可哀想なジェシカ

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可哀想なジェシカ

ジェシカは貴族の家の使用人だ。

伝統的なメイド服に身を包み、ホウキや雑巾で屋敷を掃除する。普遍的なメイドの一人だった。


生涯、貴族の家に尽くす。

それがジェシカの金銭的な運命だ。


その中で、ジェシカは一人の娘と出会う。


フワフワの栗毛と、丸く大きな目が可愛い幼い子ども。


名をアンネマリーと言う。

彼女は屋敷の主の一人娘だった。


ジェシカは使用人の一人でありながら、アンネマリーに世話をよく焼いた。

時たまクッキーをあげて、内緒ですよ、と言う。


可愛い女の子は、ジェシカの母性を擽った。


最初こそ素っ気なかったアンネマリーも、次第にジェシカに懐いていった。

世話を焼く使用人が、何の裏もないことを理解したのだ。


アンネマリーは、よくジェシカの名を呼んだ。


可愛い声だった。

ジェシカ、ジェシカと呼び、ジェシカを見つけると小走りで駆け寄る姿は何ともいじらしい。


そんなアンネマリーに、ジェシカは心を砕いて接した。


使用人として、お嬢様を愛している。一番お嬢様を使用人として愛しているのは、私だと思っていた。


だけどもある日から、アンネマリーは変わってしまう。


アンネマリーは、頬を染めてジェシカを見るようになった。

その白くまろい肌を紅に染めて、上目遣いでジェシカを見る。


熱い手がジェシカに触れると、それはそれは嬉しそうに笑うのだった。


甘ったるい声で「ジェシカ」と呼び、まるで恋人のように頬にキスをする。


ジェシカは、誘惑されている。


アンネマリーは、ジェシカを誘惑しているのだ。


ジェシカは、その熱を軽蔑するように、アンネマリーを振り払って、避けるようになった。


敬愛するお嬢様が、自身を失墜させようと嘲笑っているように思えてならなかったのだ。


もし使用人と令嬢が結ばれたら、きっと、鞭打ち100回などでは済まされない。

ジェシカは令嬢を誘惑した夢魔として、令嬢は使用人に恋をした愚か者として認識されてしまうだろう。


アンネマリーがジェシカを呼んでも、別の人を送った。


アンネマリーが抱きつこうとしても、それとなく拒否をした。


アンネマリーが手を握ろうとしたら、振り払った。


アンネマリーに、か細い声で語りかけられても、仕事が忙しいと断った。


ああ、可哀想なジェシカ


大切にしたアンネマリーからの、こんな仕打ちに耐えなくてはならない。


たとい、どんなに可愛いあの子であっても、ジェシカは、すげなくしてしまう。


だって、ジェシカにとって、アンネマリーの誘惑はあまりにも悲しかったから。


悪魔のようだ。

蠱惑で誘い、人を堕落させ、神に裁かせる悪魔。


ジェシカは、アンネマリーが処刑台へ手招いているように思えてならない。


何度お嬢様と呼んだだろう。

幾度好きではないと言っただろう。


ジェシカには分からない。

ただ、アンネマリーは何時だって、ジェシカを熱っぽい目で見つめるのだ。


そして、ある日。

アンネマリーの結婚が決まった。


晴れた春の日だった。


ジェシカは言った。


「おめでとうございます。お嬢様。」


心からの喜びを込めて言った言葉は、お嬢様の顔を歪ませるだけだった。


「私、結婚してしまうのよ。あの男の物になってしまうのよ。」

「お嬢様、御相手様はとても良い御仁にございます。きっとお嬢様を幸せにしてくださいます。」


そう言うと、アンネマリーは何時になく悲しげな顔で、嘆くように言った。


「それじゃあ、意味が無いのよ。」


ジェシカは、言葉を無くしてしまう。

意味が無い、理由がわかる。


なんと言おうとしているのか、ジェシカには分かってしまった。


「なりません。お嬢様。」

「ジェシカ。私はジェシカを愛している。それは生涯変わることは無いでしょう。きっとどんな人に出会っても、貴方以上の人はいない。」


この上なく言い切って、そして続ける。


「今夜、屋敷を出た先の裏道で待ってる。お願い。最後の、お願いよ」


潤んだ瞳にそう言われて、何故、黙ってしまうのだろう。


ジェシカは声が出なくなって、アンネマリーが立ち去るのを見送った。


何も、言えなかったのだ。


その日の夜、ジェシカは窓の外を見た。

メイドは誰もが眠っている、深い夜だった。


黒の空に薄ら黄色い月が登っている。灰色の雲が混ざって、カフェラテのようだった。


ジェシカは、屋敷を静かに抜け出した。

目指すは、裏道。


詳しいことは何も言われなかった。

だけども、分かる。何処なのか。


ジェシカは昔、アンネマリーと出かけた事を思い出した。


