フリーテーマ2

『味蕾』


 初まりは、小さく燻った煙からだった。

 放課後、空き教室でタバコを吸っていたのが俺で、それを発見したのが彼女。彼女は愚直な正義感に駆られることもなければ、見なかったふりをして踵を返すこともなかった。

 タバコを口に咥えたまま睨んでも、彼女は微動だにしなかった。ただ、細く白い手足をぶら下げたまま夕日の滲んだ廊下に立ち尽くしていた。

 真夏にも関わらず長袖のワイシャツを着ていた彼女は暑そうな素振りなど見せなかった。自転車を漕いで来たはずなのに汗をかいている様子すらない。彼女のような異物は首都圏からも離れた田舎町では格好の的だった。放課後登校をしているという彼女のことは教室のはぐれものの俺でも知っていた。まさか夏休みの間までいるとは思わなかったが。

 野うさぎの生き血を啜ってたとか、幼稚園児に襲い掛かろうとしたとか。眉唾モノでしかないのに、彼女はそれを白とも黒とも裏付けさせないような体質の持ち主だった。

「失せろ、血なんかやらねぇからな」

 彼女は混血だ。生きるために他者の血液を摂取しなくてはいけない特異体質、その一端。

「...... くさい」

 小さな口を僅かに開けて彼女はつぶやいた。俺の言葉なんか無視して、タバコ臭い教室にずかずかと足を踏み入れてきた。彼女の足にはまっていた室内用サンダルがぱたぱたと音を立てる。

「おい、失せろって」

 彼女は俺に一瞥もせず、窓辺においていた灰皿がわりのチョーク入れを攫っていった。吸い殻にだけ胡乱な目を向け、開いた窓の外に放る。大きな黒い瞳には光が射していなかった。彼女は近くで見れば見るほど、人間味の感じられない風体をしていた。血が通って居るようには見えない紙のような白い肌。人形のように細い体。

 空っぽの教室の席についた彼女はそれから、俺になんか目もくれずにノートや教科書と睨めっこしていた。俺も彼女も中学三年生なのだから、それはごく自然なことだった。

「先生、来るよ。早く逃げた方がいいんじゃない」

 灰皿もなくした俺はいじけた子供のようにただその場に立ち尽くすばかりだ。それが彼女なりの親切心だったのか、厄介払いだったのかはわからない。ただ、そのあとすぐに聞こえてきた大人の靴音に、俺の体は反射的に動いた。

 一階に位置する空き教室の窓枠を飛び越えて、俺は駆け出した。彼女の言うことに耳を貸したのが、そのときの俺にとっては少し癪だった。

 俺はただの生意気なガキだった。髪色の抜き方や染め方も知らなかったし、普通の少年のようなグレ方も知らなかった。教えてくれるような友達もいなかった。

 ただ父の営んでいる酒屋からタバコをくすねて吸うことだけでしか、自分自身との上手な付き合い方ができない。父さんは、俺の行いを見て見ぬふりしてくれていたのだと思う。

 その証に、父さんは俺と顔を会わせるたびに申し訳なさそうな顔をする。実の子ども相手にするような表情でないことは馬鹿な俺にでもわかった。俺はそんな父さんの表情をみるたびに、母親への嫌悪感を募らせた。

「ゼンか」

 俺が頷くと、父さんは店内の長椅子に座るように勧めた。俺に気を遣ってか、店前の看板を“商い中”から“ただいま不在”に変えてくれた。

 父さんが出してくれた麦茶を喉に流し込むようにして飲み干す。学校を飛び出すように出てきてから、俺は汗だくだった。はりついたワイシャツをパタパタと扇ぐ。

「母さんは元気か、それからお前も」

「まぁまぁ、特になんもないよ」

 俺のぶっきらぼうな返事にも父さんはそうかと笑った。俺は父さんのそういうところが好きだった。だから俺は母親と二人の生活に蝕まれそうになっても、自分の生まれを呪うようなこともなかったのだと思う。

 父さんは笑うと、目元に年相応の笑い皺ができる。父さんと俺の目が似ていると母は言っていた。そうして、時には泣き出したり俺に怒鳴りつけたりする。母はそういう人だった。

