第一話 死の淵で
──死ほど絶対的なものはない。この世界で唯一信じられる真理である。我々は誰もが絶対的な存在へと向かって歩んでいる。 アンソニー・R・ワトフォード
緑に囲まれた山間にひっそりと佇む小屋がある。小屋から立ち上る煙のおかげで辛うじてそこに人が息づいていることが判る。
木の軋む音と共に扉を開けて外に出てきたのは、革のエプロンをかけた筋骨隆々の男。汗だくの顔をボロ切れで拭いながら腰を伸ばしている。その目は空と同じように碧く、伸ばしっぱなしのボサボサの長髪は黄昏のように金色だった。
大きなグラスに注いだビールを一気に喉の奥に流し込むと、男は神に感謝するような恍惚の眼差しを太陽の方へ向ける。ヒゲだらけの口元に光る白い泡を手の甲で払うと、開けっ放しの扉の中に目をやる。
中は暗いが、真夏のように暑い。雑多な部屋の奥には大きな窯があり、ついさきほどまで男はそこで大きな金槌を振るっていたのだ。煤だらけの金床の上には、男の手によって叩かれ鍛えられた棒状の鋼が載っている。今月は、この作業をあと十回ほど繰り返す必要がある。そうしなければ、生活がままならない。
飛んできた小鳥が男の手の中にあったナッツをつつきに来る。
「お前も腹が減ったのか」
語りかける声は低く無骨だが、優しい響きを持っていた。ナッツを地面にばらまいてやると、どこからともなく小鳥の一団がやってくる。やれやれ、というような顔でひとつだけある大きな切り株に腰掛けると、しばし物思いに耽る。瞳は時折、寂しげに揺れた。やがてエプロンを脱ぎ、小屋の中から白い半袖のシャツを持って着替えた。白といってもずいぶん黄ばんでいるし、黒い汚れが目立つ。
小屋は男の仕事場であり、生活の場だった。無骨な男一人では、細かいところに気など回るはずもない。
ボサボサの長髪を後ろで結んで、男は大きな桶を手にして歩き出した。小屋からは急峻な下り坂が伸びていて、少し行けば川が流れている。鍛治には水が必要不可欠だ。それは、生きとし生けるものすべてにとっても同じことだ。男は、鋼もまた生き物のように考えている節があった。
誰もいない山間の小屋で、来る日も来る日も打ちつける金属と向かい合えば、誰もがそう思うだろう──男はそう確信していた。
川のせせらぎが聞こえてくると、心も洗い流されるような気持ちになる。男は川の中にそのまま入り込み、山から流れ出てきた冷たい水の中でひとときの安らぎに身を浸した。ここには争いの火種などない。清冽な水が洗い流してしまうからだ。
顔を洗い、服ごと身体をこする。それで身を清めたつもりになるのが男の常だった。それも終えると、桶に水を汲んで小屋に帰るだけだ。
しかし、男の目に川を流れてくるものが映る。少女だ。おどけない少女が仰向けのまま流れに乗ってこちらへやって来る。じっと見つめていても、彼女は身動ぎひとつしない。男は血相を変えて身を投じた。
川岸に少女を横たわらせ、頰を叩く。だが、応答はない。栗色の髪が水に濡れて顔に張りついている。幼いながらもどことなく理知的な雰囲気を感じさせる顔だ。
男は少女を潰してしまわないように慎重な手つきで胸をマッサージする。力を入れ過ぎれば、骨が折れてしまうかもしれない。マッサージを続けると、少女は咳き込みながら飲み込んだ水を吐き出した。息を吹き返したはいいものの、その身体は傷だらけだ。少女も苦悶の表情でなかなか目を開けようとしない。
「おい、大丈夫か?」
返事はないが、命はある。男は片腕でゆっくりと少女を抱きかかえると、もう片方の手に桶を提げて、急な山道を素早く登っていった。