好奇心旺盛なアンネマリーは、見たこともないような物ばかりの街に大層喜んで、何処へでも行ったものだ。


その中に、その裏道がある。


可愛い猫がいて、その子を撫でる事を許したことを、ジェシカは一生悔いることは無い。


あの日の言葉を、よく覚えている。


汚いとまで言える裏道で、アンネマリーの煌めく両目がよく映えていた。


猫を撫でる姿が、あまりにも似合っていて、優しい。


「ねえ、ジェシカ」


女性的な声のアンネマリーの声に、ジェシカは両目を瞬かせる。

ゆっくりとアンネマリーが微笑んだ。


その様が、あまりに悪戯っぽくて、色っぽくて。


「貴方は、私のことが大好きね」


その様が、忘れられなくて


ああ、ジェシカ、お前はずっと。

最初からずっと、そうだったのだ。


ジェシカは走り出した。

雨が降り始め、ジェシカの服を濡らす。安い生地は濡れると肌に張り付いて、重い。


走って、走って、獣道。

誰もいない道をかける。遠くで暮らしの明かりが見える。

ぺったんこな靴が擦れて、足が削れるような感覚。


ああ、アンネマリー、アンネマリー。

私は、ずっと


そうして、ジェシカは立ち止まった。


立ち止まりたくは無かった。

だけども、するしかなかった。


ジェシカは、ずるりと膝を床に着いた。

血が垂れ、土を汚し、それを雨が洗い流していく。


己の胸を穿ったのは、拳銃の玉だ。


ジェシカは倒れ込む。


近くに誰かがやってくる音がした。


そうして、薄れゆく景色の中、ジェシカはようやく思い至った。


誘惑していたのは、ジェシカの方だった。


ジェシカは、未来ある若者で、貴族のご令嬢であるアンネマリーを誘惑していたのだ。


無意識にも、私の恋心を、あの娘は悟っていたのだ。


ああ、可哀想なジェシカ


そう思い至っても、もうどうともならない。


アンネマリーはずっと、あの裏道でジェシカを待ち続けるのだろう。


ああ、可哀想なジェシカ


もう二度と、あの愛しい笑顔を拝むことは出来やしないのだ。


きっと、アンネマリーは、一生ジェシカを思い続ける。


結婚式でキスする時も、新たな家で編み物をする時も、子どもが出来ても、ずっと。アンネマリーはジェシカを忘れやしないだろう。


アンネマリーの恋はジェシカだった。


ジェシカはアンネマリーの恋の形をしていた。

アンネマリーの恋は、ジェシカしか知らないまま、生き続けるのだ。


ああ、可哀想なジェシカ


お前は、最愛の人を幸せに出来ないまま、逝くのだ。


「‎お嬢様。どうか、お元気に」


そう呟いて、ジェシカは死んだ。














アンネマリーは、ずっと、使用人が好きだった。


ジェシカという女だ。

かさついた手と、まろやかな瞳が特徴的で、どこをとっても素敵だった。


アンネマリーは、ジェシカを愛していた。

ずっと愛し続けるだろう確信があって、事実、そうだった。


ジェシカは使用人だ。

使用人である秩序を大切にする人で、雇い主であるアンネマリーに恋することは、まるで無かった。


アンネマリーは膝を擦りむいてしまったことがある。

外を駆け回って、その末だ。


当然、淑女に傷がついたとなって、誰も彼もがアンネマリーを怒った。


だけど叱ることは無い。

みな、アンネマリーという「ご令嬢」の傷がついた事だけを心配していたから、アンネマリーはただただ悲しくなる。


そんな中、ジェシカだけは違かった。

ジェシカは心からアンネマリーを心配して、お気をつけください、と言う。


それが、何よりも嬉しく、ただの娘であるアンネマリーを恋に落とすのは、十分だった。


だけども、ジェシカにとっては違うのだと思い知らされたのは、少し大きくなってから。


頬を染めて触れるようになったアンネマリーを、ジェシカはあからさまに避けるようになった。


何度名を呼ぼうと、幾度寂しいと言っても、ジェシカは使用人で。


ああ、可哀想なアンネマリー


遂に、その日が来て、アンネマリーは絶望した。


結婚することになったのだ。


相手は誠実な青年で、きっと、結婚したら大層大切にしてくれるのだろうことは、見て取れた。


幸せになれるのだろう。


でも、それではアンネマリーは報われない。


アンネマリーの幸せは、ジェシカと共にいることだった。

共に平和に暮らしたいと、心から願っていた。


だから、アンネマリーは言ってしまう。


共に逃げ出そうと、誘ってしまったのだ。


うち鳴らすような心臓の音を聞きながら、アンネマリーは夜の裏道へ忍び込み、ジェシカを待った。


頭の中では、ジェシカとの優しい日々が繰り返し流れている。


あの日、裏道で、アンネマリーを心から愛おしそうに見る女の姿を、忘れられないでいる。