「今日はこっちに泊まってくか?それなら母さんにも連絡してやる」

 断ろうと思ったのに気づけば俺は首肯していた。俺が中学生にあがった直後、父と母は別居している。家を出たタイミングで父は実家のある隣町で家業を継ぐことにした。同時期に祖父が老人ホームへ入ってしまったことも大きいだろう。

「そうだ。ゼン、お前何が食べたい...... いや、何なら食える?」

「別になんだっていいよ」

 父さんは一言わかった、と言って電話をするために店の奥へ引っ込んでしまった。俺に母との電話をきかせないという気遣いでもあったのだろう。

 家族の糸のようなものが切れてしまったのはいつだったんだろう。父さんが家を出ていった日か、俺がタバコを吸い出してからか、母が母親としての芽を出すようになってしまったからか。父さんの態度がよそよそしいのはしょうがない、もう俺と母の間に入ってくれないのもしょうがない。

 自分一人で耐えていくしかない。俺はまた、父さんの目を盗んで売り物のタバコをちょろまかす。片手の数は超えた行為に、俺はもう罪悪感なんて抱かなかった。ただ、飲み込んだ唾はひどく苦く感じた。翌日、家に帰ったときに母がどんな顔をして俺を出迎えるのかが、そんな苦味に拍車をかけた。外にでてタバコの包みを剥がした。濁った煙だけが苦味を消してくれることを俺は十四で知っていた。

「...... また父さんのところに行ったのね。しかも泊まりまでしてきて」


 玄関には、亡霊のような女が立つくしていた。靴箱の上に飾られた色褪せたドライフラワーは形を保っているのが奇跡に思えるほどカサカサに朽ちている。

 目を合わせる気にもなれないまま、俺は自分の足元と三和土を見ていた。三和土には何足かの俺の靴と、母の履き古したパンプスしかない。

「ごめん」

「行くなとは言わないわ。ただ、善にとっても悪い影響があったら大変じゃない」

 慌てたように優しい母を繕うこの人は一体何のために生きているというのだろう。

 母は赤く腫れた手の甲をしきりにさすっていた。まるでお前のせいだとでもいいたげに。

 またきっと、物に当たって無意味な暴力を振るったのだろう。母の半狂乱な声は脳にトラウマとしてしっかりこびりついている。母の口癖は俺のため、俺になにかあってはいけないから。そうやって少しずつ呪いをかけるような人だった。

「朝ごはん、食べるでしょ。善の分もちゃんと用意してあるから早くあがりなさい」

 都会で生きてきた母にとっては、蔑ろにされてばかりの田舎の生活はさぞ苦痛だったのだろう。母は一人の人間として、俺を縛り付けておかないと自分が本当に一人になること

 を知っている。ノロノロと靴を脱いでいると、母がおもむろに振り返った。

「ああそうだ...... 善。ただいまは?」

 ただいま。おかえりなさい。

 短い言葉で成立するやりとりが、俺をこの家に、田舎に無意識に縛り付けている。母子の絆は、その卑しさに気づいても逃れられない理不尽な楔だった。

 ダイニングのテーブルには冷めた朝食にラップがかかっていた。白いご飯、油揚げの味噌汁、小さめの焼き魚。小鉢には深緑色のほうれん草のお浸しが飾るように盛り付けられている。反対側の席には母の分も同じように用意されていた。

「善が帰ってくるのを待っていたのよ。お母さんお腹すいちゃった」

 シミのついたカーペット、穴の空いた壁、この家には歪な穴が多過ぎた。椅子に座ると、体の力が抜けていく感じがする。とうに消えた食事への嫌悪感は何も感じられない虚無に変わってしまったのかもしれない。

「温め終わったから食べて」

 食事への嫌悪感を覚えたのは、母親の機嫌がことさら悪いのが夕方だったからだろう。

 味噌汁をこぼせば手のひらをつねられたし、嫌いな野菜にてをつけなければ食べ終わるまで椅子に縛り付けられた。

 でも、一番の原因は。

「どうしたの?早く食べなさい」

 母の声に怒りが滲み始める。俺は箸とお椀を持った。急かされるように汁物を喉に流し込む。

 いつも通り、味は感じなかった。

 母が父への怒りを食事で発散するようになってからだった。汁物に絵の具を混ぜ、おかずに異常な量の酢を混ぜる。そうやって、ストレスを発散するようになってから、俺はものを食べても何も感じなくなった。