小屋の小汚いベッドの上に、まだ使っていない布を敷き詰めて少女をそこに横たわらせる。毛布をかけてやると、男はベッドのそばをウロウロし始めた。少女の回復を待つしかないが、他にやるべきことがあるだろうかと考えているのだ。
やがて思い至ったように、隣室に駆け込む。そこには、男の図体には似つかわしくないような本棚とそこに所狭しと並べられた立派な装丁の本の山。やはりというか、綺麗に並べられているのは一部だけで、他は雑多に積み上げられていたりする。男は貴重なことに本棚に並べられた黒い革張りの本に手を伸ばした。表紙には『応用魔道学』の文字。
急いでページを繰るものの、目当てのものは見つからない。他の本にも手を伸ばすが、専門的な研究書にも目的の項目を見つけることはできなかった。
忌々しそうに本を床に投げ落としたところで、隣室から声がする。
「助けて……助けて……!」
細い声だが、切羽詰まっている。少女は目を閉じたままだった。うなされているのだ。
「おい、大丈夫だ。心配するな」
ベッドのそばの床にあぐらをかきながら、男が少女の額を撫でてやると、彼女は静かに目を開けた。琥珀色の澄んだ瞳だった。彼女は無言のまま男を見つめた。
「おい、大丈夫か?」
「ここは……?」
「俺の家だ」
男は両手を広げてみせる。努めて笑顔で。
「俺って?」
「俺だ」親指で自分の胸を叩く。「グラム・グラン」
男の名だ。少女はボーッとした表情のまま、ただ視線を投げるだけ。
「お前はなんていう? 怪我は大丈夫か? 何があった?」
「私は、プティ。プティ・パルヴィ……だけど、今まで何をしてたのか……」
「お前、川を流れてきたんだぞ」
プティはきつく目を閉じた。まだ身体を起こすことはできないらしい。
「お母さんとケーキを焼いていたところまでは覚えてるんだけど……知らないおじさんの家にいるなんて……」
「誤解を招く言い方はやめろ。お前、身体中傷だらけだぞ」
自分の両手のひらを顔の前に持ってきても、プティはピンときていないようだった。
「仕方ない。傷の手当てをしよう。幸い大怪我はしてない」
グラムが立ち上がると、プティの目に恐怖の色が俄かに広がる。
「ば、化け物……」
「おい、ふざけるな。誰が化け物だ。ちょっと待ってろ、手当てしてやるから」
別の部屋に消えたものの、グラムの声が問いかける。
「どこの村だ?」
「カラセナ」
「聞いたことないな。どこだ?」
プティはガタガタの天井を見上げながら答える。
「イストリアの端っこにあるの。深い谷のそば。それから、パゴタ鉱山が遠くに見えるの」
「川下に流されてきたのかもしれん。お前が流れてきたのも国境の川だ」
グラムが包帯やガーゼ、薬草を持ってプティの元に戻ると、彼女はベッドの上で上体を起こして待っていた。
「おじさん、いい人だね」
「悪人だと思ってたのか」
「ううん、だけど、大きな身体がなんだか怖くて……」
「いじめられてたのか?」
「そういうわけじゃない。でも、ありがとう、おじさん」
ベッドのそばにドカリと腰を下ろして、グラムは不貞腐れたように道具箱を乱暴に置いた。
「あとな、俺はおじさんじゃない。分かったか?」
「私も"お前"じゃないよ」
グラムは満足そうに頷いた。
「元気そうだな。だが、怪我はしてる。少し準備するから待ってろ」
床の上に置いた小鉢に何種類かの葉っぱと小さな赤い実を何粒か入れてすりこぎ棒ですり潰していく。
「その実はなに?」
「これか?」グラムは箱の中の赤い実を一粒摘んでプティの手のひらに落とした。「ムズラの実だ。薬草の効果を高めるし、薬膏のつなぎにもなる。それに食べることもできる」
プティは迷いなくムズラの実を口の中に入れた。
「甘いんだね」
「昔の人は疲労回復のために食べてた」
