第三話 奈落への滑空

 ──学問とは常に現在に遅れをとって積み重ねられる。我々は何者かが残した足跡を辿っているに過ぎず、学問を極めることで成せるのはせいぜい神のおこぼれに与ることだけだ。   ジャン・フランソワ・バスティーユ




 プティは拘束され、治安維持局の目と鼻の先に建つ円塔に連行された。魔道法院付の措置所だ。ここには、魔道法廷での裁きを待つ者や、かつて遺棄された霊廟跡を改修したダネヴェ監獄への収監を待つ者が一時的に収容される。一人用の小部屋が通路に並ぶ様は墓所のように整然としており、歩けば衣擦れの音が広がるほど静寂に満ちている。


 プティは二階の最も手前の小部屋に入れられ、分厚い鉄の扉が閉ざされた。中にはベッドと簡易的なトイレが設置され、そこに居る者に存在だけを許しているような印象を与えていた。ほのかな明かりの他は頼るものはなく、プティはおとなしくベッドに腰掛けた。


 プティにかけられたのは、第三種魔法犯罪の咎だった。これは、無資格の魔法作成と所持の罪を含んでいる。バッカリーはプティの主張を全面的に容認して、措置所送致を言い渡した形になる。


 この後は、魔道法院による詳細な調査が行われ、それが終われば魔道法廷における裁判となる予定だ。分厚い壁に囲まれた部屋の内部は外界から隔絶された空間で、否応なしに自分自身と向き合う時間を全身にぶつけられる。


 両親と友人、村の人々を死なせてしまった。それなのに、自分はこうして生きている。罰を与えられようとしているだけ幾分マシというだけだ。


 グラムは何をしているだろうかと考えた。広場で待ち合わせを約束した。いまでも待っているだろうか。なかなか戻らない自分に腹を立てているだろうか。そう思いを巡らすたびに、涙がこみ上げそうになる。プティにとって、グラムの存在だけが自分とこの世界を繋ぎ止める唯一の糸だ。彼だけは自分を心配しているかもしれない。そう考えると、この場から脱したいという思いが募る。


 しかし、同時にグラムに見捨てられる自分の姿も想像してしまう。彼とはこの数日間を共にしただけだ。生意気な少女をリスクを冒してでも救い出そうという奇特な人間などいるだろうか。


 堂々巡りの思考の波がプティを揺さぶる。何もないこの空間にいるだけで、精神はもとより身体的にも蝕まれていることに気づく。身体に巻かれた包帯を掴んでベッドの上に丸まる。やがて傷が癒えて包帯が取れれば、グラムとの繋がりは断たれてしまうだろう。その気づきが、プティをより孤独に追い込んで行った。沼のような時間がプティを底の見えない深淵に引きずり込んでいく。


 固いベッドの感触をまどろみの中で感じながら、ここが馴染みのない土地であることを実感する。いつの間にか眠っていたらしい。時間の感覚を失っていた。プティは身を起こして呆然と床に目を落とす。多くの人間がここで不安な時を過ごしたのだろう。足の摩擦で石の床はツルツルに磨かれていた。


 不意に鉄の扉が不快な音を立てながら開いた。助けが来たというプティの絵空事は呆気なく打ち砕かれる。現れた所員は無感情な声で夕食の時間を告げ、木のトレイをプティの腰掛けるベッドの上に置いた。十五分後に再び回収に来る旨を機械的に告げられ、プティは孤独の奈落に突き落とされた。


 どんなに自分を嘆こうが空腹を満たすには、食事を摂らなければならない。固いパンに小さく刻まれた野菜と肉の入ったとろみのあるスープ。器とトレイ以外には食器はなく、プティはパンをスプーンのように使いながらスープをすくい口に運んだ。


 トレイと器が回収された頃には、プティは幾分冷静さを取り戻していた。グラムのことも考えたが、自分自身に対する処遇はどうなるだろうか。実際には、あの魔法符を作ったのはプティではない。到底、現在の彼女の技術では作成し得ないものだ。バッカリーとアルバインは古い技術で作られていると言っていた。


