第4話 おばあさん

 俺はその△谷村に引っ越すことにした。理由は何となく縁を感じたからだ。たまたまバイト先のお姉さんが教えてくれて、条件ピッタリの所が見つかるなんて奇跡みたいなものだ。陳腐だが運命を感じてしまった。人生というのは目に見えない何かからのお導きがあるものだと思う。俺はあの村に引っ越すために、田舎から東京に出てきたんだという気さえする。


 その村は誰から見ても、車がないと生活できない場所だった。俺は事前にそれを聞いていて、前回はレンタカーを借りていたが、自家用車の維持費が馬鹿にならないので、車を持つことはしなかった。その代わりにロードバイクを購入した。


 これには村の人もがっかりしたようだ。俺を足にしようと期待していたに違いない。俺はあんたたちの無料運転手じゃない、と俺は心の中で反発していた。そして、最低限の荷物は宅急便で送った。田舎と言っても人口は百人ほどいるから、実は何の不便もないのだ。

 宅急便というのは、山の中のぽつんと一軒家みたいな所でかつ道がないというような場所では配達を断られたりするが、道路があって住民が百人も住んでいるような我らが〇谷村にはちゃんと宅急便が届くのである。


 俺は野菜も宅配で頼むことにした。買うのはじゃがいも、にんじんなどの根菜類だけ。葉物野菜はその辺に生えている雑草で食べられる物を食べることにした。


 そしたら、近所の人が挨拶を兼ねて、勝手に野菜を持って来てくれた。素直に感謝したが、次に来た時に、車の免許は持っているかと聞かれた。持ってますと言うと、おばあちゃんを町の病院に連れて行ってほしいと言うではないか。図々しいと呆れたが、野菜をもらってしまったし、仕方ないから承諾した。おばあちゃんも田舎に住んで大変だろうし、俺も暇を持て余しているから一肌脱ごう。


 そのおばあちゃんは八十六歳で背中が曲がっていた。昔の農家の人は、田んぼが手植えだったし、俺が幼い頃、田舎には農作業で背中が曲がっている人が結構いた。ああいう人はもう生きていないのか、今はあまり見かけなくなった。


「どこがお悪いんですか?」

 俺は車の中でその人に尋ねた。

「血圧と糖尿」

 頭もしっかりしているようで俺はほっとした。

「でも、すごくお元気ですね」

「若い頃いっぱい働いたからね」

 おばあちゃんはさらっと答えた。俺ははっとさせられた。俺は何をやってるんだろうと思った。こういう人は若い頃から田舎に住んでいて、楽しいことなど何もなかったのではないか。映画館やデパートに行ったりなんて、当たり前の楽しみを味わわず生きて来たのだろう。娯楽といえば、テレビとラジオくらいだったに違いない。


 俺の祖母がそうだった。昔はデパートに行く時は正装して行ったもんだとか。結婚してから遊びになんて行ったことはないとか。国内の旅行もほとんどしたことがなかった。そんな祖母の楽しみはラジオだった。「ラジオなら聴きながら手を動かせる」それが口癖だった。


 俺は祖母のことを思い出した。大正生まれの人で、もう、とっくに亡くなっているが。このお婆さんは祖母よりは十歳以上若い。でも、ちょっと祖母のような気がしてきた。


 「若い頃は一生懸命働いた方がいい」


 祖母はよく言っていたものだ。俺はこんなに早く早期リタイアしてしまっていいんだろうか。人生の嫌なことから逃げているんじゃないか。職場に嫌な女の先輩がいて、その人に虐められたせいで、精神的に参っていたのは確かだった。仕事をやめないと鬱病になっていただろうと思う。俺はかっこつけて引退してしまったが、実は自分に言い訳をしている気がした。


 その後、俺はおばあさんを病院に送って行ったが、親族みたいに診察室に入って話を聞いた。血圧は安定しているし、糖尿もコントロールできているからといつもと同じ薬を出されただけだった。


「一か月分出しますので、また来月受診してください」

「はい」

 俺は息子のように返事をした。来月も俺が来るかもしれない。そんな気がしていた。確かにこういう付き添いに人を頼んだら相当の出費になってしまうだろう。介護保険では、自家用車を運転して、病院内では介助をしつつ、診察に同席なんて一から十まではやってくれないだろう。車で片道三十分以上かかったから、福祉タクシーを借りるのだったら数千円はかかる。介護保険で安くなるとしても、現金収入がなく、年金受け取り額の少ないおばあさんの場合は支払いが大変かもしれない。

 

 俺は気の毒になって、その人を助けてあげようという気持ちになった。



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