第八幕 ハモンと、罅抜と

 自身の護衛を斬り殺した貴族ゲンスキーが周囲を睥睨へいげいしている。

 顔を見れば正気しょうきを失っている事は明白めいはくで、同時に生きているのが不思議な程に全身から力が抜けている。瞳孔どうこうは開き、あごが力無く落ち、ながされる唾液だえきと鼻水に気付いた様子も無い。

 まるで死人のかおだ。


 ぎわ糞尿ふんにょうらした軍人が居るのか死体に羽虫はむしたかり始めた。

 気に成ってハモンが嗅覚きゅうかくに意識を集中すれば確かに肥溜こえだめのにおいがする。


 そんな羽虫に向けてゲンスキーが左手一本で罅抜ひびぬきを振った。

 無造作で腰の入らない子供が木の棒をもてあそぶ様な素振りだ。

 本来、小さく不規則ふきそくに飛び回る羽虫を刀でとらえるのは難しい。

 だが不思議とゲンスキーは正確に羽虫のはねを断ち切った。


 正しく達人たつじんが生み出す静かで予兆よちょうも余分な空気のうずも生み出さないんだ斬撃。空気の渦を生まないがゆえくうただよう落ち葉すら断ち切る太刀筋たちすじ


 決して正気を失い千鳥足ちどりあしと成った男がざつに振るってしょうじるものではない。


 ハモンは思わず立ち上がってしまった。

 愛刀の切れ味。

 ただそれだけで達人の斬撃を放つ貴族が認められず、あやうい叫ぶ理性を踏み潰して隠れていた草むらから体を起こしてしまう。


「ぁぁあぁああなぁあああああっ」


 言葉すら失った貴族の成れの果ての双眸そうぼうがハモンをとらえた。千鳥足ちどりあしのまま草むらの枝葉えだは切傷きりきず無数むすうに作りながら寄って来る。

 無造作むぞうさに振り上げられた左腕への危機感から後退する。


 所詮しょせんは狂気と酔いに飲まれた野獣以下の暴徒ぼうとだ。

 無駄な配慮はいりょから貴族の生存を求めて余分よぶんな危険を背負わなければ逃走は容易たやすい。


 木々を盾に森を崖に向けて進む。

 狂人と化したゲンスキーはまるで空腹くうふくに判断力を失った野犬の様に本能的な動きでハモンを追走ついそうした。


 振り回される左腕の罅抜ひびぬきが木を断つ。

 刃も正しく立たない冗談の様な斬撃で木が刃渡りの分だけ切断される。

 さいわいにもハモンを追って無秩序むちつじょに振るだけなので木こりの様に切り倒す程の深さで刃を入れる事は無い。

 もし木を狙って罅抜ひびぬきが振られていれば森の中が倒木とうぼくあふれてしまうだろう。


 ふと、旅の目的を達成したあかつき罅抜ひびぬきが手元に残れば木こりを生業なりわいにするのも良いかもしれないと思ってしまう。

 山中に質素しっそな家を建て、木を切って、まきを割り、木炭もくたん木簡もっかんを近場の街に売りに行く。春には花弁はなびらでくしゃみをして、夏には暑さに水を求め、秋には山のさちを探して山中を駆け、冬には寒さに凍えて火を起こす。

