三十五歳、救急医男性が主人公

『今からでも始められる恋があるらしい』 


 まさと、三十三歳。職業は医師。年収1200万以上。身長183cm。独身。

 はじめまして、プロフィールを見てくれてありがとうございます。

 マッチングアプリは初めてなので不慣れな部分は許してください。仕事柄出会いが無いので、何かいい出会いを見つけたくて始めました。まずはお茶から始めたいです。

 住まいは東京よりの千葉で、休みは少ないですが──。


「ふぅん、まあいいんじゃないです? 強いて言うなら……なんで若干サバ読んでるんですかねぇ」 

 どうせ会えばバレるのに、理人のスマホを見ていたユキは笑った。にやにやとしながら俺のプロフィール文を読んでいる。 

 ユキは我が物顔で俺の家に居座り続けているが、恋人でもなければ血縁者でもない。ましてや、青柳ユキという名前と歳が二十五歳ということしか知らない。

「もういいだろ、返せよ」

「あ〜、そっちから見てくれっていったくせに。マッチングアプリなんて恋も何もなさそうなものに手ぇだしちゃって」

 ごねるユキからスマホを取り上げ、理人はひとつため息した。

「……園田さん、下の名前はまさとっていうんだ」

「居候のお前には教えるまでもないだろ」

 こいつは同じマンションに住むただの隣人だった。にもかかわらず、部屋が通販の段ボールで壊滅寸前とかで俺の部屋に転がり込んできたのである。

「居候なんて人聞きの悪い、どうせ園田さんは仕事で家にいないことばっかじゃないですか。ここは第二の私の家みたいなもんです」

 ユキはボリボリといい音を立てて煎餅を齧っている。その近くには戸棚に隠しておいた、飲みどきを失った白ワインまで置いてあった。

「お前ってやつは、本当に」

 早くいなくなればいいのにと思う一方でユキを追い出せないのは、やはり多忙な生活のなかで誰かの存在を求めてしまうせいかもしれない。赤の他人にも等しい女を簡単に引き入れてしまうのは良く無いことだ。

 だから、一刻も早くよい恋人を見つけてこの女を家から追い出して……。ガラガラガラッ! と音がして、我が家にも伝播した段ボールの山の一部が瓦解した。

「園田さん、崩れたよ」

「俺に言うな、お前の持ってきたもんだろ!」


 この歳まで独身ということに焦りを感じていないわけではなかった。ただ、こんな職場では出会いがないことは言うまでもない。

「今日もまた大変でしたね……」

 明朝の休憩室にはどこか張り詰めた静けさがあった。職業柄でもあり、そんな医師という職業についた者の人柄もあるのだろう。

「ああ、そうだな」

 大変なのはわかってたんだけどなあ、と隈のできた目を歪ませて後輩の信濃は笑った。 

 泡をふいて倒れてしまった女児、自宅の階段から転がり落ちてしまった老人、尻に挿入した異物がとれなくなった中年男性。実に様々な理由で救急車を呼ぶにいたった急患の応急措置をするのが救急医の職務だ。

 医師のなかでも特に激務と言われている救急医、それが若かりし頃に俺が選んでしまった職業。誰かを助けたい一心だったのに、今では遠のいた自分の幸せが惜しくなっていた。

「信濃は……また珈琲か。ミイラとりがミイラになるんじゃあないぞ」

 珈琲の入ったマグを握りしめているあたり、彼の限界は近いように感じられた。

「大丈夫です、一気に数十杯でも飲まない限りは死にませんから」

 そう言って信濃はまた一口珈琲を啜った。

 そういうことじゃないと言おうとしてやめた。疲弊している人間に何をいったところで通じることはない。壁掛け時計についた鳩がポッポ! と鳴いて、時計の長い針が十二に重なったことを知った。

「先輩も、無理しないでくださいよ。わりと心配なんで」

 自分がそう言われてしまうと弱い。俺は無言のまま立ち上がり、見た目のわりに軽すぎる荷物を手に取った。中身は財布と、コンビニでかった非常食くらいだ。

「あっ、聞いてるんですか! 帰ってからちゃんと休んでくださいよ」

 適当におつかれ様とだけ挨拶して、俺は休憩室を出た。彼の言葉を簡単に受け流してしまうあたり、俺も疲弊しているのかもしれない。目の下に浮かんだ隈を擦って、俺はのろのろと鬱陶しい朝日を見上げた。