「どう?おいしい?」

 味噌汁を飲んでも、緑茶を飲んでいるのと大して変わらない。ご飯も、丸めた粘土と食べ比べても何も変わらないに違いない。だから、あれから、父が倒れてから母が反省してまともなものを作るようになったのかも俺にはわからない。

「おいしいよ」

 よかった、と言って母が笑う。

 父が限界を迎え、俺がこの家に一人残されてから俺の舌はおかしくなった。きっと俺は、無意識のうちに母から自分自身を守っていたのだろう。

 食器の中身を傾ける。咀嚼もそこそこに食事を喉に流し込み続ける。俺にとっては食事なんて一日に三度ある作業でしかなかった。ごちそうさまと一言残して席を立つと、母が俺の手首を掴んだ。アカギレや小さな傷の目立つ左手はカサカサに乾いて硬くなっていた。

「ああ、そうだ。善の部屋、母さんが片付けておいてあげたからね」

 嫌な予感がして部屋に向かうと、予想通り俺の部屋は元よりも殺風景になっていた。父さんから譲ってもらったものや、アルバムが一通りなくなっていた。引き出しや本棚を荒らすように探しても、全てなくなっていた。

 ポケットのライターに手を伸ばす。震える指でタバコを取り出す。遊び心で吸い始めたタバコが、最近では足りないと感じるようになっていた。いつしか母とする食事のあとタバコを吸うのは習慣になっていた。喉の奥を突き抜けるメンソールの爽快感は唯一感じることのできる味だった。俺にとって、それが食事の代わりになっていた。

 あの日以降、夏休みだというのに俺と彼女は空き教室でよく遭遇した。彼女の方が俺を避けて来なくなるだろうと踏んでいたのにどうしてかそのアテは外れた。俺も彼女のことをわざわざ避けて居場所を変えるなんてことはしたくなかった。居場所がないなりの抵抗のつもりだったんだと思う。きっと彼女も同じだったのだろう。はぐれもの同士が奇妙な意地の張り合いをしていた、それだけのことだった。

 彼女は、教室へ入るときに俺のことを一瞥するだけで、いつも窓際の一番前の席に座っていた。俺から話しかけることも、彼女から何か言ってくることもなかった。

 あるときは英語、あるときは理科の教科書を開いて勉強に励んでいた。多分、一番多かったのは国語だった。苦手だったのか、あるいは好きだったのかは今となってはわからない。

 彼女の成績表なんてものは終ぞ見る機会がなかったからだ。

 俺の母は、俺が学校の図書館で勉強をするといえば喜んで俺を送り出した。家にいるのが嫌だった。俺なんかでも、息が詰まるような感覚がした。

 家に帰るのが嫌だった俺は、彼女が教師から受けていた退屈な授業を地べたに座り込んで聞く日もあった。時折聞こえてくる若い少女の笑い声が彼女のものだとはすぐに気づけなかった。

 日中、自由解放されているプールの方から聞こえてくる呑気な笑い声とそう変わりなかった。聞こえてくるたびにいたたまれなくなるような声と、そう変わりなかった。

 どうしてだか自分が本当に一人になったような気持ちになったのを覚えている。

「...... 夏休み中なにしてるか、ですか。最近は家の近くの公園で星を見たりします。花火とかはやらないです、匂いがあんまり、好きじゃないんです」

 彼女は教師の前では真面目な学生のように喋った。生きるための分別をつけていたのだろう。必要なもの、そうでないもの。彼女はその区別が上手かった。

「別に、こうして授業を受けられるだけでいいんです。私が人と違う生活をしてるのを恨んだりするつもりはないし、混血に生まれたことも不幸だとは思いません」

 本音にも嘘にも聞こえた。きっとどっちもがない混ぜになっていた。俺には、謙虚な彼女が弱者の姿に見えた。雑草だけが生い茂る花壇にしゃがみ込んだまま、どんな顔をして言葉を紡いでいるかもわからない彼女を、俺はそのとき初めて哀れだと思った。