 グラムの過去が、プティは気になっていた。魔法に関する知識は深いようだった。魔道書も多く所蔵し、魔法式を記述していた。だが、山間の辺境に生活していたことから、現在の社会とは接点が少ないらしい。となれば、過去に何かがあって俗世を離れたに違いない。


 この街の治安維持局に行きたがらない様子、魔道士の資格を持っていないこと、魔道府と何かあったらしいこと……いくつもの点が形を成そうとしていた。少なくとも、いまは大手を振って当局の目の光る中を歩けないということだ。


 何か罪を犯して、いまも逃亡中なのだろうか? しかし、そんな男が少女一人を助け、その故郷まで同行し、街までやって来るだろうか?


 社会の爪弾き者というだけでは足りない。グラムには明確に社会を追われ、長い年月が経っても消えることのない烙印が押されているのだ。


 翌日、プティは措置所の一階にある聴取室で検事と向かい合っていた。エミリー・ガーランドと名乗った痩身の女は息を呑むほど白い髪、燃えるような赤い眼、透き通るほどの白い肌に漆黒のスーツを纏っていた。眉も睫毛も白い。アルビノらしい。


「措置所はどうかしら?」


 気遣う言葉ではないらしかった。措置所で不当な扱いを受けていないかどうかの機械的な質問だったらしい。


「当局は、あなたに未認可魔法の作成と所持の嫌疑をかけています。間違いないですか?」


 プティは頷いた。


「ひとつ疑念があるのだけれど」エミリーはプティが持っていた魔法符に書かれた魔法式の写しを机の上に置いた。「あなたの年齢からすると、この魔法式の傾向が食い違いを起こしていると感じる。これは十年以上前にはよく見る形だった。当局も可能性のひとつとして、あなたに未認可魔法を手渡した人間がいると考えている。そこのところに対してはどうかしら?」


 魔法式をしっかりと目にする機会はない。プティは曖昧に返事をするしかなかった。エミリーは溜息混じりに椅子の背もたれに身を預けた。細いわりには豊満な胸が強調される。その胸元に黒いバッジが光っていた。


「私には、あなたが誰かを庇っているのか、罪を認めたくないのかの判別ができない。知らないかもしれないけれど、魔道法廷では疑わしい事柄について最も重い罪を想定している。自分のしたことを説明できなければならない。さもなければ、長い監獄生活を過ごす羽目になる」


 言うべきか口を閉ざすべきか……プティには選びきれない二択だった。エミリーはしばらくの間プティを見つめていたが、諦めたように話を進める。


「魔法の所持については、治安維持局が証言しているから確定している。それから……──」


 プティはエミリーの声を聞きながら、ひとつの考えに至った。両親のことだった。


「あの……」


 エミリーは片方の眉を持ち上げた。


「話す気分になったのかしら?」


「魔法符は親に渡されました」


 真っ直ぐな視線を受けて、エミリーは手元の手帳に何かを書き込むと、人差し指の背を厚い唇に寄せた。


「なぜいまになって話す気に?」


「私は魔法を作っていないから」


「あなたのご両親が治安維持局から尋問を受けることになる。理解はしている?」


「はい、理解しています」


「そう、それなら問題ないわね」エミリーは手帳を閉じると素早く立ち上がった。「次からはもう少し早く話してくれると助かる」


 後ろでまとめた髪を翻しながら聴取室を出て行くエミリーの姿に、プティは良心の呵責を感じていた。だが、この流れならば、カラセナの惨状は明確に知れ渡ることになるだろう。いまのプティにできる全てのことが、嘘の供述をすることだったのだ。




