第二話 不吉との邂逅
──運の良し悪しというものは、つまるところ、我々の心の在りようと等しい。心とは運命そのものであり、運命を嘆くということは、自らの心の在りように対する計り知れない反逆行為なのだ。 ディートリヒ・ローゼンバウム
ダネヴェはイストリア最西端の交易都市であるとともに、魔道府の西方支部である西方魔道府の直轄地でもある。旧市街、交易街、居住街からなり、それぞれが城壁によって区切られた要塞都市の様相を呈している。かつてこの地を支配したペルメ・ローゼンセン卿の居城イステバリウスが街の基盤となっていることからも、ここは軍事的拠点に利用されてきた。西方魔道府が直轄する現在の形になったのは六十年ほど前で、ようやく争乱の要所としての役目を終えて、交易都市として発展した。
グラムとプティは青い空と緑色の大地に映える黄土色の城壁に思わず息を飲んだ。いつ見ても荘厳な威風は城壁に彫られた意匠によるものだろう。神話から歴代の王の姿や場面を余すところなく刻みつけた壁は、織り重ねられた歴史の重さを見る者に感じさせる。
「子供の頃に来て以来だよ」
「お前はまだ子供だろう」
「小さかった頃っていう意味だよ」
力はなかったが、プティは笑った。彼女なりに気を遣っているのだと思うと、グラムはいたたまれない思いだ。
交易街への入り口は各地の行商人や買い物客で賑わっている。当然トラブルも日常茶飯事だが、所々に武装した魔道士の警邏員が配置され治安維持に勤めている。
グラムの足取りは重い。
「グラムさん、本当に魔道府と何かあったわけじゃないの?」
「細かいことを気にするな、プティ」
目を合わせないグラムの横顔にプティは提案する。
「私の故郷で起こったことだから、報告なら私だけでも」
引き止められることを期待していたらしいプティは、グラムが頷いたのを見て思わず声を上げてしまった。
「はあっ⁉︎ 本当に私一人に行かせる気?」
「すまん。俺にも事情はあるんだ」
俄かに沸き立つ苛立ちにはプティ自身も驚いてしまうほどだった。
「信じられない。私の味方でいてくれると思ったのに」
だが、グラムは反駁もなく、心ここに在らずといった様子で行き交う行商人や露店に視線を彷徨わせていた。その様子に追い討ちする気持ちも削がれてしまったプティは溜息と共に、別れ際のようにグラムの太い腕に触れた。
「報告が済んだら話してもらうからね、理由を。広場で待ち合わせね」
そう言ってプティは駆け出していった。その背中を追うこともなく、グラムは肩を落とした。
「親子喧嘩ですかい、旦那?」
長年の笑顔で皺だらけになった商人が声をかけてくる。決して慰めているのではない。次の瞬間には娘のご機嫌取りに最適なプレゼントを売りつけようとする。
グラムは寄り付く商人の波を掻き分けて、居住街との境にある飲食店が並ぶ通りに吸い寄せられていった。
ダネヴェの活気ある喧騒から逃れるように、細い路地を抜けて小さな酒場に転がり込んだグラムは奥のボックス席にドカリを腰を落とした。ずいぶん長い間、こうして身体を落ち着けていなかったように感じられてグラムは思わず深い溜息をついた。
「お疲れだね、旦那」
カウンターの向こうでグラスを磨いていたマスターが白い歯を見せる。商人の街では男は誰でも旦那である。グラムはその人懐こい顔にビールを注文すると、この二日間を思い返した。
人との関わりを捨てて何年が経っただろうか。グラムにとって同じことの繰り返しの日々にプティは現れた。全身に傷を負って。
テーブルに置かれたジョッキに手をつける。
「ずいぶん苦労してる手をしてる」
マスターの言葉に自分の両手に目を落とす。爪の間にこびりついた煤の汚れは落ちる気配もない。その手で脂ぎった額を撫でる。
「しがない鍛冶屋だよ」
なんでも受け止めるような笑顔でカウンターの向こうに引っ込んで行くマスターの背中に、歩き出すプティの背中を重ねる。
