ぬいぐるみ


 泣き虫、弱虫、本の虫!

 図書室に置いてけぼりにされたのはもう十分も前のことなのに、イツキの心では何回もその言葉が反芻していました。

どうして友達に酷いことばかり言われてしまうのでしょう、リレーで目立ちたがり屋のアサヒくんを抜かしたから? サッカーでハヤトくんに突き飛ばされて泣いてしまったから? もしくは、本当にイツキが泣き虫だったせい?

 放課後の図書室は異様なまでに静まり返っています。掃除時間の終わるチャイムはとっくのとうに鳴っていました。本棚の側に一つだけぽつんと残っている黒いランドセルが、イツキの心にとすんとのしかかります。

最近流行っているおばけのウワサのせいで、イツキにとって図書室はいっとう恐ろしい場所でしかありませんでした。何より、今イツキはひとりぼっちです。おばけに食べられそうになっても誰もイツキを助けてはくれません。

今頃グラウンドではイツキに図書室の掃除を押し付けた二人が遊んでいることでしょう。それなのに、このことを先生に告げ口すればイツキは更に友達に嫌われるに違いありません。それも分かっていて、二人はイツキにあんな意地悪をするのです。イツキがどれだけ悲しくても二人はそんなの知らんぷりです。

 イツキの目にふと涙が浮かんできました。夕焼けが窓から差し込み、床のタイルに映る影がいっそう濃くなります。夕日に向けた背中が暑いのに、体のどこかが冷えているような気がしてなりません。心がやけにつめたいのです。

「僕は泣かないぞ。泣き虫になんてなるもんか」

 立ち止まっていては瞳に溜まった涙が溢れてしまいそうで、イツキは窓辺においていた乾いた雑巾をバケツにつけました。あっという間に濁った水の奥にイツキの弱々しい顔が映り込みます。

「だって僕は、もうすぐおにいちゃんになるんだ」

 壁に取り付けられた数年前の卒業制作だという落書きだらけのステンドグラスがキラキラとひとりぼっちの少年を照らします。水面に映り込んだ自分をかき消すようにイツキはバケツをかき混ぜました。汚水の底へ雑巾が沈んでゆきます。

 きらり、と水面が光りました。……きっと騒々しいステンドグラスの光でしょう。

再び、きらりと水面が光りました。濁水の表面をまばゆい光が一筋通り抜けてゆくのが、今度はイツキにもはっきりと見えました。二度、三度と光は続きます。流れ星のような光でした。

ばっとステンドグラスを仰ぎ見るも何ら変わりはありません。その間にも光は降り注ぎ続けます。まるでバケツの中に蛍がすみついたかのように。

 再びかき混ぜると細い光は消えてしまいました。何かの幻覚か、考えすぎだったのでしょう。イツキはほっと息をつきます。

直技、一瞬の静寂も許さず強い光がバケツ目掛けて飛び込んできます。がしゃん! と大きな音が響きました。思わず尻餅をついてしまいます。腕がバケツから抜けた拍子に水滴が床に飛び散りました。

「イタタ。くそぅ、また失敗かよ!」

 小さな舌打ちと見知らぬ男の声にイツキは振りかえりました。背後の棚や、カウンターには誰もいません。目の前にも本棚の奥にも人などいません。それなのに声は近くからします。

「今度はどこに来ちまったんだァ? ああクソ。また座標がズレたか……でも俺が来れるってことは以前にもどっかのどいつかが……」

 見つかってはいけないような気がしてイツキは縮こまります。一体全体、図書室でなにが起こっているというのでしょう。機を逃したせいで悲鳴をあげて逃げ出すこともできません。

「おい、坊主」

 イツキはブルブルと震えながらもみのむしのように縮こまり続けました。

「おいってば」

 視界の端で何かが動きました。床の水滴がゆらゆらと揺れているのです。そこには人影が映り込んでいました。髪から服まで全身真っ黒の男が、ひらひらと手を降っています。

「ヒッ!」

 慌てて口元を隠そうにも悲鳴が出てしまったあとでは意味がありません。にたり、と何者かが笑う音が聞こえた気がしました。

「良かった、目が見えないわけじゃないんだな」

「まっくろ、おばけ」

 図書館に出る真っ黒お化けの噂話。ひと気のない夕方の図書室には影よりも濃い真っ黒お化けが出て、生徒をさらい丸呑みにしてしまう。運良く戻ってこれたとしても、記憶をなくしてしまう……。

「ンだとコラ! 人を幽霊呼ばわりとは随分なご挨拶だなァ。俺様は魔術師だぞ」

 怒鳴られてイツキはびくりと震えました。堪えていた涙が一粒頬を滑り落ちます。

「おいおいおい何で泣くんだよ、そっち側のガキはどんだけ弱っちぃンだ」

 男の言葉はまだトゲトゲとしていましたが、水滴はひどく狼狽えたように歪みました。黒いローブの男の姿も怪物みたいにゆらめきます。イツキの脳内では、再び友人達からの声が流れ出します。

 泣き虫、弱虫、本の虫!