「手は回してあるだろうな?」


 グラムはエニシングの新しい居所の窓から旧市街の魔道法院を眺めていた。エニシングは猜疑心に満ちた目を返す。


「お前の言う鉱脈から本当に群青石が採れるんだろうな?」


 エニシングには後払いで報酬を渡すことになっている。報酬は群青石だ。グラムが金属を採掘している鉱山から採取する計画になっていた。


「問題ない。それで、どうなんだ?」


 エニシングは動物の骨を加工した仮面と一枚の身分証、そして黒いバッジをテーブルの上に滑らせた。


「ダンテ・パーシヴァル、夜半の魔道士。顔に大火傷の痕がある。それを隠すための仮面だ」


「夜半か。専門家としては申し分ないだろう」


「身分偽装は犯罪だ。報酬も上乗せになる」


「何度も言われなくても分かる。弁護人は?」


 エニシングは調査書類を投げて寄越した。


「ネイサン・アリ、腕はそこそこだが、誠実な人間だ。利用はしやすいだろう。独り身だが、故郷のアラハルムに妹家族がいる。いざとなれば……」


「いや、できればそのプランは使いたくない」


「それは同感だ」


 珍しい意見の一致を見て、二人は一息ついた。瓶入りのビールを傾けながら、エニシングは熱心に書類に目を通すグラムの横顔を一瞥した。


「何がお前をそうさせる?」


「俺のミスで少女を一人、苦境に放り込んだ。彼女は何もかも失ったんだ」


「異端者グラムも一廉の人間になったか」


「俺はまだ自分を異端だとは思っていない。誰かの物差しで計られただけだ。純粋な魔法形而上学の行く末はいずれ俺が予言した方向に進む」


 エニシングは歯を見せながら、部屋の片隅にある本棚の前に立った。『魔道府異端要覧』を引っ張り出す。パラパラとページをめくり、ひとつの記事を探し当てる。


「『グラム・グラン。"現象許可問題"提起。異端審問にて、魔道士資格の永久剥奪と魔道府追放の裁定。第一種異端者認定……』こんな本に載るとは、十五年前のお前に教えたらどうなるだろうな」


「その話は聞きたくない」


「俺には高尚な学問は分からんがね」


 本を乱暴に戻すと、エニシングは煙草に火をつけて窓のそばに立った。背後からは紙をめくる音がする。


「プティ・パルヴィのことだが」エニシングが名を口にすると、グラムの動きが止まる。「昨日、治安維持局が家族に拘束通達を出した。今日の夜か明日の朝には伝達隊の報告が上がるだろう。カラセナの状況が公になる」


