異国、行ったことのない外国を舞台にする
『暖冬』
列車に揺られること二時間半、久々に訪れたベルンの街は駅内ですらひどく騒がしかった。冬真っ盛りにも関わらずマイエンフェルトより薄着の人が多いのは、鬱陶しいまでの熱気のせいもあるのかもしれない。みんな自分勝手に右往左往しているせいで前に進むだけでも一苦労だ。つい先ほども通りすがりの派手な女性に舌打ちされた。
「父さんはこの後すぐに友人と会うが二人はどうする? 着いてきても構わないが」
父さんは異国の友人に会い預かる物があるらしい。今日ベルンに来たのもその為だ。
「ううん、僕らは市街の祭りを見にいくよ」
レヴィンは私の方など見向きもせず答えた。私が恨めしげに彼を見上げても、意識は既に華やかに彩られた市街に向いているらしい。彼は三つも年上なのにちっとも兄らしくない。
「クロエは、それでいいのかい」
「ええ大丈夫。私がついていったら父さんたちにも申し訳ないしね」
もう十四なのに、父さんはいつまでも私を子供みたいに扱う。私はそれが少し嫌だった。
「レヴィン、クロエを頼んだからね」
彼は返事代わりに小さく肩をすくめた。
「クロエ、中心はどこにでもあるが制限はないものだ。覚えておきなさい」
父さんは小さく屈み、私の目を見つめて言った。人はどこにでもいるが、それぞれの才能や個性は無限という意味らしい。ドイツの哲学者の言葉だそうだ。
「二人とも、駅前に夜七時集合だよ。いいね」
あっという間に小さくなってゆく父さんの後ろ姿を見送る。私は浮かれた彼が私を置いていきはしないかと気が気ではなかった。
「アインやツヴァイたちは大丈夫かな」
見知らぬ大勢の人たちに囲まれているとマイエンフェルトで留守番をしている犬たちが恋しくなった。昼頃に別れたばかりなのに大きな毛むくじゃら達に会いたくてたまらない。
「チビどもなら心配ないよ、それに連れてこなくて正解さ。なんせ今日は玉葱祭りだ」
我が家の愛犬、バーニーズマウンテンドッグの兄弟たちはチビとは正反対のサイズだ。だが彼らの名付け親でもあり兄でもあるレヴィンはチビ扱いしている。
「犬たちにとっては毒祭りね、板チョコ一枚食べたツヴァイなら平気そうだけど」
公道に並ぶ露店にはそこそこの人だかり。売り物の人形やオーナメントは全て玉葱製で、旧市街は一面くすんだ茶色で覆われていた。
市街中央の巨大な時計塔が近づくたびに私の心は重苦しくなる。それを察してかはわからないが、レヴィンが玉葱でできた人形を買ってくれたことに少しだけ救われた。
「やっぱり。この玉葱の犬見れば見るほどうちの子たちに似てる、そう思わない?」
気分の悪さを誤魔化すように呟いてみたが、レヴィンは顔を曇らせるばかりだった。
「まだ昔のことを思い出してしまうのか? たとえば……母さんのこととか」
「あんな過去の人のこと、思い出しても無駄なのは自分でもわかってる」
こうして時計塔を見上げるのは二回目だ。前に一度母と来たとき。あの時は首が痛くなるまで巨大な時計の針が動くのを眺めていた。もう今は見上げる気にもならないけど。
「あんな人、大嫌い」
喧騒に飲まれ声は掻き消されてしまったがそれで良かった。私はいい娘にはなれなかったけど、彼のいい妹ではいたかった。
時計塔に近づくにつれて人混みが激しくなるのはわかっていたが、人混みの原因は露店だけではなかった。動き続ける群衆の隙間から華やかな色が覗く。
「あれ、なんだろう」
賑やかな色の衣装の少女達が視界一面に入ってくる。十人くらいの少女たちが可憐なスカート、トラハトを着て踊るように歩いていた。注目を集めていたのは彼女たちだった。小さな手に大きなバスケットを携えている。
「あれはコンフェッティ……紙吹雪だよ、あれで悪戯されても今日はみんな許すんだ」
私が彼女達に釘付けになっているのに気づいてレヴィンが教えてくれた。ふと少女の一人と目が合う。彼女は人懐っこい笑みで輪から離れこちらへ向かってきた。そしてレヴィンの言う通り紙吹雪をかけてくる。
「ごめんなさい、怒ってない?」
「大丈夫よ、素敵な服ね」
ありがとう、と少女は微笑みターンして見せた。スカートの花柄もふわりと舞う。
「ミアったらいけないんだ! 体の不自由な人に意地悪するなって習ったじゃない!」
他の少女の甲高い声に群衆の注目は向いた。指先から玉ねぎの犬がこぼれ落ちる。ミアと呼ばれた少女の顔からさっと色が抜けてゆく。 玉ねぎの犬は車椅子の車輪に轢かれてただの玉葱に戻ってしまった。私が、歩けなくなり普通の少女ではなくなった時のように。