プティは全てを失った。眠っている間に。まるで夢のようだっただろう。それもとびっきりの悪夢だ。それでも気丈に振る舞っていた。ただ自分の身可愛さに、昼間の酒場で背中を丸めている。そんな自らの情けなさに反吐が出そうだった。
酒場を見回す。さすがに薄暗い店内に人の姿は少ない。肉体労働者らしい男がカウンターでグラスの縁を舐めている。
「こんなところで何してるんだ、隊長?」
いたずらっぽい声に見上げると、黒ずくめの出で立ちの痩せた男が立っていた。無精髭に火のない煙草をくわえている。この街で自分を隊長と呼ぶ人間はもうほとんど存在していない。グラムは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「"エニシング"」
「通り名を覚えてくれてるのか、グラム。異端者が何してる」
エニシングは断りもせずにグラムの向かいの椅子に腰掛けて、煙草に火をつけた。紫煙が絵の具を水に溶いたように二人の間に広がる。洒落たハットをテーブルの上に置いて詮索するような目をグラムの青い目に向ける。
「戻りたくて来たわけじゃない」
「ワケありか。お前の"仮説”は呪いみたいにまだ根深く残ってるぞ」
ウォルター・"エニシング"・スペンサーは煙草の煙と共に笑いを吐き出す。しかし、その表情も瞬きしないうちに暗く引き締まる。
「なんでここにいる」
グラムは少しの間、答えるべきか迷っていたが、観念したように口を開いた。
「ゴーレムを信じるか?」
「なんだ、藪から棒に? ゴーレムだって?」
「信じるか?」
頑ななグラムの表情に、渋い顔で首を振る。
「御伽噺だろ。子供の頃に魔道書で見た」
「カラセナという村を知ってるか?」
「質問ばかりだな。カラセナ? 俺をなんだと思ってる?」
「覚えてるさ、エニシング。通り名のとおり、何でも屋だ。そのカラセナという村に……ゴーレムが出た」
マスターからビールのグラスを受け取ったエニシングは片方の眉を持ち上げた。面白そうに頬を緩めている。
「なんだって? 法螺吹き屋にでもなったか?」
「馬鹿にすればいい。だが、村ひとつが壊滅させられた。そこの住人も……」
「そんな情報は入って来てないぞ」
「一昨日のことだ。西方魔道府もまだ把握してないだろうよ。言わなくても分かるだろうが」
黒いベストに鈍い金色のバッジを認めて、グラムは目を細める。
「まだ"黄昏"止まりか」
「俺は研究熱心じゃないんでね。黄昏の魔道士で充分なんだよ」
「相変わらず書庫整理か」
エニシングは忌々しそうに手を払うと、鼻の頭に皺を寄せた。
「俺のことはどうだっていい。ゴーレムのことは信じられん。だが、お前がそんな世迷言を口走る理由が分からん。十二年の間に耄碌したのか?」
「いいか。俺はこの目で見た。村が蹂躙されているのを。状況からゴーレムが現れた可能性が高い」
「お前ほどの魔道士なら分かってるはずだろう。ゴーレムは作れない」
「俺は魔術師だ」
鼻息荒いグラムに気圧されてエニシングは口を閉じた。しばらく二人の間に沈黙が訪れる。カウンターの向こうでグラスが重なる音がする。二人の曰くありげな男が膝を付き合わせる光景は、とても穏当とは言えない。
やがて沈黙に耐えかねたのか、エニシングが切り出す。
「百歩譲ってゴーレムの話を信じるとして、なんでここにいる。魔道府の連中に見つかれば拘束されるぞ」
「お前も魔道府の人間だろうが」
「わざわざリスクを負う意味が分からん」
「連れがいる。カラセナの生き残りだ。彼女が治安維持局に通報してる」
エニシングは興味をそそられたらしい。
「彼女?」
「ほんの子供だ。カラセナでゴーレムに襲われて川に落ちたんだ。俺が下流で拾った」
「子供の話を信じるのか?」
「さっきも言っただろう、村を見た。仮に彼女が嘘をついていたとしても、他にあの状況を説明するのは難しいだろう」