「カラセナの調査が始まるのはその後か」


「イストリアの治安維持局が管轄でなかったのは不幸中の幸いだな」


「ああ、西方戦線が拡大する恐れすらあっただろう」


「お前がここにいた頃には西方戦線は激化していただろ?」


「一時的にイザベル・エルとの小競り合いが国内で起きていたせいだ。群青石の需要が高まってイストリアが西方戦線を強化した」


「あの時、治安維持局の戦略室にいたエミリー・ガーランドを知ってるか?」


「エミリーとは当時、ここの居住街で一緒に暮らしていた。中央魔道府に移る時に別れたきりだ」


「お前、あいつと付き合ってたのか?」


「昔の話だ」


「エミリーがお前たちの相手だぞ」


 瓶を置いてグラムが顔を上げた。


「エミリーが?」


「お前が追放されてから、キャリア転換したんだ。いまは魔道法院で検事をやってる。腕もいいらしい。通称"鉄の女"」


「そんな人間じゃなかったが」


 エニシングはテーブルの上の仮面を手に取って笑った。


「仮面があってよかったな」


「思い出したくもない過去と向き合う羽目になりそうだ」


 置き時計に目をやってエニシングはハットを引き寄せた。


「そろそろネイサン・アリとの打ち合わせの時間だ。行くぞ」




 ネイサン・アリは居心地悪そうに酒場のボックス席に座っていた。エニシングはハットを下ろして挨拶した。


「遅れて申し訳ない」


 ネイサンは立ち上がって居心地悪そうな笑みを浮かべる。


「いえ。ただ、こんな場所で打ち合わせというのが、全く不慣れなものでして……」


 揺れる瞳がエニシングの背後の仮面の男に向けられる。エニシングはネイサンに椅子を指し示して、自分もダンテ・パーシヴァルこと仮面をつけたグラムと共に席に収まった。


「こちらはダンテ・パーシヴァル、今回の裁判における魔法知識のサポートをお願いしています。場合によっては、証言台に立っていただくかもしれませんが」


「ええ、ええ」何度も頷いてネイサンは仮面を見つめる。「その方がありがたいです。なにせ、魔法に関しては門外漢でして……いつも魔道士の方にサポートを依頼してますからね。今回も証拠に魔法式が挙がってましてね」


「争点は?」


 エニシングが引き締まった声色でイニシアティブを発揮する。グラムには彼がどんな役割を持っているのかは分からない。


「まず、パルヴィさんが認めている点についてまとめる必要がありますね。彼女が肯定したポイントと齟齬のある論点は突かれますから」


「で、肯定されているポイントは?」


「未認可魔法符の所持のみです」


「所持事由は?」


「両親に持たされたと主張しています。召喚通知がされているので明日か明後日には、私もパルヴィさんの両親の聴取に向かいます。何もなければ、所持事由を掘り下げてこちらの主張に引き込みたいと思います」


 エニシングとグラムは顔を見合わせた。ネイサンはそんなことなど露知らず、プティが持っていた魔法符に書かれていた魔法式の写しを取り出した。


「ダンテさんには、こちらの魔法式を解析していただきたいなと。パルヴィさんのご両親が過去に魔法式を残している可能性もあります。両者を比較して、同じ人の手によるものだと判断できるものがあるかどうかなど、少しでも論点補強の材料が作れればと思います」


「分かった。解析を進めておく」元は自分が書き記したものだが、グラムはしれっとそう言ってのけた。「いつまでに解析できていればいい?」


「それが、どうやら魔道法廷が早めに開かれそうなんです」


「なぜ?」


「いま西方魔道府からマグナス・ブリストルが来てるんですよ」


 初めて名を聞いたグラムにエニシングが補足を与える。


「魔道法院統括監察官の一人だ。何年か前に西方魔道府に赴任してきた」


 ネイサンも頷いた。


「ええ、持ち回りで魔道府を移りますからね。確か、四年ごとだったかな。で、そういうのもあるんで、魔道法院の連中がアピールしたいんでしょう。最初の魔道法廷は四日後です」


「それまでに解析を済ませておけばいいわけか。それで、パルヴィさんには開廷前に話を聞けるか?」


「ダンテさんが、ですか? 法廷外では、検事か弁護人しか会うことはできませんよ。言伝ならしますけど」


「いや、いい」


 それから、しばらく裁判に向けた戦略会議が行われたが、やがて日が落ちる頃にはそのまま食事会に移行した。三人はプティ・パルヴィ裁判に向け意思統一を行なって、ネイサンは一足先に店を出て行った。


「どう思う? プティの両親は石の怪物にやられたんじゃないのか?」


 仮面を外したグラムにエニシングは目を向けた。


「彼女はカラセナで亡くなった人たちを想っていた。裁判に両親を絡めれば、伝達隊がカラセナに派遣される。そうすれば、惨状が明らかになるだろう。それを見越していたんだと思う」


「すでに拘束通達の伝達隊は把握しているかもしれないな。ちょっと状況を見ておくか」


 エニシングは忙しなく煙草を消して足早に酒場を出て行った。


 いまのところ事態はグラムの想定通りに運んでいた。裁判でプティを無実にできれば、なんの憂いもなく助け出すことができる。そのために、魔法アドバイザーとして自身を裁判に組み込むようにエニシングに依頼したのだ。


 しかし、グラムはその後のことが気がかりだった。仮に思惑通りにプティを解放できたとして、その後の彼女の生活はどうなる? 何より巨悪の根源である石の怪物について、何も掴めていないのだ。


