スポーツ

『サイクル×サークル』 


大時計を仰ぎ見る。夕方五時、まだ閉校まで時間はある。あと一度でもやらないと。立ち上がれば、ふわりと広がる練習用のスカートから汗の匂いがした。

頬を軽く叩いて背を伸ばし、置き去りにしていた一輪車を立てる。この小さな車体が私のダンスパートナーだ。ラジカセの電源を入れて毅然と立つ。この体育館こそ舞台の中心。 

心に隙間風のような声が吹く。『ユリアなら簡単にできちゃうでしょ?』簡単? そんなはずない。『ユリア、顧問としてあなたには期待しているの』期待なんて口に出さないで欲しい。『あなたは自慢の娘よ、ユリア』取り柄がなければ、そんな風に思わない癖に。

心の準備をする間もなく音楽は踊れと促す。私は迷わず一輪車に跨った。音の生む強迫観念、それこそが私の体を突き動かし、私をこの演技にのめり込ませてくれる。

漕ぎ出してしまえば一輪車は体の一部だ。

「いち、に、のさんッ!」

音に急かされるように片足を着き、助走をつけて勢いよく回る。スカートが私の作った風になびいた。鳥のように両手を広げ、スカートを掬うように腕を動かす。音は円滑に、刻々と進んでゆく。車輪の上に立ち、くるりと車体を巻き込むように一回転する。

 音に置いていかれないように、体を動かさないと。焦りは禁物なのに自然と感情は募り、少しずつ密接だった音と体が離れてゆく。

「ついて、いかないと」

 回って、回って、回るたびに軸がずれていく。音に揉まれるくらいに些細に舌打つ。

サドルから一気に立ち上がろうとした時、全てが崩れた。ガタン、と音がして目が回るような感覚が襲ってくる。

「まただ、こんなんじゃ……」

 音楽は私を置き去りにして流れ続けている。感情が体を鈍らせる前に乗らないと、もう一度。私はすぐに一輪車にまたがり、音に体を預け足と腕を動かす。床の上を滑り続ける。汗が額を伝った。もうラストスパートだ。最後は連続スピン。

回らないと。車体を滑らせるように回り始め、少しずつ速度を上げる。視界の隅にうつるステージがやけに広い。視界も夢か幻のように歪み続ける。入口の端に何かが映った気がした。動きに合わせ、音楽がゆるやかに静まっていく。なんとか、喰らいつけた。優雅に腕を広げ、一輪車を止める。

 ちょうど私の体は入口側に向いていた。そこから誰かの拍手の音がして、私は汗だくの顔をあげた。


 朝八時。私の眠り眼を覚ましたのは転校生の存在だった。担任に連れられてきた綺麗な黒髪の少女。こっちに小さく手を振ってる。あ……昨日、拍手してた子だ。すぐに誰か来て行ってしまったから話す間もなかったけど。

「初めまして、一条キラリです。漢字で灯すって書いてキラリって読みます」

 初めて見た、キラキラネームだ。黒板に漢字を書いて説明している。へえ、左利きなんだ。それにしても癖のある字。所々でざわめきや笑いが起きている。

「私、前まで少年院に入っていたから学校のこと、あまりわからないんです」

 ゴホッ! こっそり舐めていた喉飴ごと舌を噛みそうになった。教室のボルテージは上がり続ける。元から事情を知っていたであろう若手の担任だけが取り乱していた。

「仲良くしてくれたら嬉しいです、よろしくお願いします」

 その一声で、彼女は波乱の自己紹介を締めた。拍手はまばらだった。無理もない。

「西井、今日だけ一条の世話してやってくれ」

 出席簿を叩きながら担任が言った。突然白羽の矢が立って、私は飛び上がりそうになる。

「わ、私ですか?」

 すっとんきょうな声が出た。こんな形で教室の注目を集めた転校生と、一日中一緒?  隣の席の友達が楽しげにどんまいと笑う。

「二人は昨日会ったんだろ?」

 私にまで注目が集まってくる。いつの間にか頬に赤みがさしていた。これ以上は耐えられず、私はわかりましたと頷くしかできなかった。がりり、と口の中で飴の砕ける音がした。


 古ぼけた旧校舎を楽しそうにキラリは歩いてゆく。まるで見るもの全てが新鮮みたいな顔。まあ、本当にその通りなんだろう。犬みたいだと思いながら私よりも少し背の高い彼女の背中を眺めていた。