「じゃあ、その子供が証人というわけか」エニシングは考え込んでいるようだった。「ゴーレムか。似た研究があるか調べてみよう」
「魔法で生命を生み出すことはできない」
「物体を移動させる魔法があるだろ。魔法式には発動条件式を組み込むことができる。最近じゃ、人間の代替労働力開発として魔法利用の研究が進められてるんだよ」
「だが、ゴーレムとは程遠い」
エニシングは鼻で笑い飛ばした。
「魔法のトレンドもお前がいた頃とは様変わりしてるんだよ。いまどきそんな風に魔法符をチラつかせてる奴なんて滅多にいないぞ。まだムズラの木の皮を剥いでるのか?」
エニシングはグラスに残った琥珀色を干して立ち上がった。
「行くのか」
「俺も忙しいんだ。調査費用はこの奢りで勘弁してやる」
ハットを鷲掴みにして靴音高く酒場を後にするエニシングの背中にグラムは懐かしさを噛み締めた。彼とは特別なにかの絆で結ばれていたわけではない。報酬さえあれば、何にでも手をつけるのがエニシングだった。陰ではエニシングを"悪食"という意味でも使っていたほどだ。
グラムは一息ついて腰につけた小さな鞄を見下ろした。そして息を飲んだ。
プティに魔法符を渡したままだったことに気づいたのだ。
治安維持局の局員に案内され、プティは別室に通された。内心では自分のような子供の言うことなど門前払されると考えていた。だからこそグラムに同行を求めたのだが、初めから必要なかったようだ。
「詳しい話を聞かせてもらえるか」
若いのにモノクルをかけた神経質そうな男が鋭い眼差しを寄越す。男はバッカリー・ゼノスと名乗った。ここダネヴェに設置された西方魔道府治安維持局の特殊捜査部第二課の主任捜査官だ。
「村が石の怪物に襲われて、みんなが死んでしまったんです……」
「いつごろの話だ?」
バッカリーはプティの胸中ではなく手元のメモに目を走らせていた。
「一昨日です。急に警鐘が鳴って、それで……」
「私の聞いたことにだけ答えてくれ」
冷たく放たれた言葉にプティは身を固くした。
「事前に聞いていた話では、君はカラセナからやって来たんだったな。カラセナの住人が全員殺されたのか?」
改めて客観的な問いかけをされて、プティは否が応でも両親の死を思い出さずにはいられなかった。
「み、みんな、です……」
「だが、君は生きているだろう。なぜだ?」
「なぜって……石の怪物に追い詰められて、崖から落ちて、川に流されて、気づいたら……」
「石の怪物はどんなだったか、この紙に描いてくれ」
バッカリーのペースで聴取は進む。プティは感情を整理する間もないまま、記憶を頼りに拙い絵を描いた。全てを奪ったおぞましい存在のはずなのに、彼女が描き出した姿は、ともすれば滑稽な人形のようにも見えてしまう。
バッカリーは絵を眺めながらメモに何かを書き留めていた。
「あの……村に来てください。何もかもが壊れて、亡くなった人たちも、両親もずっとそのままなんです……」
「その傷は誰が手当てした?」
予期していなかった質問に虚を突かれたプティはグラムが巻いてくれた包帯に目をやった。あの時、感情的になって別れなければという後悔が込み上げてくる。
「石の怪物は、かつては一部の魔道書にのみその存在が記されていた。いまでは、御伽噺のタネに過ぎない。君だって、ゴーレムが来るから良い子にしろと言われたことがあるはず」
ゴーレムの脅威を子供の躾に持ち出す大人は多い。誰もが幼い頃に読み聞かせられた話の中で、ゴーレムに対する畏怖を植えつけられる。
「最近、この街でも子供が我々に大きな事件を訴えるケースが多い。家庭環境が問題となって子供の精神状態に悪影響が及ぼされているのだ。君のその傷が、果たして本当に家族以外からもたらされたのか調べる必要がある」
プティにとって到底受け入れられない論理だった。石の怪物を、心が生み出した幻想だと切り捨てられたのだ。この目に死んだ村を焼き付けて来たというのに。
「ふざけないでください!」
プティは憤りの中で叫び、立ち上がった。服の間に挟んでいた魔法符が数枚、ハラリと床の上に散らばった。目敏く視線を向けたバッカリーはすぐにそれらを拾い上げて、訝しげな表情をプティへ向けた。
「これは?」
グラムの声が脳裏に蘇る。
──資格なき者は、魔法作成を禁じる……
魔法に関する規範は『魔法令目』によって定められている。魔法は、然るべき技量を有した者によって運用されることを前提としており、魔道士制度がそれを支えている。世の中に流通する魔法は魔道士による認可が与えられ、一般人はそれらのみの行使が赦される。未認可の魔法使用は『魔法令目』の罰則対象となり、罪に応じた罰が与えられる。そこに年齢による区別はない。魔法はそれほどに強い力を発揮する、時には危険なものなのだ。
「三課の人間を呼んでくれ」
バッカリーは部屋の外にいた局員に告げると、プティに疑惑の眼差しを向けながら椅子に腰を下ろした。
「認可印がない」
魔法符をチラつかせるモノクルがギラリと光る。プティには答えるすべがなかった。言えばグラムを売ることになる。
「ゼノス」太った男が現れた。「どうした?」
「アルバイン、こいつを見てくれ」
アルバインはニヤついた顔でバッカリーのそばにやって来て、魔法符を受け取った。
「時代を感じるな」
その目がプティを捉える。手にしたものと少女の姿の間に齟齬を感じたらしい。
「この子が?」
「ああ。認可印がないんだ」
「そういうレベルじゃないぞ。いまどきこんなもの魔法具店にだって並ばん」
「どういうことだ?」
「最近は見かけないような魔法式だ。ここを見てくれ」
アルバインは魔法符に書かれた魔法式の一部を指差した。"黎明"による群青色の文字が細かく並んでいる。
「メタ構式内の許可文に環境変数じゃない詠唱文言がそのまま記述されているだろ」
「見ただけでは分からん」
「お前、"宵"だろう? 読めないのはマズイぞ。まあ、とにかく、発動許可に発声鍵が使われてる。詠唱が必要になっているんだよ」
顎に手をやってバッカリーは頷いた。
「ひと昔前はよく見たな」
「だが……」
二人の視線がプティの鼻先で重なる。
「君」魔法符を突き出して、バッカリーが尋問を開始する。「これをどこで手に入れた?」
未認可の魔法は所持しているだけでも罪に問われる可能性が高い。プティにもそんなことは分かっていた。
紙細工のように呆気なく潰れた家と、その周囲を漂う死の臭い。あそこでプティの人生の大半は失われた。もう彼女を無償の愛で抱き止める腕はない。ただいまを言う場所はない。笑い合う友人も土に還った。彼女は痛感したのだ。この広い世界の中で、自分はたった独りなのだと。
涙が溢れ出して膝の上を濡らした。自分がここでどれほど大きな罪を背負おうが、悲しむ人間などいない。
「自分で作った」
口を突いて出た。別れ際に触れたグラムの腕の温もりを思い出そうとしたが、震えた指の隙間から零れ落ちてしまっていた。
プティがいる場所は分かっていた。旧市街にあるかつてのイステバリウスの離宮はそのまま治安維持局の局舎に利用されている。彼女はそこにいるはずだった。だが、グラムは旧市街への巨大なアーチをくぐれずにいた。
鞄の中に用意している魔法符はいずれも森の中での不測の事態に対処するためだけの、いわば虚仮威しだ。人間相手には一時的な目くらまし程度にしかならない。ましてや治安維持局には多数の魔道士が詰めている。中には、戦闘に特化した魔道士もいるだろう。
かといって、ここで新しい魔法符を作るにしても打開策は思い当たらない。魔法は数ある手段のひとつであり、万能の策ではないのだ。
途方にくれるグラムには、旧市街の通りを行き交う魔道士たちに忙しなく視線を向けることしかできなかった。下手に動いて自分の存在が明るみに出れば他人の安否を気にかける暇もなくなってしまうだろう。
