仕事
『こうたいのふたり』
宝玉のような珊瑚礁を内包する青青と煌めくビーチ。コアラのうたた寝する豊かな緑の海。オーストラリア、ケアンズ……今では、世界を緩やかに蝕む狂気の発祥地とされている。
今後、似た症例の数々を掘り返せば覆るかもしれないが。少なくとも、現段階ではそういうことになっている。
一番初めは、そう。牛の屠殺を仕事にしていた女性だった。彼女は発症以前から膨大なストレスを抱えていた。彼女の子供が牛のショッキングな死体を危うく目撃しそうになったことがあったらしい。それを隠そうとした女性は、自分がしている行為がどれだけ後ろめたいかに気づいてしまった。それから女性は家に塞ぎこみ“それ”を発症した……。
「……ときに、弓弦は狂人の作り方を知っているかい?」
声に気づき、沈むようにソファに腰掛けていた弓弦は顔をあげた。慢性的な疲労のせいでどこか退廃的な印象を受ける青年は小さく首をかしげる。
「作り方? 感染り方なら連日報道されてるだろ」
煮え切らない返事に京也が不貞腐れた顔をする。年齢、職業不詳、その上室内では半裸。男は今も下着しか身につけていない。女性相手の夜の仕事をしていたと自称するだけあって、肉体は彫像のように美しく引き締まっている。男同士だし隠すようなもんでもないさ、なんて言うものだから惰性で許していたら白昼堂々パンツ一丁で家を徘徊するようになってしまった。
「まあ、そうだけどねえ」
隣に転がっていた京也は弓弦の膝にもたれかかる。嫌がる様子を見せないとわかると弓弦が数時間向き合いっぱなしだったPCの画面を覗き込んだ。
「こうして会話をするのも、おお六時間ぶりだ。ずっと隣にいたのにねぇ……進捗はどう?」
よく六時間娯楽なしで隣でゴロゴロできたものだ。弓弦が仕事中に集中を欠くからやめろと言ってからはリモコンにすら手を伸ばさなくなった。
「ぼちぼち、そこそこ」
弓弦が掛けていたメガネを外す。若干度があっていないせいか視界が歪んでいた。
「お疲れさま、珈琲でも入れよう。戸棚のインスタントコーヒーでいい? 砂糖は?」
砂糖はいつもより多めがいい、と弓弦が言うと、京也はわざとらしい笑顔で頷いた。
──医療従事者までもが“それ”に罹患した。その看護師は患者二名に塩水を注射し、重篤者の点滴を抜く。彼女は、点滴は弱った人間を更に衰弱されると本気で信じており、虹彩検査で“それ”の罹患が発覚。純然たる善意で、狂気で彼女は人を殺めた。
京也が勝手につけたテレビに目をやりながら世間の“それ”に対する関心の高さに弓弦は半ば呆れにも近い感情を抱いた。一口珈琲を口に含むとどろりとした甘さが舌の上を這った。
「さっきの」
キーボードを叩きながら弓弦はつぶやく。囁き程度の小さな声だったのに、京也は耳ざとく弓弦の声を拾いあげた。
「うん?」
「狂人の作り方ってやつ」
エンターキーを押して文章をひと段落させる。相変わらず度の合わないメガネに自宅でウェブライターをしている弓弦は、情報や知識にだけは貪欲だった。空想じみたファンタジーや妄想は嫌いなタチだったが“それ”が現実となってからは、弓弦はまるで自分は蚊帳の外にいるかのような態度で情報を掻き集めるようになった。群衆の不安を掻き立てそうな論文から、真実とは言えない不確定な情報まで。
「ああ、あれか。まさかそんなに興味持たれるとは思わなかったよ」
大仰に肩をすくめて見せる京也を弓弦は歪んだレンズ越しに睨みつける。
「もったいぶるな。とっととそのよく回る口を回せ」
どこか嬉しそうに京也は仕方ないなあと呟いた。
「狂気は……今では感染るものになったけどね。前までは少しずつ育てて開花させる、植物みたいなものだったんだよ。突然開花することも、何もしていないのに芽を出すこともない。酸の雨を降らせ、後ろ指のような視線で育って」
「つまり何が言いたい?」
「水と日光、栄養をやれば狂人は作れる。問題は、この世界では既存の育つ狂気と新規参入した感染る狂気が綯い交ぜになっていることさ。弓弦はどちらの方がより悪質だと思う?」
「どんぐりの背比べだろ。狂気そのものは判別できど、純正か罹患かでは見分けがつかないそうだしな。まあ、どちらでも保険は降りるそうだ」
「医療機関にかかっても治らない人は治らないのにねえ。逆に、とことん罹らない人間はかからないわけだし」