「……ない。僕は弱くない。僕は弱虫なんかじゃないんだ!」

「どっからどう見ても弱そうじゃねえか! 俺が本当にお化けだったらあっという間にお前なんか取って食っちまうぞ」

 目の前の男こそがまっくろおばけの正体なのかもしれない。

恐怖のあまり、イツキは声をあげて泣き出してしまいました。それでも、ただで食べられてたまるものかと水滴を何度も踏みつけます。

「なにすんだこのクソガキ、弱いんだから大人しく俺様に従っとけ」

「わあああああ、どっかいけおばけ! ぼくは、にげないぞ……!」

 ついに身体中が熱くなって、イツキは何も考えられなくなってしまいました。男は何度かイツキに声をかけましたが、泣きじゃくる子供には見知らぬ男の声など届きません。 

 男はため息をつきました。こんなとき、一体どうすればいいのでしょう? 男の部下のように怒鳴れば黙る訳ではないことは先程わかりました。

 魔法で記憶を消してしまいましょうか? いいえ、それではまた押し問答の繰り返しになるでしょう。いっそ子どもごと消す? そんなことをすれば元老院に処罰を受けるのは魔術師の男です。

 冷徹な魔導士は珍しく狼狽えました、ちっぽけな子供ひとりが相手にも関わらずです。相手が魔導士の世界の子供なら流れ星でゲンコツしてやれば黙りますが、目の前の子供は果たしてどうでしょうか。

 泣く子の慰め方を魔導士は知りません。なんせ、両親はまだ指に炎を灯すことすらできなかったかつての魔導士を捨てたのです。そこから魔導士は、誰の手も借りずひとりぼっちで偉大なる彗星の魔導士の称号を与えられるまでにのしあがりました。

そんなどこまでも孤独な彼が、子供のあやし方など知るはずもありません。

 散り散りになった水滴から窓ガラスへ、そこから貸し出しカウンターの鏡へと魔導士は肉体を映し変えます。こちらの世界では、魔導士達は肉体を持って自由に動くことが叶いません。

 鏡に映り込んだ魔導士は貸し出しカウンターに佇む熊のぬいぐるみを見つけました。ローブの奥に潜めていた鉄刀木を取り出し、何度か振りました。キラキラとまばゆい鱗粉が笛の先から流れてゆきます。空飛ぶ蝶のように不規則に流れる光は、やがてぬいぐるみへと降り注ぎました。ベールのように光が膜をはり、綿の熊の黒い瞳が光を持ち始めました。

 熊はパチパチと瞬きをし立ち上がります。行ってきてくれ、と男がささやくと熊はにっこりと頷いて少年の元へぽてぽてと足を動かします。とんとん、と蹲る少年の足を叩きました。少年はそれでも顔を上げません。

 魔導士は次に、小さなカゴに入っている陶器のウサギ達に目をつけました。特別な輝きを帯びた杖を一振りすると、魔法は花火のカケラのようにウサギたちに飛び散り彼らにひとときの魂を与えました。ウサギ達は軽快に飛び跳ね、少年の元へ向かいます。コツコツと床を叩くウサギ達の行進にようやく少年は顔をあげました。

杖は楽しげに輝きを増してゆきます。魔導士は杖に溜まった光を全て放ちます。壁に飾られた折り紙の鶴、蝶、てんとう虫が画鋲の拘束を掻い潜って飛び上がりました。すっかり涙の乾いたイツキは、驚きと感動で呆然とそれを見ていました。

「本物の、魔法使いだ……!」

 生きたぬいぐるみと仲良く手を繋いだイツキの瞳が流星のように輝きます。いくらでも美しいものは見てきたはずなのに、男にはただの少年の笑顔が特別に素敵なものに思えました。少年にとっても、先程までおぞましかったものが素敵なものになるだなんて経験は、生まれて初めてでした。



 

 

 

 






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小説短編2022-2023 @TUKISHIRO3

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