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『雨宿奇譚』 


 雫は絶えず窓を伝っている。明日も、昨日も、明後日も。

 時の流れなんてこの場所には無縁のように思える。部屋一面の白い壁は綺麗とは言い難いが、どこか均等な経年劣化を見せながら凝り固まったように佇んでいる。

 外から何かを入れることもなければ、中から私を出すこともない。

 硬い屋根を叩く強い雨音が聞こえる。雨の降り注ぐ風景は見える。ただ、触れることができない。開くことのない嵌め殺しの窓は決して外界との交わりを許してくれない。悲しいと思う心も、涙もとうの昔に枯れ果ててしまった。

 雨粒の音に混じり、石畳の階段を登ってくる足音がした。私はソファに寝転んだまま、瞳を閉じていた。ノックの音がして、返事など待たずに扉が開く。

「智秋。どれくらいぶりだっけ?」

 外套をまとった少女はため息をついた。裾から覗く肌は青白く瞳は暗く陰っている。彼女は止まない雨を不快に思う唯一の存在だった。それに、定期的に食事や生活用品を持ってきてくれる。

「空も雨雲で覆われているんだから時間感覚なんて狂って当然じゃない」

 智秋は小さく肩をすくめて、人差し指を立てた。

「昨日? 本当に? ああ、ボケ老人にでもなった気分」

 彼女は雨粒の張り付いた外套をかけながら呆れたような顔をした。智秋の色素の抜けた白く長い髪が揺れる。この髪がまだ黒くて、日に当たり輝いていた頃に戻れたらどんなに良いだろう。

「また缶なの? もういい加減飽きたんだけどなあ」

 鎖のついた足を引きずるように彼女に近づき、彼女の抱えている袋の中身を覗き込む。彼女が深く頷き、魚や肉の缶詰を見せてくる。仕方ないだろう、とでも言いたげな目に睨まれてしまうと何も言えなかった。

「老害連中に媚でも売れば少しはマシになるのかな。絶対に嫌だけど」

「……ふっ」 

 彼女の青白い肌に少しだけ赤みが差した。

「もう、笑い事じゃないのに」

 私たちは会話が途切れるとお互いに雨の音に耳を傾けて、気づけば隣の三角の塔に二人して目をやっている。智秋がどんな思いで見つめているのか聞いたことはないし、舌を切られた彼女はもう何も物を言えない。ここにはただ、雨音と静寂だけがある。


 そのうち眠ってしまって夢を見た。昔のよく笑う智秋が出てきた。「小春!」と私を呼んで手招きしてくれる。彼女の弟である冬之助も出てきた。皆、幼い姿をしていて、野を駆け回っていた。太陽の眩しさを日常に感じるくらいには、昔のことだった。雨だけの世界になるだなんて思いもしない私たちは無邪気に笑っていた。

 何を話しているかなんてわからなかったけど、智秋にはまだ舌があって。私は狭い塔になんか閉じ込められていない。冬之助も三角の塔に縛り付けられてなんかいない。みんな自由だった。

 雨の音が強くなったように感じて、気づけば雨の降る現実に戻ってきていた。私が勢いよく上半身を起こすと、掃除をしていた智秋が驚いた様子で振り向いた。まだ彼女がいたことに妙な安心感を覚える。

 智秋と最後に話したとき私たちはどんな話をしていたか。彼は今、どんな気持ちで閉ざされた生活をしているのか。

 窓の向こう、三角の塔に明かりが灯っていた。お陰で今が夜だとわかるし、彼がまだ生きているかもしれないという希望が持てる。い

 また眠るのも嫌で、私は本棚から絵本を引き抜いた。私から智秋を通して本が欲しいと頼んだら、定期的に本が届くようになった。私は文字が読めないから、絵本や図鑑くらいしか見ていて楽しくないけど。