 フードの男が行使していた謎の魔法についても調べる必要性を感じてもいた。高度な魔法であれば、石の怪物に繋がる何かを引き寄せられるかもしれない。幸い、いまのグラムは図書館の特別開架区画に潜り込む手段を持ち合わせている。ジョッキに残ったビールを飲み干し、グラムは店員を手招いた。




 翌日の夕刻には、グラムたちにとって最悪な報せが飛び込んできた。


 ダネヴェ中央図書館の特別開架で深刻な表情のエニシングに肩を叩かれたグラムはただ一言、


「プティが第一種魔法犯罪に問われてる」


 という声に頭が真っ白になった。状況も掴めないままエニシングの部屋に連れられていくと、苦虫を噛み潰したような顔のネイサンが待ち構えていた。部屋の前でエニシングに指摘されていなければ、グラムはダンテになるのを忘れたままドアを開けていただろう。


「何があった」


 迫真のグラムの声にネイサンは冷や汗を拭う。


「今朝、分かったことです。拘束通達の伝達隊がカラセナの壊滅を確認しました。住人は全滅です。そこにはパルヴィさんのご家族も含まれていると目されています。それを受けて検事側が第一種魔法犯罪の嫌疑を追加請求すると通達してきたんです」


 第一種魔法犯罪は、未認可魔法による殺人や破壊行為を含む。最も重大な魔法犯罪のひとつで、異端審問の対象にもなる。自分と同じような境遇にプティを追い込むわけにはいかない……グラムは自分の声が震えるのを感じていた。


「検事側はちゃんと調査したのか?」


「魔法犯罪でも行使の可否は証明が難しいんです。だから検事側は最悪を想定してきます。疑わしきを罰す……魔法犯罪の原則です」


「暴論だ」


 グラムはそばの椅子に苛立たしげに腰を落とす。


「仕方ありません。いまの魔道法廷の原形は百五十年前のフォート・ランスで生まれましたから」


「"フォート・ランスの虐殺"か」


「第二のフォート・ランスを防ぐことが魔道法廷の中核にあります。魔法犯罪者は最大刑に処す、それが犯罪抑止に繋がるという原理の下に我々は魔道法を運用しているんです」


「問題はこれからの我々の方針だ」


 エニシングは冷静だった。タバコの煙を漂わせて腕を組むと二人を見つめた。手札を揃えるまでがエニシングの仕事だ。


「最優先は、カラセナの状況をパルヴィさんが自らの意思でもたらしたのではないということを示す方法を提示することです」


「彼女は両親を亡くした。自らの手でそんなことをするはずがない」


 グラムは力強く断言した。あの惨状を目の当たりにして、プティが見せた涙を思い出すたびに無力感に打ちのめされる。


「しかし、最近の家族環境における親と子供の関係性の中で、身体や精神を問わない虐待が問題になってます。そうした問題の渦中にある子供は精神的に悪影響を受けて、虚言や攻撃性の高まりなどを見せることが知られています。検事側は間違いなくそこを論点にするでしょう」


「それで村ごと? そんな馬鹿な……」


「論として筋が通っていることは確かです」


 ネイサンは困り果てた様子だ。そこへエニシングが追い打ちをかける。


「村での家族の様子を調べようにも壊滅していて証言を取ることもできない」


 グラムの脳裏にはプティの無実を証明するための手段が浮かんでいた。皮肉なことにそれはプティが見たという石の怪物の存在を明らかにし、なおかつそれがプティ以外の何者かによって生み出されたことを証明しなければならないというものだった。