「名前は聞いたことはあったけど、実物を見るのは初めて」
プティは興味深そうにグラムの手元に見入っている。
「薬に詳しいの?」
「まあ、勉強してたからな」
「おじさん、じゃなくてグラムさん、もしかして魔道士?」
プティのその一言に、グラムは身体を強張らせた。思わず、プティの目を見る。無邪気な瞳だ。
「なんでそう思う?」
「魔道士試験の科目にあるでしょ」
「二人か三人前の彼女が薬膳オタクだったんだよ。付き合う前に口実づくりが必要だった」
小鉢に顔を向けたままのグラムにプティはいたずらっぽく笑う。
「グラムさん、嘘つくの苦手でしょ」
「うるさい。さあ、準備できたぞ」
薬膏を塗り込んだ包帯をプティの華奢な身体のあちこちに巻き終えた頃には、プティの表情も幾分晴れたようだった。ベッドの縁に腰掛けて座れるほどには回復していたのだ。
グラムは小さな厨房に引っ込んで、簡単なスープを作っている。プティの空腹を煽るように、いい香りが小屋の中を漂い始める。
「グラムさん」ベッドの上からプティの声。「この小屋、自分で作ったの?」
「そうだ」
壁越しにグラムの重低音が届く。
「すごいね。ガタガタだけど」
「一言多いんだよ」
「隣の部屋はなに?」
『応用魔道学』が置いてあった本ばかりの部屋のことだ。
「書斎だ」
「見てもいい?」
「勝手にしろ。だが、無理はするなよ」
「了解」
プティはゆっくりと立ち上がった。少しふらつくが、木のささくれが目立つ壁に手を沿わせながら書斎に入る。薄暗い部屋の中に、本の塔がいくつも建っている。
「やっぱり、魔道士なの?」
合点が行ったようにプティは声を上げるが、返事はない。拾い上げた本の表紙には『自然環境と魔法の関連性について』と金の文字が踊っている。
「難しそうな本」
「お子様には理解できんだろうよ」
プティはムッとして塔の最上部に本を戻す。
「今はまだ、ね」
「何歳だ、お前──プティは?」
「十二」
書斎をキョロキョロと見回すプティは、不思議そうに眉をひそめる。
「ねえ、バッジはないの? 魔道士になるともらえるんでしょ?」
答えの代わりにグラムの顔が書斎の入り口に現れる。
「スープができたぞ」
「塩気が多いかも」
スープを平らげたあと、プティはそう評価を下した。
「やかましい」
「お母さんが言ってた。塩を摂りすぎると早死にするって。グラムさんも独りで生きるなら気をつけたほうがいいよ」
「ご忠告どうも」
作り笑いと共に二人分の食器を厨房の方へ引き取っていく。
「でも、素朴でいい感じだったよ」
「そいつぁ、光栄だ」
厨房から戻ってきて、グラムは真剣な表情だ。
「もうすぐ日が落ちる。今日は泊まっていけ」
「変な気起こさないでね」
「バカかお前は。夜は野生動物も危険なんだ。明日、起きたら村まで送ってやる」
グラムは一度書斎に向かって、丸めた紙の筒を持って戻ってきた。テーブルの上にそれを広げる。地図だ。
「いいか。ここが俺たちのいる場所だ」
グラムが指差したのは、地名もない山に囲まれた土地だ。近くに細い川がある。
「何もないんだね」
「鉄はよく採れる。まわりの山は鉱脈が走ってるんだ」
「ほうほう」
ふざけた様子で頷くプティを見て、大丈夫そうだとグラムは安心する。この少女が死の危機に瀕していたのなら、近くの町まで保たなかったかもしれない。
「この川は、支流だ。本流が国境になってる。で、プティの話では、川を上ったこの辺りに村があるんだろう」
そう指し示す場所にも、地名は記されていない。
「多分そうだと思う」
「だが、分からないのは、この辺りはお前も言っていた通り、深い谷になってる。他に川はない。そして、その傷だらけの身体……。谷に落ちたとしか思えない。何が起こったのか……」