 智秋が不思議そうな目で絵本を見つめていた。ふとした瞬間が、彼女の双子の弟だった冬之助によく似ていると感じる。悪戯をした私をよく睨むところなんて特に。

「最初に読んだ時は嫌いだったけど、今はこの本が一番好き」

 ふぅん、というような声で彼女は答えた。彼女もいつかこの絵本が嫌いだと言っていた。こんなに世界は綺麗じゃない、と明るさを失った彼女は冷たい顔で答えた。冬之助が三角の塔に閉じ込められて間もなくのことだった。

「ここが汚いから絵本の世界がすごく綺麗に見える。青空の色なんてもう思い出せないから、懐かしくなった時この絵本を眺めるの」

 田圃や花畑の絵を見ていると、無くしたものを拾い集めているような気分になれた。

 晴天の空の下、何人かの子供たちが畦道を歩いている絵を見せると、智秋は嬉しそうな、悲しそうな顔をした。それでも、瞳の奥で懐かしい景色を思い出しているのは確かだった。

「それに文字読めないし、絵本の方が楽しい……あ、今子供みたいだと思ったでしょ?」 

 あたり? と聴くと、彼女は今度は迷わずに頷いた。くすくすと笑い、ふと何かに気づいたように黙り込んだ。彼女は何か言おうとして飲み込んだに違いない。

 彼女は今まで一体何度、言葉を嚥下したのだろう。智秋ですら、自分が話せたときの夢を見るのだろうか。

「……そうだ。見て、この田圃の奥にある赤い骨組みの塔。ずっと前から気になってるの。なんのためにあるのかはわからないけど、洗濯物をかけたらよく乾きそうだね?」

 せめて、私だけは笑っていないと。私の笑声に隠れるように、密やかに雨音が息をしていた。


 雨音をかき消すような石畳を蹴る音が塔に響き、姦しく扉が開け放たれた。

 外套から滴る水滴が白い床を濡らしてゆく。此処が私の住処だと嘲笑しておきながら、老人たちは此処をまるで我が物かのように踏み荒らす。

「なんだ、今日は何も投げつけてこないのか」

 偉そうに杖をついた老人が笑う。もう名前すら覚えていない。皆一様に青白い肌をして皺だらけなのだから見分けなんかつかない。何より覚えておく価値がない。

「今にもくたばりそうな老人にそんなことしない」

「小生意気な! お前の舌も切ってやっても良いのだぞ」

 怒りに支配されたガリガリの老人は地獄の亡者のように見えた。振り下ろされた杖は私の肩をぶったが、所詮は老人の力だった。

「……それで今日は何?」

 石段を登る乱暴な足音は不幸しか運んでこないのはよく知っている。彼が捉えられ、智秋が舌を無くし、私に足枷がつけられた。

 こちらを伺っていた骨の透けてみえそうな老婆が二人、外套をかぶったまま部屋に入ってきた。何人も引き連れてここへ来るのはいつものことだった。

 問題は彼女たちの後ろに此方を睨みつける一人の少年がいることだった。外套をかぶっていないせいで体はずぶ濡れだ。額に張り付いた髪の奥に見える顔立ちもまだ幼い、年は十そこらだろう。絵本の中の人のような服を着ている。血の通っていることがよくわかる肌をしていた。こんなことはありえない。私は自分の目を疑った。

「なぜこれがこの村へ来れたのか、それをお前が聞き出せ」

 どうしてこの少年がぼろぼろなのか、老人たちの向ける卑しみの目を見ればすぐにわかった。縄で両腕を縛られた少年はずぶ濡れのまま震えている。

「他所からその子を攫ってきたわけじゃあないの? それになぜ私に」

「ふん、そんな無意味なことをするものか。下手に処分すれば余所者が紛れ込めるようになるやもしれぬからな。そんなことがあってはならないのだ」

 狐のように目の吊り上がった老婆が唾を飛ばしながらまくしてたる。それをすぐに顔を赤くした老人が制止した。

「余計なことは言わんでいい!」

 杖の老人が濁った声で檄を飛ばす。瀕死の動物の咆哮のようだった。

「わかったな……アイツのことがまだ大切ならわかっているだろう」 

 老人が骨ばんだ手で三角の塔を指さした。私の顔が怒りに火照る。冗談じゃない。もしも聞き出せなければ彼がどうなることかわからない。でも、引き受けないことには何も始まらない。あのちっぽけな灯火が、いつ消えてしまうかもわからないのだから。