「こことカラセナは馬で半日。魔道法廷が開くのは三日後……それは変わらないのか?」


「ええ、残念ながら。ダンテさん、カラセナに向かうおつもりですか?」


「二日は調査に使えるだろう」


「得策とは言えんかもしれないぞ」エニシングが離れたところから抑揚のない声を投げ込んでくる。「現地は治安維持局が管理するはずだ。立ち入るのもままならない」


「それに西方戦線の渦中にあるパゴタ鉱山で事件があったらしく、あの辺りはかなり殺伐としているらしいですよ」


「ああ」エニシングは心当たりがあるようだった。「二週間ほど前にパゴタ鉱山で襲撃があって、かなりの規模の群青石資源が消えた。そのせいで西方戦線も激化の様相を呈している。カラセナ辺りもかなり戦闘の余波があるだろう。治安維持局も特殊強襲部隊を出して調査隊の警護を行なってるらしい」


 グラムの素性が明るみに出るリスクもそこにはあるだろう。プティを救い出すには八方塞がりの状況に、グラムは思わず頭を抱えた。ネイサンは急いで出る準備を始めた。


「私の方でも有効な方策の導出とこの件の情報収集を行います」


 靴音を鳴らして、追われるようにネイサンが出て行った。


 窓際にもたれて紫煙を燻らせていたエニシングは特別に心を毛羽立たせてはいないようだった。


「どうするつもりだ。一人の少女にどれだけ時間と労力をかける気だ」


 改めてそう問われると、グラムは答えることができなかった。ただ憐憫の情にほだされているだけでここまでしているのではない。長い歳月、自分自身を見つめる日々を過ごしてきて、突然現れた傷だらけの少女を見て急に心が動いたのでもない。


 自らの胸の奥底にしまい込んでいた罪に対する反発心は、人々という集合への恐れによって封印され続けてきた。本にも記述される自分自身の行いは死してなおグラム・グランという存在から切り離すことはできない。だが、一人の少女を救う無償の善行が自分自身をも救うのではと考えもした。そして、同時に救うという言葉が客前に飾り立てた料理を出すように、精一杯美化したものであることも自覚している。


 プティ・パルヴィはグラムの後ろ暗さを搔き消す炎のようなものだった。それが輝くほど、グラムの背に落ちる闇は取り払われる。永久に輝き続ければ、異端者の烙印すらも焼き払うかもしれない。そんな夢物語をグラムは自分の瞼の裏に描いていたのだ。自分自身を救い出すためだけという不純な思いに駆られて、彼はヒーローになろうと試みた。いわば、プティはヒーローになるための布石でしかないのだ。


 そんな醜い思いを口にすることなど、グラムにはできなかった。心はずっと、幼い頃に母親に好かれようと良い子を演じていたあの頃と大差はない。未熟で脆弱な心を健全な身体と知識で覆い隠そうとしても無駄なことだった。


 無力感を抱いて、グラムの中に充満した弱い精神は彼の四肢を巡って、どんどん魂を萎縮させていく。現状を打破するあらゆるアイディアは芽を出す前に腐り落ち、しばらくするとグラムは失敗に対する言い訳を考え始めてすらいた。


「黙ったままで解決できるなら、それでいいが、この件が成功しようが失敗しようが、約束通り報酬は払ってもらうぞ」


 グラムは充血した恨みがましい眼をエニシングに向けて奥歯が砕けそうなほど噛み締めた。あの山小屋のそばに掘った坑道からは確かに群青石を採掘することはできたが、エニシングが要求するほどの量を見たことはなかった。藁にもすがる思いで口を突いて出たどうしようもない嘘だった。それほどの群青石はパゴタ鉱山を始めとする産出地でなければ採ることはできないだろう。一生不自由することないほどの富を群青石はもたらしてくれる。


 グラムは黙ってエニシングの部屋を出て行った。制止する声はなく、それすらも彼の心を苛める。エニシングのアパートメントを出ると濃い灰色の雲から小さな雨粒が落ちてきていた。昨日までの好天はどこへ行ったのか、いまはグラムの心の内を映すかのようだ。