この街で何かをしようと思えば、エニシングの手を借りるしかない。独力では少女一人を連れ出すことすらできないということに気づいて、グラムは自分自身に失望した。
肩を落とすグラムのそばを三台の馬車が連なってゆっくりと車輪の音を響かせていく。真ん中の馬車は金の意匠が施されていた。要人がこの街にやってきたらしい。馬車の一団が向かう先に魔道法院の尖塔が見える。緑青の浮いた尖塔の屋根が陽光を受けて鮮やかに映えるのを見て、グラムは閃きを得た。
急いで居住区の、かつてエニシングが住んでいたアパートメントに向かう。百年以上前に積み上げられた集合住宅だが、いまでも人々の生活の場になっている。エニシングは居住区の西通りに面したアパートメントの四階に住んでいた。白い石の階段を登っていく。薄暗い廊下を抜けて一番奥の鉄製のドアの前に立つ。
「お前、何をしている?」
若い男の声が背後から飛び込んできて、グラムは反射的に剣の柄に触れながら振り返った。モスグリーンの厚手のフード付きローブを身に纏った人間が静かに立っていた。深いフードの奥の顔が判然としないのは、布で目から下を隠しているからでもあるかもしれない。
「人を探している」
長年、自然の中で生活してきたグラムの野生の勘が、警戒を最大にする。
「何者だ、お前は」
フードの男が手を突き出す。全ての指に銀色の指輪が嵌っているのがグラムの眼に映ったが、男が腕を横に払うと虚空から鉄の小剣が出現する。男はそれを掴んで構えた。驚くグラムの眼前に切っ先が向けられる。見たこともない魔法に脳内を疑問符で満たしたグラムだったが、不敵な笑みを浮かべた。
「あんたの部屋だったか? 俺の知り合いが昔ここに住んでたんだ」
返事はない。影のように佇む男はグラムの言葉の真意を測りかねているようだった。その男の肩越しの向こうに意味ありげに視線を送ったグラムに、男は気を取られて背後に注意を向けた。その瞬間──グラムは腰に下げた鞄の中から後ろ手に魔法符を取り出して男の胸に貼り付けた。ムズラの実の果汁を煮詰めると糊のようになる。魔法符から発生した魔法を貼り付けた対象に媒介する働きがあるのだ。
「グヌドゥ・ラ・エルベル」
グラムがそう唱えた刹那、轟音と衝撃が男を弾き飛ばした。数メートル先に背中から倒れ込んだ男を注視する。グラムには不可解なことがあったのだ。光のエネルギーも放出するはずの爆裂魔法の一部が不発に終わった。
魔法式の書き損じを疑うグラムの視界の中で男のローブの前がはだけて、青みがかった銀色の胸当てが見える。男はそのまま上体を起こし、グラムに手のひらを向けた。咄嗟に魔法符を貼り付けた金属製の形代を胸の前に放ってグラムは唱える。
「アマルナ」
同時に男の前方から発せられた閃光と轟音と衝撃がグラムの巨体を背後の鉄扉に打ちつけた。一瞬の判断で、かつて齧っていた"力の源泉"を展開していなければ、男の爆裂魔法の直撃を受けていたかもしれない。
グラムは死の恐怖を掻き分けるように床を蹴って男の方へ駆け出しながら剣を抜いた。狭い通路で長物を振り回すのは得策ではないが、牽制するように剣を前に構えて突進した。男は不意を突かれたのか、床にうつ伏せになる。グラムはそれを飛び越え、そのまま廊下の突き当たりにある窓に向かって身体を折り曲げながら飛び込んだ。盛大にガラス窓の割れる音がして、グラムは中空に放り出された。
狭い路地に飛び込んだグラムは、張り巡らされていた物干し用のロープを巻き込みながら減速して地面に墜落した。全身を打ったが、減速したお陰でダメージは最小限だ。
ギッと飛び出してきた窓を見上げると男が手を振り上げていた。路地の上空に光の帯が現れ、巨大な塊が形成され始める。危険を察知して、グラムは路地の出口に猛ダッシュする。