「わかった」

 小さな声は雨の雑踏に揉み消されそうだった。


 老人たちが去った後、放り出された少年は無言のまま座り込んでいた。部屋を見渡すこともなく、私の方を気にする様子もない。ぽたぽたと自分の体をしたたる水滴も胃に解する様子がない。血の通った子どもだというのに置物か剥製のように大人しい。

 塔を訪れた智秋は見知らぬ子供と私をみて狐につままれたような顔をした。

「智秋、待ってたよ。この子をどうにかしてあげてくれない?」

 智秋は鎖に繋がれた私の代わりに少年の体を拭いてやりながら私の話を聞いていた。智秋が傷薬を少年の腕や生傷の絶えない足に塗ると、彼はそこで初めて「痛ッ」と声を上げた。

「君、名前は?」

 少年はまた置物のように固まる。言わないなら名無しの権兵衛と呼ぶよ、と冗談混じりに言うと、智秋と私の顔を交互に見つめて、少し悩んでから口を開いた。

「夏陽」

 消えいりそうな声だった。

「夏陽。君はどんなところで暮らしていたの?」

 今度は答えてくれなかった。それなら答えるまでくすぐるよ、と言っても変わらなかった。智秋には頭を叩かれた。

「……ここ、ずっと、墓みたいな匂いがする」

 智秋に頭を撫でられた夏陽は少し体を震わせたが、智秋にだけは心を許したようだった。

「きっと線香の匂いがするせいだね」

 この村自体が墓のようなものだからだ、なんて言えばまた智秋に怒られそうだからやめた。この村からは確かに、線香と雨の匂い以外しないに違いない。

「夏陽の家族は誰か亡くなった?」

 少年は小さな頭を何度も横に振った。

「消えちゃえばいいのにとは思う」

「そう思えるのは幸せなことだよ。私はみんな失ったから。もうずぅっと昔のことだけど」

 昔のことなのに、未だ昨日のことのように思い出せてしまうのはどうしてだろう。きっと、此処に閉じ込められてからは何もないからだ。私は、ここで長い走馬灯を見ているのかもしれない。


            *


 神社の祠で隠れんぼしていたら眠くなって、気づけば少し前まではしなかった雨音がした。目を覚ましたら高層ビルも信号機もない、田舎の風景と大雨の世界が広がっていた。

 少女二人に、僕のことを教えたのが正解だったのかはわからない。それでも、信じられるのは歳の近い彼女たちしかいなかった。

 ガイコツみたいな老人たちは、僕が質問に答えず少しでも黙りこむとイライラして怒鳴ったり、容赦無く叩いた。古臭い服装もあいまって地獄の鬼みたいだった。

 この村には死人みたいに肌が青白い人しかいない。外国人の肌の白さとは全く違う、不健康な色をしている。同じ人間とは思えなかった。

「余所者の分際で村に置いてもらっているんだ、とっとと動け!」

 結局、僕は元の家には帰れていない。誰の許しもなく来ておいて帰れないとは勝手なことだ、と老人には鼻で笑われた。

 数日過ごして、ようやく此処は僕のいた場所とは全く異なる世界だということがわかった。止まない雨やこの村について、智秋に聞いてみても力なく首を横に振られるだけだった。「僕はこれからどうなるの?」と尋ねると、ただ強い力で抱きしめられた。

 村人の一部は僕のいた元の世界へ行き来できるらしい。それによってどうにかこの大雨の世界で生きているそうだ。行き来できる人間がいるんだから夏陽も帰れるよ、と小春は僕をしきりに励ました。あんな家に帰ることを望んじゃいなかったけど、少しだけ安心した。