プティは我がことながら他人事のように目を丸くしていた。自分の身に起こったことが分からない以上、村に帰って確かめるしかないだろう。
不安げなプティの顔にグラムは優しく投げかける。
「お前のお母さんも今ごろ心配してるだろう。明日は早い時間に出発するぞ」
プティが横になるベッドの隣に簡単な寝床を作ったグラムは明日の出発に備えて細かい作業を行なっていた。ランプに灯したオレンジ色の炎が部屋の中をほのかに照らす。
「グラムさん、寝ないの?」
唐突に話しかけられて、グラムは作業の手を止めた。手には筆を握っている。そばには短冊のような札と夜明け前の空のような色の顔料が乗った小皿が置かれている。札には見慣れない文字が細々と書き入れられている。
「隠さなくてもいいよ」彼女の声は優しげだ。「分かってたよ。小屋のそばに大きな切り株がひとつ。この小屋の材料になった木。だけど、鍛治には火が必要なのに、他に木が切り倒されてない。薪が要らないってこと。魔法具店には、火の魔法式が刻印された"薪要らずの窯石"が売ってるし、魔法で火を作ってるんだと思った」
グラムは諦めたようにその場にあぐらをかいた。
「賢いんだな」
「細かいことが気になっちゃうだけだよ。いま作ってるのは魔法符でしょ。初めて見るけど、分かる」
「何があるか分からんからな」
プティは微笑んだ。秘密のベールを纏っていたグラムが一枚脱ぎ捨てたように思えたからだ。
「やっぱり魔道士なんだ」
「いや、俺はただの魔術師だよ」
プティは驚いて身を起こしかけた。
「え、だって、魔法符は……」
「『資格なき者は、魔法作成を禁じる』だろ。分かってるさ、そんなこと」
「だから、バッジが……」
「ない」
書きかけの魔法符にじっと目を落とすグラムの姿に同情したのか、プティはおとなしく身を横たえた。
「でも、悪いことに使うわけじゃないし、バレなければ大丈夫だよね」
グラムは口の端を小さく歪めて再び筆を手に取った。
明くる朝はよく晴れた、旅立ちの日に相応しいものだった。風はなく、薄い煙がなたびくような雲が青空の中に筆入れされている。鳥のつがいが横並びに小屋の屋根から飛び立っていく。
「出発ー!」
谷底に落ちた前後の記憶を取り戻すことはなかったが、グラムの手による簡易的な朝食も摂って、プティはすっかり元気になったようだ。とはいうののの、包帯がやや痛々しい印象ではある。
「初めは川沿いを進んで、その後はひとつ山を越えて谷の上に出るぞ。順調に行けば、夕暮れ前には村に着くはずだ」
「長旅だね……」
プティの細い身体に目をやる。
「無理はするなよ」
「分かってますって」
プティは先陣を切って下り坂をゆっくりと歩いて行く。川岸に下り着くと、グラムは皮の袋の中に水を汲み入れて飲み水とした。
川沿いを歩いて行くと、遥か前方に山脈が霞んで見えてくる。川の両脇は木々が生い茂る山の急斜面が迫って、時折木立の向こうを動物が駆け抜けていくのが見える。
「グラムさんは、旅慣れしてる感じだね」
太い木の枝を杖代わりにしてゆっくり歩くプティが横顔に話しかける。
「昔はよく遠出したもんだ」
グラムはそれ以上語ろうとしない。ただ、行く先を見つめる目は、遠い日を見つめているようにも感じられた。
「魔法を勉強するのって難しい?」
プティの表情は輝いているように見えた。だからこそグラムは硬い声を投げ返した。
「魔道士になりたいのか、プティ?」
「将来的にはね」
「なぜ魔道士になりたい?」
「なぜって……」プティは青い空を見上げる。「そんなに深く考えたことないけど、格好いいから」
魔法具を入れた小さな鞄の重みを感じながら、グラムは奥歯を噛みしめる。