寒さには慣れているはずなのに体が凍てついたように動かない。それなのに、もう動かないはずの足だけは震えていた。
「クロエ……ごめんよ、あんなことになるなら無理に連れていかなかった」
私の部屋は元は広かった。レヴィンが外出する度に買ってくる小物たちのせいで、今では物置きみたいにごちゃついている。
「別にいいの、気にしないで」
「レヴィン、犬達に夕ご飯をあげておくれ。腹ぺこのドライに靴を噛まれてしまった」
扉越しに父さんが声をあげた。レヴィンはわかったよ、といい大人しく部屋を出て行った。普段は面倒くさがるくせに。
「クロエ、少しいいかい?」
優しい声色だった。昔の父さんはもっと厳しかったけど、いつからか母親のような優しさや気遣いを私たちに向けるようになった。
「今日、父さんは友人から大切なものを譲り受けたんだ。それをお前に預けたいのさ」
「私よりレヴィンの方がいいよ、きっと」
「きっと、クロエにしか与えられないものがあるから頼んでいるんだ。居間にきておくれ」
三匹の犬たちは薄暗い部屋からようやく出てきた私を大喜びで迎えてくれたが、どこか様子が変だ。気まぐれで好奇心旺盛な長女のアインは一通り私に撫で回されたのち、屋根裏に続く階段の方へ行ってしまった。
「アイン? そっちに何かあるの?」
「後ろに続いて見に行ってごらん」
父さんが私にウインクした。車椅子を手で漕ぎ近づいてゆく。するとアインが大急ぎで逃げ帰ってきた。珍しいこともあるものだ。
恐る恐る階段裏を覗き込む。一つ、ケージが佇み、中には一匹の中型犬が座り込んでいた。
茶色い……柴犬だ。大きさからみて成犬だろう。スイスからはるか遠く、ちっぽけな島国で生まれた犬。そのプライドは高い。父さんの引き取ったものとは、この子のことか。
彼、もしくは彼女はじっと私を見つめる。車輪の音で誰かが近づいてきていることは気づいていたのだろう。更に近づくと歯をむき出しにして威嚇してくる。
「私は怖くないよ、ほぅら。大丈夫」
ウウウ、と地を這うような低い威嚇。柴犬は他人に心を開かないと聞くがこれほどとは。
そっと手のひらを近づける。警戒を解くためケージ越しに匂いを嗅がせるつもりだった。
がうっ! バッと立ち上がり、明確な敵意と共に柴犬は牙を向けた。私を睨む目は鋭い。
「ごめん、ごめんなさい。怖かったね」
このままでは血を見ることになる。私はすぐに手を引っ込めたが、何かがおかしい。前足で踏ん張っているが体がふらついてる。
「クロエ、その子が君に預けたい預かり物だ」
父さんが近づいてくるのに気づくと、いっそう気を悪くしたのか再び威嚇し始める。
「ねえ父さん、この子……どこか」
私の目が違和感を捉え柴犬の下半身で止まった。この子、後ろの右足がない。
父さんは柴犬が雌で名前がユキということから教えてくれた。ユキは日本で生まれたが中国人に買われたことで異国へ。そこから何度も捨てられあちこちを転々とした。中には、犬を愛していない人の手に渡ることもあったという。そのせいで彼女は歩むために必要な後ろ足を失い今日まで三本の足で生きてきた。
ユキの命は長くない、父は瞳を伏せて言った。続けて終の地は穏やかであるべきだと父は言い、寝息を立て眠るユキを起こさぬように丁重にケージに毛布を入れた。
「日本とスイスの冬、どっちが寒いのかしら」
ユキが眠ったり、排泄ができるようになるまでには時間を費やした。此処は未だ彼女の安心できる家ではないのかもしれない。夜中に目を覚ますとユキは悲しげに夜鳴きするのだ。
「さあ、場所によるだろうが、今年はユキにとって暖かい冬にしてやりたいな」
三匹の犬達やレヴィンはそわそわとこちらを眺めていた。散々ユキに冷たくあしらわれているから近づきにくいのだろう。未だ諦めずチャレンジするのはアインだけだ。
「本当にそうね、せめて最後は、暖かく……」
今日のユキは随分と眠りが深いようで、私や父が近づこうと起きなかった。もう起きないのではないかと怖くなる。
ユキの頬がひくひくと引き攣る。夢を見ているのだろうか。少しすると前足をばたばたと動かしはじめた。もうない後ろの足も付け根が前足に合わせてばたばたと動く。まだ彼女は走ることを夢見ているのだ。
彼女の心は今、誰よりも自由なのだ。
「中心はどこにでもあるが、制限はない」
彼女はそんな言葉に寄り添い生きているように、私には思えた。
「おやすみなさい、ユキ。いい夢を」
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