「へえ、じゃあインドア派なんだ。まあ、そうですよね。救急医って忙しそうだし」

 あやぽん、二十七歳。趣味はサーフィン。休日は九十九里浜まで出て波に乗るらしい。

 サーフボードをかかえ微笑んでいる写真に惹かれて話しかけた。実際にあった彼女も健康的に日に焼けた肌をしている。

 彼女がデート場所に選んだのは小洒落た喫茶店だった。土曜日の昼時ということで客入りもそこそこで、ホールの店員も忙しなく動き回っていた。

「忙しいのは覚悟してたことですから……アヤさんだって暇ってわけではないでしょう。管理栄養士なんて立派ですよ」

 管理栄養士というだけあって、彼女は健康的なサラダのついたランチセットを選んでいた。女性とこうして話すことなんて久々なのに、中にはパニックを起こしていることもある患者たちの相手と比べれば緊張など微々たるものだった。

 会計を済ませ、喫茶店を出てからは海沿いの公園を散歩することになった。

「久しぶりです、こうして風に当たるの」

「本当に多忙なんですね、尊敬します」

「そんな風に言ってくれる人中々いないとおもいますよ、忙しいとそれだけ二人の時間も取れないですから」

「そうなんですね……」

 寛容な人だと思ったし、素直に俺は好感を覚えた。

「あ!みてください、海月がいるバーですって。ね、行ってみませんか?」

 彼女はさも自然そうな仕草で俺の腕に自分の体をくつつけてくる。

「ね、いいでしょう?」

 その日、俺はわかったことがいくつかあった。女は簡単に股を開くということ。誰もが真剣に恋人を求めてマッチングアプリをやっているわけではない、ということだ。


 体だけの関係は楽なんだろうと思った、いかんせん恋愛と違って面倒なことが少ない。  

 開いたアヤの身体には他の男のつけたキスマークが小花のように赤く点々とついていた。

 なし崩し的にも関係を持ってしまったであろう自分にも責任はあるのだろうが、別れてからもきていたアヤからの連絡は無視ししていた。

 タクシーを降りて玄関のドアを開く。腕時計を見ると深夜の三時だった。明日の勤務を午後からにして良かった。

 室内はユキがいるだろうにも関わらず真っ暗だった。とすん、と胸元に何かがもたれかかってくる。

「遅い」

 ユキの体だった。何をしていたのかとても冷たい。どうにも酒臭い、ユキは泥酔している様子だった。

「遅い、遅い。それに臭い」

 どの口が言うか。自分で匂いを嗅いでみてもさして臭いとは思えない。まだ加齢臭なんて年でもないはずだ。

「なんでそんなに怒ってんだ。それに、距離近いぞお前」

「……うるさい。この、」

 俺と目を合わせることもなく、ユキはしたったらずな声で言い放った。

「あ、おい。ユキ! 待っ」

 そして俺の体を押しのけるように玄関から出て行ってしまった。バタン、と扉の閉じる音がした。彼女のいない部屋は、朝方の休憩室のように冷たくて重々しくて、いたたまれないことに気づいた。


 多分この世界に愛なんてものはなくて。安定を求め生まれた欲望を綺麗事で包んだものを、人は愛だとか恋だとか言い張っているんだと思う。

「赤いコートに、黒いワンピース……」 

 それでも愛を追い求めてしまうのは、きっと俺がまっとうに人間だからだ。

 あれからアヤの連絡先は消した。俺が欲しいのは他者の温もりではなくて、誰かの居る家だということに気づいた。

 他者を救い続けている俺を救ってくれる誰かに、俺はまた出会いたいと思ってしまっている。

「園田理人さん、まだサバ読み続けてるんですね」

 後ろからかかった声に俺は驚いて、まず色々な小言を脳内に並べた。声が出なかった。

「あなたにも今から始められる恋があるって言ったら、どうしますか」

 

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