今日一日、一人くらいは面白がって彼女に絡むクラスメイトがいると思ったが、男子ですら彼女を遠巻きにしていた。だから私たちが仲良くなったか、と言えばそうでもない。

「……ねえ、こっち旧校舎だけど、いいの?」

 校内探検に行きたいと言われたときには驚いたが断る理由もなかった。今日は一輪車競技部も休みで友達も先に帰ってしまったので、どこかいたたまれなかった。

「いいの、今の母さんに旧校舎のこと聞いてね。母さん、ここのOGなんだ」

「今の、って?」

 不意に口の先をついて出た。何となく察して受け流せばよかったのに。聞かなければよかったと後悔した。

「ごめん、わざとじゃなくて」

 廊下に響いていた乾いた靴音がひとつ止まり、少ししてもうひとつも止まった。

「別にいいよ。気を遣われる方が嫌だもん」

 こちらを振り返って、意思の強そうな切長の目でキラリは笑った。見えない壁のようなものが崩れていくような屈託のなさだった。

「それならあの自己紹介は逆効果でしょ」

 釣られるように笑いながら言うと、キラリは頷いた。

「そうかも、先生にも隠しておけって言われたし。でも後からバレるほうが辛いかなって」

 私たちは今度は並んで歩き出した。階段を登って二階に上がり、キラリは消えかけの看板に被服室と書かれた教室に入って行った。私も恐る恐る足を踏み入れる。

「私を産んだ母さんは私を捨てたの。それで私を引き取ってくれたのが今のお母さん」

 それからは殆ど言葉も交わさないままキラリと被服室を見て回った。ガラスケースの中に飾られている衣装は華やかなものばかりだった。卒業生の中でも優秀な作品がこうして飾られているようだ。

「これ母さんが卒業制作で作ったんだって。前まではこの高校服飾学科があったんだよ」

「一条さんも、服を作るの?」

「キラリでいいよ、私もユリアって呼ぶから。まだまだ練習中だけど、母さんが色々教えてくれるから服飾系も勉強してくつもり。これから放課後はここで作業しようかなって」

 キラリは何本かの指に絆創膏の巻かれている手をひらひらと振った。

「新校舎の家庭科室のほうがよっぽど設備も整っているのに。なんでわざわざここで?」

「静かな方が好きだから。向こうは部活で使っている人たちがいるだろうしね」

「気持ち分かるよ。私も部活中より一人で練習している方が気が楽。団体演技よりもソロの方が好き。誰かに助けられるのも誰かの面倒を見るのも好きじゃない」 

 私たちちょっと似てるね、と笑うキラリが、ずっと一緒にいた友達のように思えた。

寄るところがあるから、と言ってその日私たちは別れた。またね、というありふれた挨拶がどこか嬉しかった。


「お母さん、ただいま」

 外から見ればごく普通の一軒家。だけど母親と娘二人が住むにしては広い。母はいつだってこの家に住めているのは自分のお陰という顔をして私を出迎える。

「お帰りなさい。今日も練習してきたんでしょう? お風呂できてるから入っちゃいなさい。ユリアこそ全国行けるようにお母さん応援してるんだからね」

 母は、多分私が成功することを信じて疑わないのだろう。父と上手くいかず、姉とも上手くいかなかったから。母は無意味な期待をちっぽけな私に向けている。

リビングに引っ込んだ母とすれ違いになるように姉が廊下を歩いてきた。

「……お姉ちゃん」

姉が家にいるのは珍しいことだった。こうして、見かけることすら珍しい。

「帰ってくるの、遅かったね」

 普段ならお互いに無視しているところなのに、どうしてか今日だけは違った。

「なんで、わざわざ話しかけてくるの。自分が才能あるからって、ねえ」

 ドタドタと近づいてきて髪を掴まれる。

「やめてよ、お願いだから」

「そんな目で見んな、アンタの目、ババアそっくりなんだから!」

 数年前までなら泣いていただろうけど、もう気にならなくなった。私が黙っていると、姉は髪を離した。姉の横を通って浴室に入ると、背中越しに負け惜しみのようなドアの閉まる音が聞こえた。姉はずっと目を背けて生きていくのだろう。私が母の気を引いているからこそ、姉は自由に生きていけることに。

 自分の部屋に入ったとき、ようやく自分の人生が手元に戻ってきたような気がした。それも少しスマホを眺めたり、テレビをぼぅっと眺めているときだけで、すぐに現実に引き戻される。