「混血は現代の吸血鬼なんて言われますけど、何も人に噛み付かないと生きていけないわけではないんですよ...... そんなことが気になるんですか?」

 また彼女がくすくすと笑ったのがわかった。ただ、その笑みは明らかに作為的だった。猥雑にも感じられる声に、背筋が冷たくなる。田舎にいるくたびれたオヤジ教師に媚を売って何になる?茹だるような嫌悪感を覚えたまま、俺はその場を去った。

 彼女は人と違う、一面を見てしまった日があった。噂の一パーセントくらいは本当なのではないかと思ってしまうような出来事だった。

 俺と彼女は言葉を交わさず、教師の足音を合図に言葉もなく別れる。ただあるとき、俺は去り際に偶然それを見てしまった。俺が窓から出た後、黒板の前で彼女が短くなったチョークを咥え、そのまま口に入れる。ぼりぼりと噛み砕く音がして、喉を鳴らし嚥下した。

 何の悪気もなく異物を口にする犬のように、彼女はためらいなくチョークを口にした。

 背を向けて居る彼女がどんな顔をしているのかはわからない。それがいっそう不気味だった。何かの見間違いだと思ったのに、俺の目はそうでないと知っていた。

 町が妙に活気づいているのを見て、俺は今年もこの季節が来たのかと思った。地元よりかは栄えている隣町と協力して行われる祭りは、田舎ながらも老若男女問わずに盛り上がる一大イベントだった。母と父と手を繋いで祖父の店前に飾られる祭り用提灯を見にいった日はもう遠い世界の昔話のように思えた。

 夏祭りの数日前、自転車で田圃沿いを走っているとまつり法被を着た大人子供の姿がやけに目立っていた。道沿い並ぶ提灯を見て、父がどうしているのか気になった俺は気づけば父の店のある隣町の商店街に向かって自転車を漕いでいた。


 商店街は妙な静けさで満たされていた。おそらく俺がつく少し前までは夕飯時の主婦が買い物をしていたり、学生が買い食いをしたりしていたのだろう。だが、祭りの前というのもあってあちこちへ人がはけていた。

 だから、静けさから浮いたその光景はよく目立った。父の店の前で、父と知らない女が喋っていた。ただならない雰囲気だということは俺にもすぐわかった。

 妖しく光る提灯が二人の姿を照らす。点々と繋がっている小さな光たちは暗闇を突き抜けてどこまでも続いているように見えた。二人がこちらに気づいている様子はない。見なかったことにして逃げ出してしまいたいのに足が動かなかった。

 ひょっとしたら安心したかったのかもしれない。ひとしきり二人のやりとりを静観して、そういう関係ではないことをこの目で確かめたかったのかもしれない。

 だけど子供じみた淡い期待は一瞬で打ち砕かれた。

 ほんの一瞬だが、暗がりに伸びる二人の影がひとつに重なった。プラスチック容器で泳ぐ金魚の群れが行き交うくらいの距離のはずなのに、それは俺の世界を崩す大事だった。

 多分それは、俺の心に残っていた最後の子どもらしい未練だった。昔に戻りたい。母と父と三人で手を繋いでいたあの祭りの日に戻りたい。肌に張り付くような暑さの中、俺の最後の願いがあっけなく打ち砕かれた。

 父は、俺や母といたときよりも幸せそうな顔をしていた。初めて見る、男としての父の姿。ふたたび二人の影が重なる。今度は軽い触れ合いでは済まなかった。父が女を喰らっているようにも、女が父を毒牙で蝕んでいるようにも見えた。もうそこに俺の知っている

 父の姿はなかった。

 唐突にうるさくなった蝉の声に急かされるようにして俺は来た方へ逃げ戻るようにペダルを漕いだ。

「...... ゼン、ゼン!」

 祭囃子の奥から俺を呼ぶ声がして、椅子にもたれるように座っていた俺ははっと我に帰った。

 頭にタオルを巻いた父さんが、心配そうな目でこちらを見下ろしていた。

 ついさっきまで茜色だったはずの空はいつの間にか暗くなっていて、空高くひかる月の周りを細い雲が覆っていた。

 祭り当日は、大掛かりな準備の甲斐あってか、例年通り大いに盛り上がりを見せていた。

「体調悪いんじゃないのか、せめてなにか腹に入れたほうがいい」

 父さんは祭り当日に手伝いをしようかという俺の申し出を二つ返事で受けた。露店を出すなら男手は欲しいだろうし、祭りの日は稼ぎがあがるチャンスでもある。

 内心、俺は先日のことを父に問い質したかった。

「いらない、別に腹減ってないし」

「昼間から来て設営までやってくれただろ、いいんだよ。ほら」


 そう言って父は俺の手に千円札を握らせた。何か買ってこいということだろう。

「父さんは、何か食べたいものないのか」

「俺はいいんだよ。自分で適当に買いにいくから」

 父さんは行った行った、とでもいうように軽く手を振る。その間にも、何人かの客が足を止めて酒を買おうかと悩んでいるようだった。

「じゃあ、行ってくるよ」

 居座っていた露店のパイプ椅子から立ち上がると、視界を覆ったのは目の眩むような眩しさだった。

 人工的な光が夜を活気づけている景色は、よくも悪くも俺の目をちかちかさせた。

 人混みのざわめきを縫うように響く客引きの声。履き慣れなそうな下駄の鳴らす足音。視界には浴衣やジンベイ、小じゃれた私服などの色とりどりの装いが往来していた。

 俺の大嫌いな田舎町は、祭りの一日だけまるで別物みたいな姿で夜を迎える。

 目的地もないから、行き交う人々に紛れるようにして人混みに入り込む。りんご飴、ヨーヨー釣り、ベビーカステラ。どこも繁盛しているようで、大人たちは忙しなく手足を動かしていた。特別興味をそそられるものもない。ポケットに仕舞いこんだ千円札はそのまま父さんに返すことになりそうだった。

 複雑にさまざまなものが入り混じって居るこの空間が好きだったはずなのに、どうしてか今は何も感じなかった。

 どうしてか、彼女のことを思い出していた。

 いくつかのお面をちぐはぐにつけて大声で笑っている子どもがいて、飲みすぎたのか千鳥足のおじさん集団がいて、そこそこに迷惑な悪ノリをしている若者がいる。

 それを誰も咎めやしないのに、彼女の姿を見つければみんな騒ぎ立てるのだろう。

 混血だ襲われると騒ぐ奴もいるんだろう。彼女だけが許されないのが、どうにも理不尽に思えた。

 鉄板で焼きそばがジュウジュウと焼けている匂いが漂ってくる。ふと目の前の人たちの足が止まった。何も買わなければ父にも申し訳ないかと思い、俺は焼きそばを一つ買った。

 手渡されたときの祭りの食べ物特有の温度を感じられれば俺はそれで十分に思えた。

 少ししてどうして突然人並みが停滞し始めたのかわかった。この先は神社だ。祭りのシメでもある打ち上げ花火を見るためにみんな集まりだしているのだろう。早ければ数時間前から場所取りをしている者もいるくらいだ。

 長い階段を登れば、それだけ花火が近くで見れるから、花火目当ての人で祭り終盤はごったがえす。このまま押し流されるようにして神社にいく羽目になってはたまらない。引き返そうと後ろを見るも、神社方面へ進んでくる人ばかりで身動きが取れなくなる。

 中学生当時の俺はあまり身長もないしガタイがいいわけでもなかった。時にはもっと年下だと思われることもあったくらいだ。

 背伸びをすると後ろからは続々と人が花火目当てに押し寄せてきているのがみえた。中には俺と同じ中学のジャージをきているやつがいるのも見えた。大して友達もいなかった俺は、知り合いに見つかっては嫌だからとさっと視線を逸らした。

 前の人々がゆっくりと歩き出す。どうやら、列のような人混みができたのは神輿が神社近くまで運ばれていたせいだったらしい。

 緩やかな人混みに結局流されるようにして神社の階段を登り始める。登り終えた上ではすでに場所取りを終えていたらしい人々が盛り上がっているのが見えた。

 神社の近くにもいくつか露店はあるので、その客引きの声も聞こえてきた。

 人が昇一方の階段を降りてくる人の姿はない。このまま登ってしまえば、打ち上げ花火が終わるまでは父さんの元へも帰れそうにない。俺がいなくとも困ることはないだろうが、こんなことなら散策もそこそこにしておけばよかったと後悔する。

 神社までたどり着いたときには、打ち上げ花火が上がり始めていた。花火を見る予定なんてなかった俺は、せめて人の少ない場所を探すのに必死だった。なんせ皆一様に立ち上がって空を見上げている。その間をくぐり抜けて、神社の裏側に着く頃にはもうヘトヘトだった。

 座れるくらいの大きな石を見つけ、座ろうと近づいたとき。

「いッ」

 何かに躓いた。最初は神社に居着いた野良猫か何かだと思ったが、それよりはるかに大きい。うずくまっていたらしい人影は、俺に蹴られたことでバッと顔をあげた。

「な、お前!」

「...... どうして、こんなところにいるの」

 不機嫌そうに下を向いた彼女の顔は長い髪に隠れていて見えない。声色は普段以上に機嫌が悪そうだった。

「こっちのセリフだろ。お前こそなんで」

 ヒュー...... という気の抜けた音がした次の瞬間には、ドカン!と空の一部が弾け飛ん

 だような轟音が響く。

「帰れないんだよ、夜はお母さんが仕事中だから」

 消え入りそうな声で彼女はつぶやいた。自嘲するような響きも含まれているように思えた。彼女が嫌われている理由のうちには、彼女の母親の存在も含まれているのは間違いない。彼女の母さんがどこどこの亭主を寝取ったなんて噂話も聞く。

 空には一際大きな花火が舞い散った。そんな眩い光の下で、彼女は泣いていた。

 目があった時間はわずかだったが、彼女の頬が涙で濡れているのははっきりとわかった。

「早く、どっかいってよ...... 早く!」

「やだね。お前は俺が失せろって言った時もずかずか入ってきただろ」

「ものの頼み方も知らないわけ?失せろって言われてはいそうですかなんてならない」

「そりゃこっちのセリフだね。どっか言って欲しいなら頼み方があるだろ」

「なんでそうまでしてここに居座ろうとするの。私は、出て行きたくとも人前に出られないの!」

「なんでだよ」

「私が、嫌われてるから。私の方から近づいたりしたくない」

「俺だってそうだよ。だからまたあんな人混みに戻るなんてごめんだね」

 そこまでいって、お互いに言葉を切らしたかのように黙り込んだ。

 彼女は俯いて、耳を塞ぐように手をあてていた。空に花火が弾けるたびに、小さく体を震わせていた。何か恐ろしいものから身を守っているようにも、痛みに耐えているようにも見えた。

 最後の大きな一発が空に登って、光が散り散りになってからも彼女は動かなかった。俺もなぜかそこを動こかなかった。いじけた子どもたちの見栄でしかなかったのかもしれない。

 だがこのまま帰って何になるんだろう。静かになりすぎてしまった空間に取り残されて思った。なんなら、帰りたくないとまで思っていた。このまま干からびて死んでしまいたいとまで思った気もする。