 この雨は魔法によるものではない。自然は人間が魔法でなすようなことをこともなげに見せつける。グラムはこの事実に魔法学の切っ先を挿し込んでしまった。


 "現象許可問題"……これは簡単に一言で片付けられるようなものではなかった。少なくとも、魔道府の人間たちにとってはそうだった。


 魔法式には、魔法の発動を許可する構文を記述するブロックがある。魔法は行使者が許可を与えて初めて発現するものなのだ。かねてから、この許可については魔法学者の中で議論が噴出していた。


 魔法は記述した時に発動することはない。初めに発現が保留にされている。だが、その保留状態はなぜ、どのようにしてもたらされるかの説明は誰もすることができなかった。それは現在でも同じだ。


 魔法は上位の存在……神と称されるようなものによって一度抑制されており、許可構文がいわば「赦し」を乞うことで、発現できるというのが"魔法保留仮説"の骨子だ。


 グラムはこの"魔法保留仮説"のコンセプトを昇華し、自然現象そのものが許可を受けて発生していると説いた。神が魔法を行使しているという考えは神と人を同列に扱い、悪い人間原理的であると批判を受け、やがて宗教問題と結びついて異端者審問へと発展した。


 雨に打たれながら、過ぎ去った日々のことを思う。いまなら、自然現象を引き起こす魔法プロセスを築くことができる。今日一日、魔法図書館で魔道書を読み漁った。かつて"力の源泉"と呼ばれていたものは、いまでは"領域"と名付けられていた。フードの男が虚空から小剣や大質量の物質を生み出したのも領域魔法によるものだ。恐ろしく複雑な領域レイヤーを生み出す魔法式とそこに作用する魔法式によって物質生成を行う。だが、それには並々ならぬ魔法知識が必要なはずだった。グラムには、そのプロセスだけは描けるが具体的な魔法式に落とし込むことはまだできなかった。


 その領域魔法が常に遥か空の向こうに展開され、あらゆる環境条件によって発現する魔法を自動的に取捨選択していれば、雨や風を巻き起こすことはできるだろう。


 問題は、それほどの群青石資源が存在し、消費され尽くさないままでいられるかということだ。群青石は魔法発動によって劣化する。"黎明"のように群青石量が少なければ一度の発動で完全劣化する。いまの魔法トレンドは群青石と銀の合金に魔法式を組み込み、群青石を象嵌するものだ。これならば、群青石量に応じて、何度も同じ魔法を発現させることができる。詠唱が要らないのは、許可構文に環境条件変数を代入して動作によって許可を行うようにカスタマイズしているからだ。


 おそらく、フードの男に放った爆裂魔法はあの胸当ての防護魔法によって軽減されたのだろう。常に展開される領域に触れた魔法が解析され、相殺するエネルギーを放出することでダメージを抑えるというのが大体の防護魔法だ。


 これほどまでに発達した魔法でも、一人の少女の傷を癒すことはできなかった。だからグラムは無力感に打ちひしがれたし、だから魔道士には薬の知識が要求されるのだということを再認識させられた。魔道士のモットーは、人々を導く者になれ、だ。導く者は癒すこともできなくてはならない。


 そんなことを考えながら当て所なく濡れる居住街を歩くグラムの視界に見覚えのあるフードが目に入った。慌てて物陰に隠れる。先日グラムを襲った男に間違いなかった。雨に煙る街をフードを被ってゆっくりと歩いている。あれほどの騒動を起こしてのうのうとこの街に滞在している面の皮の厚さにグラムは脱帽した。剣一本だけを携えた状況では、攻撃を受ければひとたまりもない。グラムは息を殺して、男がグラムがやって来た道を歩き去っていくのをじっと見ていた。


 グラムの脳裏にはひとつの仮説が浮かんでいた。エニシングが調べると言っていたゴーレムの再現法は、擬似的には成立させられそうなことが解り始めていた。あのフードの男ほどの魔法知識と実践能力があれば、ゴーレムを再現することはできるはずだった。問題は、プティが言うような大質量の石の塊を長時間駆動させる群青石をどのようにして調達したのかだった。


 魔法研究に従事していた頃の知的好奇心だけが、いまのグラムの味方だった。

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