背後に大質量の物体が衝突する爆音を感じながら、グラムは死に物狂いで交易街への道を駆け抜けた。誰かが呼んだであろう治安維持局の警邏員がハンドベルを鳴らしながら居住街の方へ向かう音が聞こえていた。
騒動が伝わっているのか、交易街にも緊張が漂っていた。その場に留まっている警邏員たちも、轟音が響き渡った方に目を向け、買い物客も商人達も居住街の方に気を取られているようだった。
グラムは痛む身体を引きずるように雑踏の隙間を縫っていた。思わぬ敵意との遭遇。死の予感に駆り立てられて身体を突き動かしたのはもう十五年ぶりになるかもしれない。"隊長"と呼ばれていたあの頃だ。
あの頃とは、魔法を取り巻く世情も、魔法自体も変わってしまった……グラムはいままで自分の手の中にあると思っていた魔法という存在が、なにか霧に変貌して逸してしまったような気持ちになっていた。
フードの男は魔法の行使に詠唱を必要としていなかった。魔法符すらも用いていなかった。かつて魔道府が魔法具開発に尽力していたことは把握していたが、十二年の時を経て、魔法符に変わるものがすでに世の中に出回っているらしいことにグラムは時代に取り残された感覚を抱く。
俗世を離れてからの社会的な接触といえば、月に一度近くの町に出て刃物や農具を売ったりメンテナンスするくらいだった。無意識の内に魔法と距離を取っていたことで、自分の中の平静を保とうとしていたのだ。
交易街を抜け、旧市街の東側に出る。少しフラついてはいたが、足は真っ直ぐにダネヴェ中央図書館へ向かっていた。エニシングが表の顔として籍を置いている場所だ。西方魔道府の管理下にあり、魔道書の蔵書なら申し分ない。それに、エニシングは調べものもすると言っていた。
フードの男は追ってきてはいないようだった。いまごろは、治安維持局の警邏員たちから逃れるように動いているに違いない。必要以上の警戒と攻撃性……グラムはフードの男の素性が気になっていた。
図書館の入り口で剣を預け、高い本棚の間を足早に抜けながら、エニシングの姿を探す。早くしなければ、プティがどうなるか分からない。背中の鈍痛を気にしながら、目を皿のようにする。
図書館内部は大きく三区画に分かれている。通常開架と特別開架、閉架書庫だ。通常開架は誰でも自由に閲覧が許されているが、特別開架は魔道士資格がなければ立ち入りができない。中には専門的な魔道書や歴史的価値のある古代の魔道書が収められている。もちろん、それらの知の財産を守るため、特殊書庫守護群というスペシャリスト集団が警護に当たっている。
グラムの嫌な予感は的中した。エニシングの姿は通常開架区画にはない。特別開架区画に繋がる警備通路に目をやる。特殊書庫守護群と思しき数人が辺りに厳しい視線を巡らせている。書物の知識だけでなく、卓越した戦闘能力と魔法知識を有するエリートたちだ。強行突破は叶わない。だが、考えあぐねている時間もない。
グラムは息を吸い込んで大音声を発した。
「エニシング、どこにいる! 出て来い!」
特殊書庫守護群が咄嗟に短杖を掲げ、グラムに警告を発する。
「お前、静かにしろ!」
不信な眼差しがグラムを取り囲もうとしたところに、聞き馴染みのある声がした。
「すまないな。俺の知り合いだ。どうやら急用らしい」
エニシングが黒いハットを軽く持ち上げて会釈すると、疑惑の瞳は光を失った。エニシングはグラムを書架の陰に引きずり込んで胸倉を掴んだ。顔を近づけると押し殺した声で脅しをかける。
「ふざけたことするなよ。俺はお前と馴れ合ってるつもりはない。不利益を寄越すならいつでも魔道法廷に突き出すぞ」
だが、グラムは臆することなどなかった。
「聞け。その魔道法廷に潜り込みたい。プティを助け出す唯一の手段なんだ」
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