 時には街で獣の討伐とうばつに参加し、山の獣を狩って肉を焼くのも良いだろう。

 世捨よすびとが老後の果てに行き着く様な生活を夢想してしまう。


 そんな未来は来ない。

 旅の終わりにハモンは罅抜ひびぬきを失う。

 その為の旅だと理解しながらの夢想むそうだ。


 森の外周に到達した。

 背後は崖。

 ここまで来れば軍人たちの帰宅が遅い事を気にした者たちや、何かの拍子ひょうしに森へ踏み入った市民に簡単に見つかる事も無い。


 ただ状況が好転こうてんした訳ではない。

 罅抜ひびぬきの回収と防衛都市の被害を考慮こうりょから外せば逃げるのは容易たやすい。森と市街地でゲンスキーの視線を切りイチヨの手を引いて都市を脱出する事も出来る。


 だがハモンの旅に罅抜ひびぬきは外せない。

 手元を離れれば探すし、消滅したと確信が無ければ旅を止める事も無い。

 人生を犠牲ぎせいにしても手放てばなす事は出来ない。


 追いすがる者への対処を考える。

 森を出てしまえば身を隠すすべが無くなる。

 森外周部を主戦場とさだめてゲンスキーを迎え撃つ。


 父いわく達人は無刀取むとうどりなる曲芸きょくげい習得しゅうとくしているというがハモンは達人ではない。

 如何いかにゲンスキーの認識外から左腕を断つか。

 それのみを考えひろった軍人のサーベルに力を込める。


 背後のゲンスキーが近い事を足音で察しハモンは振り返った。

 彼我ひがの距離は約十歩。


 酔っ払いのたぐいを相手にする気分に嫌気いやけす。自分以外が罅抜ひびぬきを振るうというのが気に入らない。

 そんな独占欲どくせんよくを自覚しつつハモンは右半身を木の陰に隠した。


 迫るゲンスキーが左腕を肩まで上げて罅抜ひびぬきを横薙ぎに振るう。

 抵抗無く木に刃が通り、罅抜ひびぬきの切っ先がハモンの眼前がんぜんで横に向かった。

 千鳥足ちどりあしのゲンスキーは振りの勢いから体が左から右に流れるのを止められない。


 その隙にハモンは木の裏を通る。罅抜ひびぬきを振って無防備に成ったゲンスキーの左半身へ抜けようと足を動かした。

 木によって一瞬だけ視界をふさがれるがそれは相手も同じ。

 右下段に引き絞ったサーベルでゲンスキーの左腕を狙う。


 木の陰から跳び出す様に踏み込んだハモンが右半身だけを露出ろしゅつさせた時、ゲンスキーを見れば右側へ斬撃を放った直後の無防備な姿をさらしていた。


 左肩、左上腕、左脇腹わきばら

 引き絞ったサーベルで斬るならば好きに選べる状況だ。


 だがハモンは体をきたえた人間が狂人と化した時の危険性を完全には理解できていなかった。

 ゲンスキーは左側で身を低くするハモンへ罅抜ひびぬきの柄を打ち下ろす為に全身の肉が傷む事もいとわない強引な挙動きょどうを取る。

 けんが切れる生理的な嫌悪けんおもよおす音が鳴る。


 そんな状態で振り下ろされる柄頭つかがしらは普通なら打撃として成立する勢いを持てない。

 だが膨張ぼうちょうする程に鍛えられた筋肉が通常の体格の剣士が放つ程度の威力を生み出す。


 予想外の事態に思わずハモンは足を止めてしまった。

 元々ハモンが完全に木の陰から跳び出す所を狙った打撃は、直前にハモンが止まった為に軌道修正きどうしゅうせい余儀無よぎなくされる。


 威力の出る位置よりも手前の打点だてん、そこに向けて振るわれた柄頭だが肉体の限界が来た。

 けんが切れながらも筋肉だけで強引に動かせたのは一瞬。

 そこから更に軌道修正をするだけの無茶を肉体の限界が許さなかった。


 半端はんぱな姿勢でゲンスキーが崩れ、罅抜ひびぬきの柄頭が木のみきを叩き、彼の手から上にはじけ飛んだ。

 反射的にハモンとゲンスキーは罅抜ひびぬきを追ってあごを上げる。


 宙に浮いた罅抜ひびぬきが切っ先を下に向ける。

 まるで恋焦こいこがれた相手をむかえる様にゲンスキーがろくに動かぬ両手を上げようとし、それも叶わず切っ先が彼ののどつらぬいた。


 木に体を支えられながらひざから崩れ落ちるゲンスキーの金箔きんぱくをあしらった着物が彼の血でよごれていく。


 そんなゲンスキーをハモンは横から蹴り倒した。

 罅抜ひびぬきの柄を握り、刃を立てて首を横に断つ。


 かろうじて息は有った。

 今際いまわの言葉くらいは残せたかもしれない。


 だが一時いっときでも罅抜ひびぬきを奪われた怒り、愛刀へ別のめいあたえようとした暴挙ぼうきょ

 それらが合わさり一片いっぺん慈悲じひも与えぬとゲンスキーの首を落とした。


 空を見上げれば日がかたむき始めている。

 イチヨの心労しんろうを一刻も早く解消してやる為にハモンは宿に急いだ。

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