「おいお前! そっちが終わったら次はこれを運ぶんだぞ!」

 杖の老人にヘコヘコと頭を下げていたネズミ顔の中年男は、僕に偉そうにあれこれと指示をしてきた。僕がここに来てからというものの彼が働いている姿は見たことがない。一体どこから入手したのかネズミ男はマンガ雑誌を捲っている。

 サイズの合わないぶかぶかのカッパを着てランドセルよりもずっと重い麻袋をどうにか持ち上げる。蔵を出ると変わらず雨が降っていた。水溜りに運動靴を沈めるとすぐに靴下まで沁みて気持ち悪い。談笑している村の大人たち数人とすれ違うが頭を下げても無視されてしまった。フードで顔も見えない大人たちは僕をみてどんな顔をしているのかもわからない。大人たちは僕が勝手にうろつかないか見張っている。

 近所の社から出たらこの村にいて振り返れば社はなくなっていたと話しても、よそものだからと社のある神社には入らせてもらえなかった。気が変わって、僕を帰す気がなくなったのかもしれない。

 すれ違った中年の男たちの足は僕の足より細くて骨みたいだった。大人たちは僕よりもちゃんとした食事をしているはずなのに、ここの人はみんなガリガリで真っ白だった。

「私たちはもう歳を取れないから」

 塔に荷物を届けると小春が出迎えてくれた。智秋はいない。どうやら一人で絵本を読んでいるようだった。荷物の中身も本が多いのかもしれない。

 小春の顔はまじまじと見ると、僕よりも少し年上くらいだと思っていたのに、それよりもずっと大人びているように見えたのが不思議だった。

「年なんて勝手に取るものだろ? この村はおじいさんおばあさんばっかりなのに」

「この村自体が、歳を取るのをやめてしまったせい。老人たちはもう何十年も、下手をすれば百年以上あの姿で生きてる。時間がどれくらい経ったかなんてこの空じゃ分からないからなんとも言えないけど」

 智秋にはナイショだからね、と小春は唇に人差し指を当てた。

「……雨が止まず、誰も死なず、それどころか歳も取らない。同じ日を繰り返しているようだと皆が気づいた頃。若者と老人の間で諍いが起きた」

 争いだなんて、自分とは全く違う世界の物語だと思っていた。実際そうだった。僕の住む国は平和で、人が憎しみあって殺し合うなんてことは起こりやしなかった。

「神様が怒ったの。村人たちの盲信……神様を信じるあまりに酷い行いに走ったから。こんな“罰”を老人たちは神様からの贈り物だと信じた。元は殆ど雨の降らない村だったからね」

 今まで気にもしなかった雨音がうるさく思えるくらい、塔は静かだった。こんなにも寂しい場所で小春は過ごしているのかと、どうしてか僕の方が悲しくなった。

「本当はもう私だって老人みたいなものだけど、私たち若者からすればたまったものじゃなかった。老人たちのせいで未来が奪われるなんてまっぴら御免だった」

 小春の銀髪が揺れた。老いでそうなったとは思えない雨みたいな綺麗な髪だった。

「私の友人たちや、そうじゃなかった子たちもみんな抵抗したけどだめだった。最初から」

 小春が顔を両手で覆う。

「私が死んでいれば良かったのに」

 見えないまま体にのしかかるような、あまりに重たい言葉だった。雨の勢いが強くなった。暗い空も、小春の弱々しい姿も、影に覆われて見えた。僕は小春が自分と同じような子どもなのか、嫌な大人なのか、すっかりわからなくなってしまった。