「生半可な気持ちで目指すもんじゃない、魔道士は」
「魔道士になれなかったとしても、魔法のことを知るのは大切なことだと思うよ。この世界に魔法があるってことにも意味はあるんだろうし」
プティの瞳から垣間見える理知的な光とは裏腹に、グラムは自分の胸の中に重い感情が募っていくのに気づいていた。だが、いまここで夢見る少女の足をすくうのは、単なる自身のエゴに過ぎない。話題をそらす機転を利かせることもできずに、グラムはただ目的地に向けて歩を進めることしかできなかった。
二人はやがて山を登る道に入っていく。すでに太陽は天高い場所で燃えている。しばらく山を登っていくと、見晴らしのいい場所に出る。
「ここで休憩しよう」
背負っていた荷物を降ろして、大きな岩に腰掛ける。
「プティさん、さすがに疲れましたよ……」
額の汗を拭ってグラムの隣に腰を下ろす。皮の袋から水を口に運ぶと、ぐったりとした様子だ。
「大丈夫か?」
「身体は平気」
「身体は?」
「家に向かってて安心してるはずなのに、なんだか不安が増してきているような気がして……」
彼女の言葉を借りるように遠くに黒煙が昇るのが見える。遥か彼方だ。空気の層で黒煙も白っぽく見える。グラムは立ち上がって目を凝らした。
「西方戦線だな」
プティは口をへの字にした。
「どうして人は争うんだろう?」
雲の笠を被った彼方の大きな山を指差す。グラムは溜息混じりだ。
「あれがパゴタ鉱山に連なるネザレア連峰だ。イストリアとアルテアは鉱山資源を巡って争いを続けている」
「鉱山資源……金属がそんなに大事なの?」
鞄の中から青い粉末の入った瓶を取り出して、グラムはそれをプティに手渡した。
「それは魔法符に魔法式を書き込む時に使う"黎明"という名前の顔料だ。水に溶いて使う」
「それで、これがなに?」
「"黎明"のもとは群青石という鉱石だ。それを砕いて粉にする」
プティは瓶の中から目を離してグラムの神妙な顔を見上げる。日の光を背にしたその顔は暗く見える。
「これを巡って……?」
「魔法は現代社会に根づいている。それに軍事的にも利用されている。そこに必要不可欠なのが魔法具……中でも群青石は貴重なんだよ。需要が供給を上回りつつあるのが現状だ」
プティは言葉を紡げない。無邪気に魔道士を目指していただけの彼女はもういないのだ。
「魔法は争いの種になる」
プティはグラムが魔道士に否定的だった理由に思い当たったような気がして俯いてしまった。しかし、グラムの声がそれを制した。
「あの黒煙を見ろ。目に焼きつけるんだ。魔法の下で人は死ぬ」
痛む胸に手を当てて、プティは息を吐いた。
「プティ、いくつか魔法符を渡しておく」
鞄の中から魔法符の束を取り出し、選別しながら八枚の魔法符を渡す。初めて手にする魔法符をまじまじと見つめる。
「これが……魔法」
「二枚は爆裂魔法で、あとは煙幕と光球の魔法符だ」
「あとの四枚は?」
「遠隔発動させるための詠唱符だ。詠唱符に書いてある言葉を唱えれば、対になった魔法符が遠くにあっても魔法が発動する」
プティは首をかしげるが、グラムは急いで荷物をまとめ始めた。
「西方戦線の周囲は軍が小隊を回している可能性が高い。この辺りも必ずしも安全とは言えん。できるだけ早く進もう」
目に入ってはいたが、グラムが携えている剣にプティは改めて気を引き締める思いだ。
西方戦線に関わる部隊との遭遇を危惧していたグラムだったが、カラセナが近づくにつれ、それが杞憂であることが分かってきた。広大な森林地帯は森閑としており、木々の向こうから覗く小動物の目も少なくなってきた。
「グラムさん、やっぱり何かおかしいかもしれない」
