祈りと、願いと。

野村ロマネス子

明けの空

 ためらいもなく草履を脱ぎ捨てて水辺に入って行く。その華奢な後ろ姿を、弓彦は土手の際からぼんやりと眺めていた。

 村の朝は早い。まだ明け切らない空は鈍く陽を落とし、それでも佐紀のあげた水飛沫をきらめかせ、髪や、白い頸や、頼りなく薄い肩に静かに降り注ぐ。

 水はきっと冷たいだろう。川底の小石が、薄い足の裏を刺すだろう。

 この村の女たちは、それでも夜明け前の川に足を運ぶ。そうして川底にゆれる巻貝を、あるいはじっと身を潜めている沢蟹を、カチカチに凍えた手のひらに乗せて運び、村の土地神様に捧げる決まりになっている。


 捲り上げた着物の裾から覗く脚までを目で追ってから、何となく後ろめたくなって視線を剥がした。

「これ弓彦ぉ、早く来ねぇかぁ!」

 籠を背負った兄が、森の入り口から叫ぶ。

「わかってるー」

 兄の半分程の声量で返事をしてから、気になって再び川の方を見遣れば、案の定、佐紀がこちらに背を向けたまま小さく肩を震わせているのが見えた。

「……何を笑う」

 届くか届かないかで呟いた声に、振り返った佐紀がこちらを見上げる。


 幼い頃、土地神様がなぜそんな捧げ物を望むのかが弓彦にはまったくわからなかった。巻貝より、沢蟹より、神饌として相応しいものは沢山あるだろう。

 光線の加減で佐紀の姿は淡い光に包まれ、まるで発光しているかのように仄めいて映る。最近になって弓彦が思うことは、神饌とは巻貝や沢蟹その物ではないという事だ。

 例えば、白い息を吐きながら水辺で履き物を脱ぐ姿だったり、あるいは、凍えて真っ赤になった指先を尚も川底へと這わせる熱心さだったり、やっと手にしたそれらを惜しげもなく供えて両手を合わせる時の美しい睫毛の震えだったり。村の女たちが捧げているのは、そういった行為そのものなのではないか、と。


 女たちは祈る。雨が降るように。降りすぎないように。畑の作物が、たんと実るように。飢える子供が出ないように。大きな怪我をする者がいないように。今年も豊猟であるように。狩に出た男たちが、無事に帰って来るように。

「西の森に行くんでしょう?」

「あぁ」

「椎の実、取って来て」

 褐色の実の名前は、弓彦に囲炉裏の炎を想起させる。硬い殻を剥いて炒れば腹を満たすことが出来るし、その際起こす炎では、佐紀の冷えた手足を温めることができるだろう。

「……椎の実と薪、な」

 水辺に背を向けながら請け負う。お願い、と駄目押しのひと言をかけた佐紀の声には、わずかに笑みが含まれている。また再び水の中を歩いていく音が耳に届くのを聴くともなしに聴きながら、兄の背に追いつくべく落ち葉を踏み締めた。


 冷えた空気が鼻先を掠めていく。頭上で木々がざわりと音を立てて揺れ、幾許かの枯葉が降り注ぐ。冬が来る。暗くて長い日々が、これから村を包むのだ。

 冬の川底が佐紀の足の裏を傷つけたりしないといい。椎の実がたくさん拾えるといい。薪の炎が佐紀の笑顔を優しく照らすといい。冬が、何事もなく過ぎていくといい。柄にもなく祈るような気持ちになって、弓彦は天を降り仰いだ。

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祈りと、願いと。 野村ロマネス子 @an_and_coffee

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