「ああそうだ。日記、書かないと」

 顧問に言われたことだ。余計なお世話だと思ったけどやらないわけにはいかない。私は団体演技のセンターで、よい生徒だから。 

 ビニールを破いて日記帳を取り出す。ついでだから鞄から化粧品、ワックス、ポーチを取り出す。ハサミで値札のタグを切って、ビニールを破く。この時間だけが、自分を西井ユリアの型から外せる。僅かに後悔に似たものが押し寄せてきたが、振り払うようにタグやビニールをゴミ箱に放り込んだ。


「うわ〜、一輪車って思ってたより難しい」

 放課後。自主練習をしている隣で、キラリも一輪車に乗ろうと何度も試していた。落車の数は両手の数を越していたけど。あの日から、気づけば私たちは一緒にいることが多くなっていた。

「演技はもっと難しいよ、床の上のフィギュアスケートなんて呼ばれるくらいだから」

 私が引っ張ってあげる、冗談半分に言って一輪車の上から手を差し伸べると、キラリは迷わず手をとった。

「昔は私だって乗れたんだよ、一応! 弟にも乗り方教えてたくらいなのに」

 キラリに、まっすぐ前を見るように言うと、すぐに車体のふらつきは消えた。二台の一輪車が一つの生き物のように同じ方向に動いてゆく。なんだ、できるじゃん。少し感心した。

「キラリ弟いたんだ、意外」

「よく言われる、ユリアの方が長女気質だし年下の兄弟いそうに見えるしね」

「うちはお姉ちゃんだけ、仲はあんまりよくないけど。今は弟さんも一緒に住んでるの?」

 ゆっくりと曲がってもキラリは置いていかれなかった。自分でペダルも漕げてる。

「ううん、今は離れ離れ。施設の人とかも、離れたほうがいいだろうって」

「どうして?」

「私が弟の為とはいえ窃盗を繰り返したから」

 繋いだ指先が冷たいもののように感じた。繋がっている感覚が消えたように思えた。

「そっか、また、会えるといいね」

 突き放すような、他愛のない言葉。どちらからペダルを漕ぐ足を緩めたのかわからないけれど、段々と失速してゆく。

「わ、これどうやって降りればいいの!?」

「落ち着いて、降ろしてあげるから」

 私が先に足をついて一輪車から降り、キラリをおろしてやった。

「ありがとう、ユリアって本当に頑張ってるんだね。足アザだらけだ」

 確かに、普段はスカートに隠れていて見えないけど体操服の短パンのままでは痣や傷跡が丸見えだった。

「マッサージのしすぎのせいもあるから、別にそこまででもないよ」

 隠すように裾を引っ張った、今ばかりはこれ以上踏み込んで欲しくないと思った。

「いつか、衣装レベルまで作れるようになったらユリアに私の服着て演技してほしいなあ。それまでは体壊さないでよね!」

「……うん、ありがと。楽しみにしてる!」

「西井さん、まだ残ってたんだね。先生があなたのことも呼んでるの」

 現実に引き戻すような声が飛び込んできた。部活の先輩だと教えると、キラリは頷いて行ってらっしゃいと手を振ってくれた。

どうしてだろう、彼女の笑顔を見ていると無性に苦しい。先輩の後ろをついて歩く私は、一体何者なんだろう。先輩たちなんか嫌いだ、裏で散々私のことを愚痴っているくせに。

逃げてしまいたい。ここからも、家からも。

私はようやく、自分が一輪車演技なんて本当はやめてしまいたいのだと気づいた。


その日も、私は寄り道をしていた。鞄のチャックを半分くらいあけて適当な店に入るだけ。大概、それで上手く行ってしまう。厳つそうなおじさんも、ヘラヘラ笑ってるおばさんもまさか万引きが起きるなんて微塵も思ってないのだ。私も、何事もなかったかのように店を出る。

「……ユリア? なに、やってるの?」

 後ろからするのは見知った声だった。動けなかった。足を縫い付けられたように動けなかったし、掴まれた腕も振り解けなかった。

「なに、カバンにいれたの?」

キラリが鞄に手を伸ばす。私はその手をはたき落とした。キラリの手は冷たかった。あるいは、私の手が妙な熱を持っていた。

「少年院って辛いんでしょ? 朝から夜までスケジュール管理されて、自由なんてない」

 振り返れなかった。キラリがどんな顔をしているのかなんて知りたくもなかった。

「私をそんな地獄みたいなところに突き落とそうとしないでよ。私にはね、キラリみたいに大層な理由なんてないの!」

 私は吐き捨てて、逃げ出した。なびく制服のスカートは競技中とは比べ物にならないくらい汚い。

みっともない私にはわかっていた。彼女はもう二度と、笑顔で手を振ってくれることはない。私にとって本当の地獄は、明日から始まる。

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