 彼女という化け物が自分を食い殺してくれればいいのに、そんな期待もあった。

 あたりに響くのが蝉の声だけになったとき、ぐぅぅ...... という熊の唸り声のような音が聞こえた。彼女の腹の音だった。

 持っていたビニール袋には冷え切った焼きそばが入っている。少し悩んだ末に彼女に向かってつきだした。

「ほら、俺はいらないから食えよ」

「口つけてあるやつ?」

「んなわけあるか、いらないなら持って帰って捨てる」

 彼女のチョークを食べる姿を思い出した。

「食べ物にもったいないことしないで」

 彼女は俺を睨みつけながらも、割り箸を割って焼きそばに口をつけた。

「血液以外でもいいんだな」

「馬鹿にしないでよ。あなたたちが思って居る以上に、私たちは人間だから」

「チョークなんか食ってたヤツがよく言うな」

 酔いが覚めたような感覚に近かった気がする。

「そう、見たんだ」

「見たくもなかったけどな」

 彼女が咥えていた箸がパキパキと音を立てた。鋭利な二本の牙が食い込んでいるのだろう。

「別にこれ以上変な噂が増えたところで迷惑もしない。好きに言いふらせばいい」

 彼女の牙がさらに深くめりこんで、割り箸が砕けた。もう隠すつもりもないようで、彼女は咥えていた部分の箸を何の躊躇いもなく咀嚼する。


「言いふらしてなんの得があんだよ」

 美味しくも不味くもなさそうな顔で異物を口にしている。彼女と同じように異物を口にしたって、俺はきっと何も感じやしないのだろう。

 じゃあな、とだけいいのこして俺は踵を返す。

「...... 行くの?」

「当たり前だろ」

 父さんが心配していてもおかしくない。早く戻らなくてはいけなかった。彼女は言いにくそうに口元をもごもごとさせている。

「何だよ、言いたいことがあるなら言えよ」

「足、挫いた...... 立ち上がれない」

「...... アンタ、筑井さんとこの息子だろ?妹なんていたかい?」

 閉まりかけの露店のおばさんに声をかけると、あからさまに不快そうな顔をされた。侮蔑の目には、余所者の母さんの息子という理由もあったのだと思う。

「別に、いいじゃないですか」

 にべもない返事に店主の顔は更に曇ったが、俺はそんなことも気にせずにお釣りをポケットにしまった。

 俺が肩を貸してやって神社の階段をどうにか降りてから、彼女のことは暗い木陰に待た

 せていた。女児向けの魔法少女のお面を手渡すと、彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。

「他にはなかったの?」

 田舎町で顔の知れている彼女は顔を隠したがった。渋々俺は余った小銭でお面を買ってやった。ある意味有名人みたいだな、なんて呑気なことを思っていた。

「あとはピカチューとか覆面戦士しかなかった。これが一番マシだろ」

「...... わかった。ありがとう」

 不服そうにではあるが、彼女はお面をつけた。側からは変なはしゃぎ方をしている若者くらいにしか見えない。もちろん周囲から浮きはするが、目玉の花火は終わって人の数もまばらになってきている。