そうして、朝が来て、アンネマリーは絶望の縁に立っていた。


ああ、可哀想なアンネマリー


ついぞ、愛した人は来なかった。

ジェシカはついぞ、アンネマリーの恋に答えなかった。


悲しくて悲しくて、アンネマリーは泣いた。


とぼとぼと帰り道を歩く。


アンネマリー様と呼んで、隠れてクッキーをくれた。

一緒に花冠を編んでくれた。

他にも、他にも、他にも


ああ、可哀想なアンネマリー


全ては、お前の傲慢だったのだ。


アンネマリーは雇い主の娘である立ち位置を利用して、使用人のジェシカに迫っていたに過ぎない。


そうして、帰ってきた屋敷は静かだった。


疑問に思うこともできず、アンネマリーはずぶ濡れで呆然と立っていた。


一人の使用人が、アンネマリーに恐る恐る声をかけた。


ジェシカは、死んだのだという。


強盗に襲われて、死んだのだ、と。


「そんな」


目の前が真っ黒になる、ということを、アンネマリーは初めて体感した。

足元が無くなったかのように揺らぎ、ふらりと倒れる。


誰かがアンネマリーを呼ぶけれども、それは聞こえないような気がした。


アンネマリーは、この時、死んだのだ。


あと一週間後、アンネマリーは結婚する。


だけども、アンネマリーはまるで屍のようだった。


食事も取らず、涙も流さない。

ただベットの隅で丸くなっている。


生きているだけ。

本当に生きているだけだった。


アンネマリーはか細い声で、ごめんなさい、と言うばかりで、他のことは何もしなかった。


趣味だった編み物も、窓の外を眺めることも、中庭の花を弄ぶこともしない。


それを哀れんだのは、他の使用人達だった。

みな、悲しむ理由を知っていたからだ。


だけども、何も言えなかった。

慰めようにも、アンネマリーの父である主人の目があったからだ。


その日、アンネマリーは父に、そんな使用人如きでと言われ、アンネマリーは拳を握りしめ、眠らなかった。


アンネマリーはただただ辛かった。


いつかジェシカが訪れて、驚かせてしまってすみません、と言うのを期待してしまって、苦しかった。


もう、他の人と結婚するでも、こっぴどく振るでも良い。


ただ、ジェシカが生きてさえいれば、アンネマリーはもう何も要らなかった。


ああ、可哀想なアンネマリー


もう、戻れないのだ。


幸せだった日々はもう戻らない。

お前は全てを失ってしまったのだ。


お前が恋しなければ、ジェシカは幸せに生きられただろう。

きっと、誰か自分とは違う人と結ばれて、幸せになっただろう。


全てはそれを許せなかった、お前の責任だ。


アンネマリーはただ泣いた。

泣くことしか出来なかった。


葬儀に参加することも許されず、ただ死んだ人に思いを馳せることしかできない。


囚われの鳥とは、正にこの事だった。


それを、心より哀れんだのは、ジェシカと仲の良かった使用人の少女だ。


その使用人は昼頃、アンネマリーの元を訪れて、一冊の本を手渡した。

密かな密会だった。


それを厳重に隠すように言い含められて、アンネマリーは緩慢に頷く。


最初は、ただの本だと思った。

心配した使用人の気配りで、小説でも渡されたのだと思った。


だけども、それは違うことが直ぐに分かる。


それは、日記帳だった。

中には、アンネマリーのことが綴られている。


アンネマリーは目が覚めたような心地で、それを読んだ。


それは、いつもアンネマリーを優しい声で呼ぶジェシカの、心からの言葉だった。


アンネマリーが可愛くて仕方ないこと、仕事が大変なこと、次のアンネマリーの誕生日はきっと大変になること


そして、ジェシカの、アンネマリーへの恋心が綴られていた。


きっと、叶うことの無い恋であろう。


使用人と令嬢など、小説の中でしかありえない。


だけども、夢を見てしまった。

叶わない、泡沫の、幸せな夢を。


それは、アンネマリーもジェシカも一緒だった。


「ああ」


アンネマリーが感嘆するように声を漏らす。


紙面に目を滑らすと、それにジェシカが答えたように感じられた。


どうかお元気で、と書かれていた。


ああ、ジェシカ、お前はきっと、分かっていたんだ。

自分の末路を、理解していたのだ。


「ジェシカ、私も大好きよ。」


アンネマリーは、ただ泣いていた。


ああ、アンネマリー


お前は、大きな間違いを犯した。

だけども、それはジェシカも同じだ。


お互いを深く愛するあまり、失ってしまったのだ。


ああ、アンネマリー


最後のジェシカの言葉を忘れるな。

日記を握りしめて生きていくのだ。


「貴方も、元気でいてね。ジェシカ。」

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