなことはしないはず」


「私もその件は知りませんでしたが……」


「あなたが知っていれば、あのクソ野郎がこんな目に遭うこともなかったのよ!」


 あまりにも理不尽な叱責にネイサンは思わず食い下がった。


「彼を貶しているのか、案じているのか、どっちなんですか!」


 エミリーは頬を紅潮させて、こめかみに血管を浮かび上がらせた。


「黙れ‼︎ 早く措置所へ行って私の言った通りにしなさい!」


 ネイサンは逃げ去るように駆け出していった。


 ──私が奴を、案じているだって?


 エミリーは大声で叫び出したい衝動を押さえつけながら通りを駆けた。


 グラムは、大切な存在だった。エミリーにとっては、世界の大半だった。少なくとも十五年前は。


「中央魔道府に移ることになった」


 そう告げるグラムは嬉しさを押し殺して寂しそうな目をしていた。空のように青い眼は、その時は曇っているようにすら見えた。簡単に行き来できる距離ではなかった。馬でも数週間の旅路だ。それは二人の間でこれまで築いてきた関係性の終止符でもあった。


 別れ際は意外とあっさりとしたものだった。お互いに自分に言い聞かせていたのだ。もう二度と会うことはない、初めから二人は共に歩む運命にはなかったのだと。


 遠ざかる馬車の記憶がようやく薄れた頃に、中央魔道府治安維持局異端審問会の尋問を受けることになった。


「思想聴問会だ」


 彼らはそう告げた。それが意味するところは、エミリーに副次的異端者嫌疑がかけられていたということだ。副次的異端者とは、異端者の影響を受け、潜在的に異端者になりうる存在のことで、エミリーはグラムと交際していた過去が調べ上げられ、思想聴問会にかけられたのだ。八人の異端審問員を前に質問攻めにあう。そこでエミリーは初めてグラムが異端者になったことを知った。


 不意に現れた過去からの魔手。ずっとグラム以外の男を遠ざけていたことは裏目に出た。思想聴問会にかけられるということは、仮に白であったとしても、社会的には死んだも同然だ。


 西方魔道府治安維持局戦略室の中で将来を嘱望され、自身も明るい未来を描いていた。それが一瞬のうちに抗うこともなく粉砕される。エミリーは行き場のない怒りを、グラムに向けるしかなかった。


 足は治安維持局に向かっていた。入り口を入って正面にある窓口に向かう。


「ここにダンテ・パーシヴァルはいますか?」


 硬い表情を崩さない窓口の男が答える。


「いないと思いますが。少なくとも、そのような報告はありません」


「ここは西方魔道府の治安維持局よ。そんなはずはない」


「厳密には、ここは西方魔道府支部の治安維持局です。お探しの方は西方魔道府本部の方へ連行されたのでは? 我々の方では関知しておりません」


 そんなはずはなかった。魔法令目によれば、事件の下手人と目される者は、身柄を拘束された地を管轄とする治安維持局へ連行されることになっている。ここダネヴェであれば、治安維持局が設置されており、ここで身柄拘束されれば必ずここへやって来るはずなのだ。


 消音区の存在など露知らず、エミリーは西方魔道府が特例でも作ったのかと思い始めていた。


「我々も忙しいんだ。得体の知れない被害が各地で出ている。ひとりの犯罪者にばかり関わっていられないんだ」


「得体の知れない被害?」


「集落や村、街が壊滅しているのが見つかった。すでに六ヶ所だ」


「壊滅?」


「数日前のカラセナと同じようなやつだ」


 エミリーは手帳を取り出してペンを構えた。


「場所は?」


「スタベラ、アルゴーニ、ファル・トーリ、トッカ、ウラキア、そしてカラセナ」


 エミリーの脳裏に展開される地図にピンが刺さっていく。いずれもイストリア領内だ。だが、ひとつだけ不可解なことがあった。それらの街を互いに直線で結ぶと必ず通るはずの場所がある。


「イザベル・エル領は?」


「いや、報告はない」


「なぜ、イザベル・エル領だけ被害がないの?」


 男は苦笑いを隠そうともしなかった。


「勘弁してくれよ、イザベル・エルの逆鱗に触れるようなことはしたくない」


 だが、状況は明らかだ。仮にこれがグラムの言うパラゴーレムによるものだとすれば、意図的にイザベル・エル領を迂回していることになる。恐ろしい推測を思考に移そうとした時、治安維持局の外が俄かに騒がしくなった。


「伝令、でんれーい!」


 窓口の周囲に控えていた局員が駆け出す。


「ヴァレスで襲撃、ヴァレスで襲撃!」


 ヴァレス、ここダネヴェから最も近い街だ。小さいが、輸送路の中継地点でもあり、住人は多い。エミリーは色めき立つ局員が口々に叫ぶのを聞いた。


「詳細未確認だが、ゴーレムと思しき敵影あり!」


 局内にけたたましい鐘の音が響き渡った。治安維持局内の緊急事態宣言だ。靴音が木霊し、治安維持局前に特殊強襲部隊などの局員が集まる。中には、魔道法廷に闖入した隊員の顔もある。


 グラムが局内にいるという確信を得て、エミリーは出て行くふりをしながら局員の目を盗み、奥へ進んでいった。だが、どの部屋にも、拘束室にすらグラムの姿はない。歩き回るエミリーはある行き止まりの廊下の床が妙に音を響かせることに気づく。壁に手をやり、壁龕に置かれた何も生けられていない花瓶に手をかけた時、廊下の床が静かに滑り、地下への階段が顔を覗かせた。


 おぞましい空気を漂わせる階段を、エミリーは躊躇せずに一番下まで降り切った。空気が涼しい。そしてその中に嫌なにおいが混じっている。戦場でしか嗅ぐことがないような、ある種の粘り気のようなもの。狭い部屋がいくつもある。その中の一室から微かに光が漏れていた。そっと扉に手をかける。


 死神のような男が、台の上で大きな男を嬲っていた。横たわるその男こそ、顔は隠れているものの、グラム・グランその人だと判った。


 こちらを見る不気味な男が、ギョロリと目を見開いた。零れ落ちそうなほど飛び出した眼球は、とても健全な魂の持ち主とは思えなかった。


「おや、ここは立ち入り禁止ですヨ……だから」気味の悪い笑みを浮かべる。歯は青白く光を返している。「生かして帰すわけにはいきませんネエ」

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