「じゃあ、次会った時に一連のお金は返す」

「別にいらねーよ」

 彼女は片足を引きずるようによたよたと歩き出し、

「いぅっ」

 目の前の樹木に頭をぶつけた。なんせ子ども向けのお面だ。視界は狭いに違いなかった。

「...... 俺も帰る、会場出るまでなら肩貸す」

「もう少し、思いやりのある言い方ができればいいのにね」

 ぶつけた額をお面越しに摩りながら言う彼女は少しだけ笑っているように見えた。


「...... 私がチョーク、食べてたの、本当に周りに言いふらさないの?」

「だから言わないって言っただろ。しつけえな」

「だって、変じゃない」

「当たり前に変だよ」

「...... でも、ああやっていろいろ食べていれば、お腹の当たりが落ち着くの。血なんか飲

 まなくても」

「なら好きにすればいい」

 彼女はうん、と言って頷いた。

「チョークって何の味がするんだ」

「気になるなら君もかじってみればいいんじゃない?」

「どうせ何の味もしねえよ」

「え。何?」

「何でもない」

 人のいなくなった通りの提灯は数時間前よりも光を弱めているように見えた。父さんの出店は端の方にある。俺のことを探しているかもしれないと思うと自然と足が速くなった。

 そのたびに彼女に服を引っ張られ早いと小突かれた。

 しばらく歩いた末に俺は足を止めた。ワンテンポ遅れた彼女の足がもつれそうになる。

「う、急に止まらないでよ...... 私目の前殆ど見えないんだから」

 父は、また見知らぬ女といた。この前見た女と同じだろう。確か、父と同じように商店街で働いていた。

 俺が今更戻ろうと、邪魔になるだけだ。

「他の道から行こう」

「は、急にどうしてよ。一回戻ったりしたら遠回りになるじゃない」

 彼女の足取りが重くなる。赤く腫れた足首を摩り、彼女はいよいよ足を止めた。

「ほら、足痛いならおぶるから速く乗れ」

 地面に膝をつけて背中に乗るように促す。彼女のぶつくさと文句をいう声が聞こえたが、しぶしぶといったように俺の背中に軽い体を預けた。

「...... なんで、急にしょげてるのよ」

「余計なこと聞くなら降ろして帰るぞ」

「私が焼きそば食べたから?」

「違う」

「あれ、君の分だったんでしょ。くれなくてもよかったのに。お腹が空くのは、苦しいよ」

「だから違うって言ってんだろ!」

「確かに、私たちの空腹や食への渇望は理解できないのかもしれない」

「自分は普通の人間と変わらないんだって言ったり、今度は普通の人間には理解できないだろうって素振り見せたり、ガキみてえだ」


「君だって、いきがっているつもりでもまだまだ子どもだよ。こんなに密着して、私が君

 の首筋に牙をつきたてない保証なんてない」

 首に回された腕がふいに首を撫でて、背筋のあたりが粟立つのを感じた。

「...... ここまででいいだろ?」

「ありがとう、借りは今度ちゃんと返すから」

 彼女の家は祭りの会場からも近かった。光のついていない黄色い家。おそらく中には彼女の母親と、男がいて...... 。

「そうだ、最初に会った時から思ったんだけど」

 いつの間にかお面を外していた彼女は笑っていた。口の端からは牙が見えた。俺や、この町のほとんどの人間にはないものだった。

「君、馬鹿でくさいね。それに前よりも、ずっとくさくなってる。隠していたって私にはわかるよ」

 顔から外したお面を指先で弄ぶ彼女は微笑んでいた。それこそが彼女の本性なのだということが俺にはわかった。タバコの本数は日に日に増えていて、あっという間にそこをつきることもあった。少し前から、消臭剤を使うようにもなっていた。

 帰ろう、暗闇をたどる足はいつの間にか早歩きになっていて、気づけば走り出していた。

 ただ、こんなふうに暗がりでもがいてどこに帰ればいいというんだろう。

 夏の終わり、一本の電話でいくつかの人生が狂った。母親が自殺未遂を起こした。

 父親から離婚届を押し付けられた母は、頑なにサインをしなかった。父から他に好きな

 人ができたと突きつけられたとき、ついに母は壊れた。

「味がしないのって本当なのね」

 夕暮れの教室は気持ち悪いくらいに穏やかだった。

 これすごい不味いのに、と言って彼女はら持ってきたクッキーを袋ごとゴミ箱に押し込

 んだ。包装用の小さなリボンだけは小さな唇に押し込んでそのまま嚥下する。

「味がしなくたっていいだろ」

 食えと勧められたクッキーを口にしただけで彼女はそう言った。固められた土のような

 食感だけが舌の上をくすぐった。やはり味はしないのだ。

「...... 何か話したいんじゃないの?もうそろそろ先生がくるよ」

 彼女の今にも脱げそうなブカブカのサンダルがパタパタと音を立てた。

「話すつもりがないならそんな顔しないでよ」

「俺を、喰ってほしい」

「...... 血はくれないんじゃなかったの?君は餌にしても美味しくないと思うけど」

「誰かにとって役立つうちに、死にたいだけだ、血液なら飲めないことはないだろ」

「自分がどんだけ都合いいこと言ってるのかわかんないの、君」

 冷たい手に手首を掴まれ、彼女の顔が近づいてきたと思ったら首筋に注射針よりも深い


 痛みが走った。両目から涙が溢れたのが自分でも不思議だった。唾液を啜るような音が聞こえて、自分の体から力が抜けていく。彼女に掴まれていた手も力が抜けてぶらんと腕が机を滑り落ちる。

 俺のワイシャツが点々と赤く染まる。もう痛みは感じなかった。

 意識が朦朧とするなか、彼女の唇が首筋から離れてゆく。俯いていた俺の顔を掴み、彼女は俺に口付けた。熱いものが唇を割って入ってきて、唾液と共に違う液体も口内を犯すのがわかった。彼女に溺れそうになりながら、鈍った味蕾をいたぶられるのを感じた。

 飲み込めというように舌を押し込んでくる彼女に逆らう気力は起きなかった。

「それが君の味、ろくでもないでしょ」

 あんなことをしておきながら俺を冷たい目で見下ろす彼女は綺麗だった。首を食いちぎられて、彼女の一部になったとしたらそれはしあわせなことだったと思う。

 赤い噛みあとを流れる血をひとすじ舐めると、どうしてか言い表せないが先ほどよりもまずかった。

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