何がおかしかったのかかくすくすと京也は笑った。本人も愉快で笑っているのではないのかもしれない。
「僕はね、育てられる狂気の方がより悪質で、より愛おしいと思うよ。誰かの愛情、あるいは憎悪を浴びて膨らんだ感情の成れの果てなんだから」
弓弦はカップの冷めた珈琲を飲み干した。冷めてしまうと甘さが嫌な残り方をする。とことん罹らない人間、というのは目の前の男のような人間なのかもしれない。
「君のご両親はどちらだったんだろう?」
京也は伏せられた家族写真に目をやる。手をつけようとは思わなかった。そうすれば
弓弦に嫌われることは分かりきっているからだ。悪戯心でちょっかいを出しこそすれど、意地悪をしたいとは思わない。
「お前には関係ない」
腹の底からの声だった。深い声色に弓弦は立ち上がりリビングを出る。
「夕飯はいいの?」
「……いらない」
少し迷ったな、京也はやはり彼が愛おしくなった。だからこそ、彼が自室に“何”を隠しているのかが気になってしまう。健康的な食事を用意する代わりに住居を提供してもらう生活。弓弦に特別な感情だんてないことはわかっている。だが、扉の先には彼の異なる姿があるような気がして、どうしてもその先を覗きたくなってしまう。それは、男にとって女のスカートの中が、秘部が気になるのと同義だ。ああ、彼の暗部が、あるいは恥部が気になって仕方がない。
「俺は虫がきらいだ、お前は」
弓弦が問いかけると、隣に立っている京也は怪訝そうな顔をする。カチャカチャと鳴る不穏な金属音に体を震わせる弓弦は珍しくあれこれと京也に問いかけてきた。気分を紛らわせたいのかもしれない。
「虫? 平気だけど……部屋にゴキブリでも出た?」
首を何度も横に振る弓弦の背中をトントンと叩いてやる。
「あらあら、弓弦くんたらまだ注射苦手なのね。そろそろ慣れてもいいのに」
中年の看護師がクスクスと弓弦の怯える様子を見ながら無慈悲に二の腕をアルコールで消毒する。かかりつけの病院らしいから弓弦を幼い頃から知っているのだろう。京也の腰に抱きつく弓弦の右腕の力が更に強くなった。病院についてきてくれと言われたときは何事かと思ったがなるほどそういうことだったか。
「じゃあ少しちくっとするからね。そうやって抱きついてるうちに終わるわよ」
弓弦の白い肌に注射針が刺さる。針が深く沈み込んでゆくのを京也は静かに見つめていた。腹に埋められた弓弦の顔からくぐもった悲鳴が聞こえる。
「昔はそうやってお兄ちゃんにも甘えてたわね、懐かしい」
注射針が抜けてからも、弓弦は魂が抜けたようになにも言わなかった。先に車に戻っていろと言うと、頷きもせずに歩いていってしまった。あとでアイスクリームでも買ってやれば喜ぶだろうか。
「……ねえ、あなた。あの子、弓弦くんね、少し不安定なところがあるの。もう大人なのに、子供相手みたいに過保護になるのもおかしいとは思うけど……ほら、今流行してる“あれ”もあるし」
受付で先程の看護師が話しかけてきた。老婆心であるという自覚はあるようだが、どうにも不安げな様子だった。
「ええ、知っています。彼の事情も、身内にあった不幸も」
看護師は安堵しながらもまだとっかかりを残したような顔をしていた。
京也は弓弦のことをよく知っている。彼の家庭は比較的裕福ではあったが、両親が揃って心中。歳の離れた兄は結婚し家を出ていた為、天涯孤独の身になった。
扉を開けると懐かしい匂いが弓弦を迎える。最近リビングに篭りすぎたせいもあるのだろう。もしくは、あの馴れ馴れしい男のせいか。妙な居心地に新鮮さを感じているのかもしれない。兄だけを可愛がっていた両親がいなくなり、兄もいなくなったせいかもしれない。
兄のものだったメガネを外し、ベッドに横たわる。布団に包まれる感覚、そして、その下にある兄の存在。
両親は遠くへ行ってしまったが、兄の存在があることで、弓弦は安心して眠れる。布団ごと抱きしめるように横向きになり、安心して瞼を閉じた。
俺が殺した兄さん、そのうち土に帰すことになるけど、それまではおやすみなさい。
扉を開けるとひどい悪臭が立ち込める。
「ところで、お前は誰なんだ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます