三人以上で食事をするシーンを入れる

『副食に彩りを添えて』 


 茜は一人後悔していた。まずはこの飲み会に来てしまったこと。そして、今日に限って新品のワンピースを着てしまったこと。コチュジャンの赤茶色が跳ねたワンピースに茜はまたため息する。生地探しからひどく苦労して作り上げたのに。早く帰りたい。目の前の襖が遠く感じられた。

「でさあ……彼ってばね、ちょ〜見栄張っちゃって。こっちが恥ずかしくなっちゃった」

「やだ、なにそれ。やっぱり男って金だけで選んでもダメね……茜もそう思うでしょ?」

 目の前では下品な女二人が下品な話をしながら鍋を突いている。専門学校で二年間切磋琢磨した友人たちはいつの間にか消えてしまったようだった。ワンピースはシワだらけ、ニットのほつれを気にする素振りもない。

「うん。二人がそう思うなら、そうなんじゃない?」

 鍋がぐつぐつと煮えている。水分が飛んだチゲ鍋は具材が底に溜まり水を抜いた池みたいだ。茜は取り皿に分けていた豆腐を口に運ぶ。辛いだけで味がしなかった。

 ふいに茜のスマホが震えた、後輩の紺野から、先週の撮影データが届いていた。相変わらず良い腕前、被写体の茜も茜の作った服も自然に写っている。茜は静かに煮えていた気分が少しだけマシになるのを感じた。

 そうだ。家に帰ったら写真の選定をしないと。今日くらいはビールを片手にビーフジャーキーをつまんでもいいかもしれない。SNSの更新、オフショット掲載。すべきことは枚挙に暇ない。うん、もう帰ろう。

「ごめん、明日も早いし帰る」

 会話を遮り、捲し立てるように茜は言葉を紡いだ。財布から千円札を数枚抜いてテーブルに叩きつけるように置く。

「え、もう? 茜全然食べてないじゃん」

 友人たちは言葉を失ったように、呆然とコートを羽織る茜を見ていた。

「ダイエット中だしいいの。今日はありがとう、じゃあ元気で」

 個室の襖を閉めれば、背中越しに黒い言葉が飛び交い始めるのを感じたが、茜にはそれを気にしている暇はなかった。


 紺野は一人後悔していた。トラウマをえぐられるような感覚に冷や汗が背中を伝う。

 自分以外になれる心地よさが好きで、その日も紺野は街へ繰り出していた。人混みの多い時間帯を狙って家を出た。人が多ければ多いほど、孤独も異端も目立ちにくいものだから。今も目の前では沢山の人々が行き交っている。柔らかなワンピース、腰のフリルが揺れるジャケット、派手な刺繍のジーンズ……。

「無視しないでよ。君の声聞きたいな〜」

 紺野は人混みの中、男性二人組に絡まれていた。歩調を早めても小柄な紺野では男たちを撒くことは難しい。人混みを駆け抜けるのも踵のある靴では無理だろう。

「俺ら怖いように見えるかもしれないけどほら、人は見かけによらないし」

 無視を決め込み、ウィッグの長いツインテールに顔を隠すように下を向く。男たちを追い払う方法はあるが、それは紺野にも双刃の剣だ。

「その服、ロリータっていうんでしょ? 俺そういうの好きだよ」

 俺も好きだけど、お前らはそれを着た女が好きなだけだろ! 奥歯を噛み締め内心で紺野は毒づく。

 紺野カズマ、ロリータファッションが好きな十九歳男。姉たちの影響あって可愛いものやロリータが好きになる。ただ、それが隠すべきものだということは既に学んでいた。

「ほら、悪いようにはしないからさあ」

 男に肩を掴まれる。行き交う人々にとっては喧騒も日常の一部。温かいようで冷たいのがこの街でこの国だ。声を出すか、出さないかの天秤が揺れ、それは後者に大きく傾く。

「ぁ、あの、俺!」

「なにやってんの!」

 ひ弱な紺野の声をかき消すようにぴしゃりと響く女性の声。モカ色のトレンチコートがふわりと視界に入ってくる。黒いハイヒールがカツカツと音を立てた。声の主の女性がぐっと紺野の腕を引っ張る。

「ほらバカ、いくよ!」

 聞き慣れた怒声。背格好、髪型。紺野の恐れる彼女に違いないだろう。人並みを乱すように逆方向へ女性は歩き始め、紺野は引っ張られながらついてゆく。ふと振り向けばもう男たちはついてきていなかった。

「……大丈夫だった? ああいうのは嫌ですくらい言った方がいいよ」

 迫り来る新しい危機に紺野は小さく頷く。女性、茜がこちらを振り向く。

「どうしたの? どこか悪いの?」

 茜にだけはバレたくなかった。ウィッグもかぶっているしメイクもしている。声さえ、どうにかなれば。どうにでもなれという気持ちで紺野は息を吸い込む。

「ふぃ、はいぃ……! だいじょゔぶですぅ」

 ああ駄目だ、まろび出たのは裏返った男の声。茜と紺野の目が合う。

「アンタ……紺野?」

 わずかに茜の手が緩んだ瞬間を紺野は見逃さなかった。パンプスのまま紺野は駆け出す。

「茜先輩ごめんなさああああああい」

「逃げるな〜! 明日、覚えとけよ!」

 そうだ。明日の撮影で顔合わせるんじゃないいか。ウィッグやスカートの重みが、ずんと増した気がした。

 

「で。なんで逃げたわけ?」

 オフショルダーのワンピースを着た茜が不貞腐れたように紺野を睨みつける。スタジオ撮影後、紺野は引きずられるようにカフェに連行された。

 今日の紺野はTシャツにジーンズなのに、昨日のロリータの束縛が溶けていないかのように喋れなかった。

「黙るなし。言いたくないならそう言いな」

「俺、茜先輩にはもうあの格好見られたくなくて」

「なんで? ああいう服を作るのやめてなかったんだって安心したけど、それにあの服、やっぱり紺野に似合ってたし。男に絡まれるくらいだからアンタやっぱ可愛いよ」

 照れ隠しのように紺野は水を一口飲んだ。なんだかんだ尊敬する茜の言葉は嬉しくもあった。ただ……。

「先輩の前であの格好見せるの、二回目だったでしょう。最終選考のリハときの」

「ああ、私が紺野を殴った前日のか」

 去年の秋に行われた校内コンペ最終選考、そのリハーサルのこと。紺野は自作のロリータワンピースを着てステージに立った。それこそが紺野の存在証明であり、生きる意味であると信じて疑わなかった。ステージはそれが許される場だと思っていた。でも違った。被覆室でよく顔を合わせていた茜以外、紺野が男と知ると皆一様に表情を変えた。中には好意的な目もあっただろう。でも、紺野は半分か、それ以下の批判的な目に負けた。

「俺に度胸がなかったから、俺こんな自分が嫌いで……」

 服飾を辞めたい。いざとなると上手く言葉は舌上に乗らない。

 コンペは周囲の目に怯えた時点で紺野の負けは決まっていた。当日、紺野は即席で作った当たり障りのない服で舞台に立った。

 全てを知っていた茜は、負け犬紺野に憤慨した。それから紺野は散々悩んだ。あれしきで諦めたなら、この先服飾の道など無理なのでは、と。卒業した茜から撮影を頼まれた時も、堅実に実家の写真屋を継ぐほうが良い気すらした。茜に言えばまた殴られそうだ。紺野はそっと拳を膝の腕で握りしめた。

「私も、私が嫌い。でも私の作った服は誰かに好いてもらいたい。だから、あえて自分でモデルやってる……紺野と私はよく似てると思う。だから写真もアンタに頼んだ」

 茜の口から出た言葉が紺野は信じられなかった。いつも自身に満ちた、あの茜が? それに、紺野はどうしても自分たちが似ているようには思えなかった。

 茜がブイヤベースの海老を口に運ぶ。咀嚼している間、妙な沈黙が降りた。

「冗談言ってます……? いってぇ、蹴らないでください!」

「紺野の作る服は繊細なのに肝心の紺野にはデリカシーないよね」

 言葉をそのまま返したいと紺野は思った。

「コンペのとき、紺野被服室に入り浸って死ぬ気で服作ってたでしょ? 私も同じように死ぬ気で作ってたし……だから顔合わせること多かったじゃん」

「そう、でしたね。結局自分で全部無駄にしちゃいましたけど」

 紺野の皿に盛られたパスタはすっかり冷めていた。手をつけようと思えなかった。

「だから、さ。今年は自分勝手にやりなよ、アンタもそっちの方が向いてる。コンペ、棄権しなかっただけ根性あると思ったし」

「……じゃあなんで殴ったんんですか」

「一々うるさいやつ、ああ〜もう今日は食べちゃおう。ダイエット休憩!」

 茜は暇そうにしていたウェイトレスを呼びつけ、あれこれと追加で注文した。副食だけは足りないだろうと薄々思っていた紺野はぼんやりとそれを見ていた。

「……アンタの作った服好きだったから、去年はただの不戦敗だと思ってる」

 ピザやパスタを頬張りながら茜は言った。

「次は絶対負けないし……アンタ、どうせ服作り続けるでしょ?」

 茜のどうせ、には確信めいたものが含まれていた。それが自分への信頼のように思えた紺野はいつしか頷いていた。

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