プティは辺りを見渡しながら声を落とす。その足取りは沼地に足を踏み入れたように重い。どこかで鳥がけたたましくさえずっているのが聞こえる。その鳴き声にグラムは腰に下げた剣の柄を握りしめた。
「森全体が何かを警戒している……」
「いつもはもっと……明るい雰囲気の森なんだけど」
しばらく森の中を進んでいくと、前方に空が開ける場所が迫ってくる。プティが駆け出す。
木が開ける場所ではない。おびただしい数の木が根元から薙ぎ倒されているのだ。何か凄まじい力が通り抜けたように、道向こうの方に道ができている。倒木の連なりは東の方からやって来て、真っ直ぐ西の方に向かっているようだった。死んだ獣のそばにしゃがんでいたプティが立ち上がって転がる木々の向こうに身体を向けた。
「村は向こうの方だよ……」
「プティ、俺が先導する。急ぐぞ」
二人の不安は的中した。到着したのは、かつて村だったらしい瓦礫と死骸が累々と横たわるおぞましい場所だった。プティはその場に膝をついて顔を覆った。
カラセナは一切の音が死んでいた。人の営みは過去のものとなり、家の壁も屋根もベッドもテーブルも鎖に繋がれた犬も男も女も老いも若いも、全てが一緒くたに地面の上で折り重なっている。
周囲には凄まじい悪臭が立ち込めていた。死んだものたちから発せられるものが、澱のようにここに滞留しているのだ。プティが嗚咽を漏らして胃の中のものをぶちまけた。グラムは辺りを警戒しながらプティに水の入った皮袋を渡した。
「大丈夫か?」
プティはただ首を横に振った。愚問を投げた自分を恨みながら、グラムはプティの小さな背中をさすった。
村には小さな広場があったらしい。その広場を分断するように鐘楼が倒れている。ひしゃげた鐘の陰で小さな動物が二匹、何かを拾って食べていた。
「何があった……?」
大きな地震や大規模な戦闘がなければ鐘楼が倒れることなどない。だが、地震にしては恣意的な被害だ。全てが等しく害されたのではなく、選択的に破壊が行われた。
強力な魔法が直撃すれば、鐘楼もひとたまりもないだろう。もっとも、西方戦線からはかなり距離がある。それに、死人の中に兵士らしい姿はないとなると、戦闘とは考えづらい。一方的な殺戮が繰り広げられたとしか思えないが、この惨状は一個師団規模の戦力展開がなければなし得ない。
「グラムさん……」小さく声を上げるプティは大粒の涙を流していた。「思い出した、かもしれない」
二人はかつてプティが暮らしていた家の前に立った。家だった瓦礫の山だ。そこにはかすかな希望の欠片も感じさせないほどに蹂躙されていた。時間が経って辺りに染み込んだ血の臭いが静かに流れている。
「確かめないほうがいい」
グラムはプティの手を取ったが、彼女の目はまるで夢遊病者のように虚ろだった。プティはグラムの手を振り払って瓦礫に近寄っていく。何かを見つけたように歩き出して、石壁の破片の中から何かを持ち上げる。
「お父さんは時計職人なの。この置き時計はお父さんが作ったの」
原型をとどめていなかった。プティの手が震えていた。いや、全身を痙攣させるようにしていた。壊れた時計を胸に抱いたまま、音もなくその場に崩れ落ちて、声も漏らすことなく涙を流した。
プティは蘇った記憶を、自分のものだとは信じられなかったようだった。弱々しい足取りでグラムの手を引いて村の外れに向かう。
「突然だったの。誰かが逃げろって言って……でも私たちは何のことか分からなかった。でも、隣のメーヴェおじさんがすごい形相で知らせてくれたの。怪物が出たって」
「怪物……?」
「大きな石の怪物だよ。何もかも奪い去ってしまった」
プティは谷に面した断崖にやって来た。眼下には川が流れ、遠い向かい側の断崖の上には緑の布を敷き詰めたように森が広がっている。その遥か向こうにはパゴタ鉱山が鎮座していた。
「ここから落ちたの」プティは崖の縁から奈落の底を見下ろす。「もうダメだって思った。それからグラムさんに助けられるまでは何も覚えていない」
暗く沈んだ声。無理もないことだった。彼女は家族と友人、故郷を同時に喪ったのだ。
心ばかりの墓碑を簡単に作り、二人は失われた命のために祈りを捧げた。すでに夕闇が迫っていた。グラムにはすべきことが二つあった。
ひとつはここを離れること。プティにとってもこの場に留まり続けることは得策とは言えない。今はまだ衝撃が大きすぎて悲しみに触れる心の余裕ができていないが、いずれ喪失感の中でもがき苦しんでしまうだろう。
もうひとつはこの惨状を然るべきところへ届け出ることだった。
「近くの町に向かおう。イストリアの治安維持局に届け出なくては」
「一番近いのはダネヴェっていう町だけど、ここは西方魔道府の管轄だってお母さんが言ってた」
途端にグラムは表情を曇らせた。
「ダネヴェの次に近い町は?」
プティは怪訝そうにグラムの顔を見上げた。虚空を見つめる目は何かに囚われているようだった。
「イザベル・エル領地の交易街だけど、ここからじゃ遠すぎる」
グラムは考え込んでしまった。その間にも刻一刻と夜の帳が下りていく。夜の鳥が一声鳴き出した。
「村のみんなをちゃんと弔ってもらうためにも、ダネヴェに行かなきゃ。お母さんもお父さんもあのままにしたくないよ!」
悲痛な訴えだ。グラムはきつく目を閉じて、しばらくしてから頷いた。
「行くぞ」
足早に歩き出す大きな背中にプティは問いかける。
「魔道府と何かあったの?」
背中は答えない。物憂げなその姿を夜のヴェールが包み始める。追いかけてグラムの隣に並んだプティは、横顔が闇に紛れるほど暗いことに気づく。そこで問いを繰り返せるほどプティには勇気も気力もなかった。
グラムの持つランプと木々の間から差し込む月の光だけが二人の行く先に手を差し伸べる。森自体が怯えていた。少なくともカラセナ周辺は獣も鳴りを潜め、道中の危険はなかった。しかし、得体の知れない畏怖の正体がカラセナを壊滅させたであろうことは、グラムの胸中に確信めいたものを抱かせていた。
プティの家は、何か大質量のものに潰されているようだった。大岩でも落ちたようだった。だが、そんなものは現場に残されておらず、消え去っていた。
「石の怪物って何だったのかな……?」
グラムの逡巡を察知したかのようにプティが口を開いた。彼女を包み始める疲労が、次第に眠気に転じようとしていた。
「分からん」
「あんなことをする魔法はある?」
純粋に答えが欲しいのではないとグラムは思った。
「あるのかもしれん。少なくとも俺は知らんが」
「石の怪物なんて、聞いたこともなかった」
グラムは記憶を手繰り寄せていた。
「伝説にはある。ゴーレムという、無機質の魔法生物だ。石や金属に生命を宿らせる。古代ベルデはゴーレムが滅亡させたとも言われている」
「じゃあ、ゴーレムが……」
「だが、魔法で生命を生み出すことはできない。所詮、伝説に過ぎない。ましてや、石を生物のように動かすなんて、実現できるはずがない」
正体不明の石の怪物。この世に存在するはずのない恐怖。それが全てを奪い去ったという事実だけが残された。その意味するところに思い至ることなど、グラムには考えられなかった。背中で眠っているプティの重さを感じながら、グラムは思い巡らせていた。
夜が明ける。二人の行く手に街の喧騒が届き始めた。
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