青に魅入られて

@bell_kyomu

あおい

「ねぇ、りゅうちゃん」

のどがしびれるような甘ったるい声でそうつぶやいたのは今年で十八の葵だった。葵は流星の腕の中で幸せそうな顔をして目を伏せた。

「あのさ、あたしねぇ、」

葵の言葉を遮るように携帯電話から着信音が鳴る。画面に表示された名前は母親のものだった。

「でないの?」

「でないよ。今は葵との時間だからね。」

「やめてよもう」

嬉しそうに頬を赤くしながら葵が言った。葵とは付き合ってもう二年になる。二年たっても互いを必要とするような関係であり、この関係はこの先も続くだろう。

 だとか思っていた時期もあった。二年記念の日、葵の浮気が発覚した。葵曰く罪悪感から言わずにはいられなかったらしい。まぁ葵のことだから言われなくてもバレていたとは思うが。浮気相手とは別れているそうでもうかかわりはないらしい。まぁ問題はそこではなく、こんなにも自分を愛していると思っていた女がまさか自分を裏切るだなんて思ってもいなかったのだ。アニメやドラマで浮気された男を見て憐れんでいた自分がなんだか情けなくなってきた。葵に理由を聞いたところ「さみしかった」のだそうだ。自分自身そんなに仕事に専念しているだとか葵が邪魔だとかは思ってもいなく、そう感じさせるようなことをした覚えもない。連絡だって定期的に入れているし葵が辛そうなときは仕事終わりでも駆け付けた。我ながらできるやつだとは思っていたのだが、葵にはまだ足りなかったらしい。

 暗い部屋に沈黙が続く。壁が一枚あるような、そんな感覚。一体いつまでこれが続くのだろうか、そう思ってた矢先葵が重い口を開いた。

「…もう帰ってくれない…?」

なんて失礼な奴なんだ。せっかく俺が自分の時間を割いてまでここにきてやったのに。

「話し合うために来たんだろ、帰ったら意味がないじゃないか。」

「話し合うことって…別に二人じゃなくても…」

「なんで二人じゃダメなんだよ!!!浮気相手でも間に入れるつもりなのか!!!」

「そ、そういうことじゃなくて…」

葵は今にも泣きそうな目で震えていた。感情が高ぶりどうしようもなくなった俺はドアを殴りつけ、たばこに火をつけた。目に夜景が滲む。部屋の奥からはすすり泣く声が聞こえてきて、なんだか自分が怖くなった。

 進展があったのはそれから二週間後だった。午前十時ごろ部屋のインターフォンがなった。ドアを開けると葵と四十代近いスーツを着たおっさん、警官がいた。

「この、人です…」

「君が笹原流星くんかな?ちょっと聞きたいことがあって署までご同行願えますか」

「はぁ…?」

なんなんだ急に。

「ストーカーのことについてなんだけど」


「あのねぇ、君。もういい大人なんだからさ、あきらめつけなよ。」

「なんのことですか?俺と葵は付き合って…」

「じゃあいつから付き合ってるの?」

「二年前です」

「葵さんは三年前から恋人関係の男の人がいるよ。」

「え?」

「君たちはつきあっていないよ。君が一方的に葵さんにストーキングしているんだよ。」

「だって二年前葵が俺のほうを見てほほえんで…」

「目が合っただけでしょ」

「デートだって行ったし、」

「君がついていっただけでしょ」

「じゃ、じゃあなんで拒否しなかったんですか」

「拒否なんてしたら何されるかわからないでしょ。そもそも葵さんはやんわりと断っていたはずだよ。」

「拒否なんてされてなっ…」

「そう感じてないの君だけだからね。」

言葉が出なかった。三年前から恋人がいた…?俺がストーカー?何を言ってるんだ…?葵は浮気してたんじゃないのか?

「そもそも君、部屋にも入れたもらったことないでしょ。いつもドア荒々しく殴ったり蹴ったり。葵さんからしたら恐怖でしかないよ。」

俺が葵を怖がらせていた?違う、あれは葵のことを思って…

「君、葵さんからしたらただの他人だよ。」

その言葉を聞いた瞬間、何かがプツッと切れた音がした。そこからの記憶はない。

 目が覚めると見慣れない天井があった。俺が目を見開いたままぼーっとしていると看護師らしき女が近寄ってきた。

「あら、笹原さんお起きになられたんですね。今先生を呼んできますから」

どうやらここは精神病院の類らしく、俺はあの後ここで入院していたらしい。

五十代くらいの爺が部屋に入ってきた。ベットの横にある丸椅子に「よいしょ」っとなんともそれらしい声をかけてすわった。

「笹原さん、おはよう」

「っす…」

「昨日のこと覚えてるかな?」

「なんも」

「そっかそっか、大丈夫だよ」

「…」

「少し気分が晴れないかな?カーテンを開けてみようか」

そう言っておいぼれはカーテンを開けた。思っていたよりも光が強く目の前が一瞬眩んだ。

「昨日弁護士さんとお話ししたと思うけど、自分ではどう思う?」

「…俺はまだ信じられてません」

「そうかいそうかい、そうだよね。二年も思ってきたんだから」

「……俺は…葵と付き合ってないんですか」

「うん、結論から言うとそうだね。君が今まで見てきたものは幻覚かな。」

「…幻覚…」

「葵さんもね、少しつらかったみたいだから今回こうなったんだよ。」

「葵がつらい…」

「こらから少し長い期間になるけど一緒に治療していこうね」

そんな老いぼれた爺の言葉が今の俺には深くしみた。


 目を開けるといつもと同じ風景が見えた。また夢か。一体なんかい同じ夢を見ればいいのだろう。どこを見ても青い。目が痛くなってきがおかしくなりそうだった。いつからこの空間にいるのかわからない。。一面どこを見ても青い。青い、青い、青い、青い、青い。目に焼き付けられるような青さがだんだんと自分の精神を蝕んでいく感覚。苦しい苦しい苦しい。その空間にはただの青さが広がっていて何もない。ベットもテーブルも椅子も。何もないのだ。気が狂いそうになって意識を失ってまた同じ夢を見て目が覚めての繰り返しだった。何度経験してもなれないようなこの感覚が気持ち悪くていてもたってもいられなかった。だんだんと自我がなくなっていきそうで、自分が壊れてしまいそうで。いや、もしかしたらもう自我なんてものないのかもしれない。こんな環境でも必死に生きようとしている自分がなんだか馬鹿らしくなってきた。こんなところ出たところで何も変わらないんだろう。俺はまた同じ夢を繰り返し見て精神を病む。溺れてしまいそうな青さがもう嫌ではなくなってきた。心地よいようなそんな感じがして眠りに入る。

もう戻ることはできない。


 「いやぁ、それにしてもすごい実験でしたなぁ。」

「人間は何もない一定の色しかない空間では精神が狂ってしまう…今回も何の変哲もないただの青に魅入られてしまったようですね」

「それにしてもそんなことわかりきっていることなのに実験をしようとしたのはなぜ?」

「うぅん、なんででしょうか…」

「先生もわからないんですか」

「もしかしたら、…私はもうすでに青に魅入られてしまってるのかもしれません」

笹原は言った。

「はっはっは、冗談はよしてくださいよ」

「…そうですね。すいません」

笹原の目は一切笑っていなかった。

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