「私のせいで、大切な人が同じように閉じ込められて、親友が声を無くしたから」

 鏡合わせのようにして建つ塔を、乾いた瞳で小春は見つめた。

「昔は、私よりも智秋の方がよく喋っていたんだ、意外だろうけど」

 雨の向こうをぼんやりと眺めている彼女は今、何を考えているんだろう。

「夏陽には、何にも失ってほしくないんだ。こんなところに長居して欲しくない」

 彼女には、まだ僕には話していない隠しごとがある。僕を置いてけぼりにしていった母さん。口では僕を助けるなんて言いながらいじめを見てみぬふりした先生だってそうだ。

 あの日、祠でかくれんぼをしていろなんて言った唯一大好きだった父さんだって、きっと同じだった

 それでも、大人みたいに空っぽに笑う彼女の目はどうしてかまだ少し子供っぽかった。


 その日、中年や老人たちは酒盛りをしていた。どうやら、また外から物をくすねてきたらしい。食料、生活用品をはじめとして漫画などの娯楽品までが大きな机に並べられていた。

 隅に置かれていた週刊少年雑誌には、20XX年、七月とあった。かつての日常と今の非日常が結びついた気がしてどこか気が緩んだ。僕の生きるべき世界はもうこちら側にあるのではないかと思い込むようになってしまっていた。

 帰れる家だなんてもうない気がするけど、今まで僕が生きてきた晴れの日の世界は確かにあったのだと今更実感できた。

「おぅい、ガキんちょ……!」

 小声で酔っ払い男の一人が僕を手招きした。ネズミ男でも老人でもない。スキンヘッドの中年の男だった。首を傾げながらも近づいてゆく。

「この前は無視して悪かったなあ、ちょっとした頼みがあるんだ」

 背の高い男を前に一瞬固まったが、先日すれ違った集団のうちの一人だとわかった。

 顔がかなり赤い。相当に酔っているようで、僕の体をガッと引き寄せて耳打ちしてきた。

「マッチの付け方くらいはわかるだろ……? よし、ならいいんだ。お前がよく物を運んでいる贄の塔……丸い塔があるだろ。その向かいにあるのが獄の塔、三角の石の塔だ。あそこの部屋に火を灯してきて欲しいんだよ」

 三角の塔、千春の大切な人が閉じ込められている場所だ。そこに行って、何かできたのなら。千春の顔がよぎって、わかりましたと頷く。彼は上機嫌だったのか嬉しそうに僕の頭をかき回してきた。少しだけ、父さんが懐かしくなった。


 受け取ったマッチをポケットにしまう。濡れないように一際気をつけながら塔の方へかけた。運のいいことに、僕が抜け出しても誰も気づきはしなかった。

 このまま、入ることを禁じられていた神社の方へ行ってしまえば帰る手がかりが見つかるのではないかという考えが脳をよぎったが、すぐに振り払った。塔にいって、中にいる人に会えたあとでも間に合うじゃないか。運動靴が泥に沈むのはもう慣れてしまった。びしゃびしゃと雨が脹脛に跳ねるのもどこか楽しい。雨の匂いを胸いっぱいに吸い込んで僕は走り出した。

 三角の塔に着く頃にはすっかり息も上がっていた。泥や雨水がしたたるのも気にせず、どきどきしながら石段を昇る。

 重い扉を開けて暗い部屋を覗く。鎖、ランプ、壺、引き抜かれた杭。

 そこに、人の姿はなかった。部屋の中に入って見渡してみる。誰もいない。窓は開かないようになっていて、作りは円形の塔と殆ど同じだった。杭を拾い上げる、鉄くさかった。

 誰もいない不気味さに後退りする。どん、と何かとぶつかった。すぐに人だとわかった。扉を開けっ放しにするんじゃなかった。腕を掴まれる。わああ、と叫んで必死に抵抗する、後ろは振り向けなかった。細い腕は、つかんでいない方の手で何かを手のひらに握らせてきた。細い腕はすっと僕の腕を離す。振り向くと、そこにいたのは智秋だった。冷たい色の銀髪は雨に濡れていた。よく見れば全身がずぶ濡れだ。

「あ、なんで、ここに」

 握らせてきた物は濡れたマッチだった。ポケットをまさぐると、空っぽだった。マッチを途中で落としていたらしい。智秋がランプを指差す。マッチの中身が無事であることを確認して、僕は火を灯した。 

 部屋に灯りが満ちると、真っ暗だった部屋の色彩がよく見えてきた。何も拘束していない鎖の近くには黒い滲みができていた。智秋の涙に潤んだ目を見て、何が起こったのかわかってしまった。部屋の中は、血生臭さをかき消すように線香の匂いが充満していた。

 智秋の冷たい腕に引かれて塔の外へ出た。抵抗する気力もわかなかった。降り続ける雨だけが、感情のままに生きているみたいに思えた。冷たい雨が頬を撫でた。

「ずっと、知っていたなら」 

 智秋は足を止めずに頷いた。

「どうして、隠していたんですか」

 僕の声は震えていたけど、それ以上に智秋の肩が震えていることに気づけなかった。

 あ、あああああああああああ! 智秋が声にならない叫びをあげた。その時だけは雨音も息を潜めていた。崩れ落ちた彼女が『にいさん』と呟いたのが僕には聞き取れた。

 僕は、なんて酷いことを言ってしまったのだろうと思った。ごめんなさい、ごめんなさいと謝ると、彼女は何度も首を横に振り立ち上がった。

 涙を拭って、神社の方を指差し微笑む。彼女の、彼女たちの思いは嬉しかったけど今度は僕が首を横に振る番だった。円形の塔へ駆け出す。今度は智秋は追ってこなかった。

 

 小春は珍しく窓の方を見つめていた。歌を歌っているみたいだった。

「これ、雨乞いの歌なんだ。昔はよく智秋や冬之助と三人で歌ってた」

 時間も外の様子もわからないまま。ずぶ濡れになった僕を見て、どうしたのと笑いかけた。

「夏陽、気づいていないだろうけど泣きそうな顔してるよ」

 そういう小春のほうが、よほど泣きそうで、泣きたそうな顔をしている。

「ねえ、夏陽はこれが何かわかる?」

 小春は絵本のあるページを指さす。田んぼの奥に描かれている電波塔だった。

「電波塔だよ」

「デンパトウ。変な響きだね」

「そんなに面白いものじゃないよ。アンテナみたいな」

「アンテナ……? 洗濯物は干せないのか」 

「干せるわけないよ。そもそもここに人登れないし」

 僕が笑うと、小春も少しだけ笑った。続け様にこれはなに、あれはなに、と僕に訪ねてくる。

「それはランドセルだよ。僕みたい小学生が背負って学校に行くんだよ。学校っていうのは……」

 僕が説明しているだけで小春はすごく楽しそうにした。もっと早く、こうやって色々なことを教えてあげればよかったのにと後悔した。

「それは花火で。そっちはプールだよ……昔、父さんと母さんと家族で行ったことがあるんだ」

 話している内に、僕はどうしてか眠くなってきてしまった。

「ありがとう。もしも叶うなら、私もそんな世界で生きてみたかったな。両親が生きていて、大切な人が生きているだけで十分なんだ」

 瞼を擦っていると小春は寄り掛からせてくれた。どうしてか、小春に伝えようとしていたことを彼女はもう知っているように思えた。全て知った上で一人になろうとしているように思えた。そんな悲しい人、いていいはずがないのに。

「まだこの村のことが記憶に残らないうちに、君は──」

 小春の声が消えて、雨の音だけが鮮明に耳を撫でる。


 目を覚ますと、祠の中だった。靴はぼろぼろで服はじっとりと湿っていて臭かった。塔を目指して歩いていたのに、僕の目指していた場所はどこにもなくて、気づけば空も晴れていた。

 父親に抱きしめられた時、僕は全てを思い出せなくなっていた。悲しいことも、雨音にかき乱されるようにして思い出せない。嬉しいことも、綿菓子が萎んでしまったみたいに心に残らなかった。

 それでも僕は、未だに雨音を聞くと、誰かに呼ばれているような気がしてしまう。



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