第2話 ゴレイアスとアグリッピナ

 ポンペイに向かって、一群いちぐん馬車ばしゃ集団しゅうだんが進んでいた。

 ポンペイに赴任ふにんする新執政官しんしっせいかんと、それを補佐ほさする者達である。

 彼等かれらは、ローマから船を使ってポンペイの近くの港まで辿たどり付いた。

 それは、この地域一帯ちいきいったいに道をめぐらす大きな商業港しょうぎょうこうだった。

 以前いぜんにヴェスヴィオ火山かざん噴火ふんかした事で、それまでポンペイに近接きんせつしてもうけられていた港は、ポンペイから距離きょりを置いた場所に移されていた。

 その為、大きな荷物にもつを運ぶ旅人たびびとは、荷馬車にばしゃ手配てはい容易よういな新しい港を使うのが普通ふつうだった。

 執政官の一行いっこうは、港で馬車に乗り換え、ポンペイへとつながる街道かいどうを進んだ。

 ポンペイ到着迄とうちゃくまでは、半日の旅程りょていだった。


 馬車群ばしゃぐんのうちの一つ馬車の中で、新しい執政官のそばに付き添う人物じんぶつがいた。

 それは豊満ほうまん身体からだをした初老しょろう女性じょせいで、執政官の隣に座って時折ときおり外の様子に鋭い眼差まなざしを送っていた。

 女性の隣に座る新執政官が、笑みを浮かべながら女性に話しかけた。

「アグリッピナ様。貴女あなたが、今回の私のポンペイ赴任ふにん同行どうこうすると言い出された時は驚きましたぞ。どうして、このような事を考えつかれたのです?」

 そう問われた女性は、隣に座る執政官の肩に手をせた。

庇護者ひごしゃの元から離れるなど、危険極きけんきわまりないですからね。私は常に自分じぶん安全あんぜんには気をつかっているのです。」

 その言葉を聞いた執政官は、納得顔なっとくがおになった。

貴女あなたすでに亡くなったとされていますからな。何しろ貴女は、あのネロ皇帝こうてい母君ははぎみなのですから。ネロ皇帝が亡くなってからもう八年になりますが、いまだに元老院げんろういんでは亡き皇帝や貴女をこころよく思ってない連中れんちゅうも多いですからな。」

 そう言った執政官は、直ぐに表情ひょうじょうを改めて女性の顔に眼を向けた。

「しかし、ポンペイに着いた後も、ローマにいた時と同じように大人おとなしくしていて下さい。ローマを離れたからといって、急に自由気儘じゆうきままにされては困ります。」

 新執政官の語りかけに対して、その女性は不敵ふてきな笑みを浮かべた。

「ゴレイアス。言いたい事はわかってますよ。ポンペイに着いてからも、目立めだった行動こうどうつつしむようにと言いたいのでしょう。」

 女性の言葉ことばを聞いた執政官が、少しおどけた表情を見せた。

流石さすがさっしが早い。貴女の存在そんざいがローマに知れたら厄介やっかいですからな。なあに、ローマなどよりも、ポンペイの方が楽しみも多いですよ。娼館街しょうかんがいには、若くて生きの良い男娼だんしょうも多いそうです。退屈たいくつはしないでしょう。そういった事がお好きなのでしょう?アグリッピナ様は…」

 それを聞いたアグリッピナの眼に、好色こうしょくそうな色が宿やどった。

 そんなアグリッピナを見ながら、ゴレイアスが念押ねんおしをした。

かく、あまり部屋へやからは出ないようにして下さい。執政官のやかたには、ローマからも様々さまざまな者達がたずねて来ます。中には、皇帝の側近そっきんや元老院の者もいますからね。そうした者達は、今でもネロ陛下へいか治世ちせい嫌悪けんおを抱いています。決して貴女の正体しょうたいさとられないように気を配って下さい。」

 ゴレイアスの言葉に、アグリッピナは不快気ふかいげまゆひそめた。

「ネロは私の忠告ちゅうこくを聞かず、勝手かってな事ばかりをした挙句あげくにクーデターなどを起こされたのです。しかも実の母親ははおやである私まで殺そうとするなど....。ゴレイアス。お前のお陰で、殺されそうになる前に脱出だっしゅつできた事は、今も感謝かんしゃしてます。私の暗殺あんさつは、ネロが考えた事ではないのでしょうが....。恐らくきさきの座を狙ったポッパエアのそそのかしでしょう。あの悪賢わるがしこい女のせいで、ネロは変になってしまった。」

 それを聞いたゴレイアスは、アグリッピナをたしなめる気配けはいを見せた。

「全てがきさきのせいではないでしょう? ネロ陛下は、周囲しゅういの者達の言葉ことばなど一切いっさい聞き入れずに、キリスト教徒達きょうとたちことごと火炙ひあぶりにしようとされたのですから。あれでは、元老院の者達もネロ陛下をかばいようがありません。」

 ゴレイアスの言葉を耳にして、アグリッピナが口を閉ざした。

 そしてその後、気を取り直したように口を開いた。

「ポッパエアも、きさきの座をまんまと手にしたものの、結局けっきょくはネロに殺されてしまいましたね。野心やしんが過ぎたゆえ自業自得じごうじとくというやつです。ポッパエアが死んだと聞いた時、私は一度はネロの元に戻ろうとも思った。ネロは、私がそばに居ないと、まともな政治せいじなど出来ないのです。でもそれを止めたのは、ゴレイアス、貴方あなたでしたね。」

 アグリッピナは、そう言うとかたわらにいる執政官に眼をやった。

 アグリッピナの視線しせんを感じ取ったゴレイアスは、直ぐに返事へんじを返した。

「貴女の元老院での評判ひょうばんは、決してかんばしくなかったですからね。ネロ皇帝の政治せいじに口出しが過ぎると言う者も多かったのです。私は帝国ていこく混乱こんらんする事を恐れたのですよ。」

 それを聞いたアグリッピナは鼻を鳴らした。

「でもその結果けっかはどうだったかしら? 結局けっきょくネロはクーデターを起こされ自殺じさつ。しかもそのあとの皇帝にいたのは、あの悪女あくじょポッパエアの前夫ぜんぷのオトーだったのですよ。れは屈辱くつじょくでした。」

 アグリッピナの言葉に、ゴレイアスはあきれた表情を見せた。

「それは、私怨しえんというのではありませんか?表立おもてだって口にして良い言葉とは思えませんが…。今の皇帝に対して叛意はんいがあると見做みなされますぞ。」

 すると、アグリッピナは隣に座るゴレイアスの直ぐわきににじり寄り、耳元みみもとささやいた。

「ならば何故なぜ、私が貴方あなたへの同行どうこうを申し出た時に、それに同意どういしたのです? 私に利用価値りようかちがあると考えたからなのでしょう?」

 ゴレイアスとアグリッピナは、互いの腹の内をさぐるように視線しせんまじえた。


 緊迫きんぱくしかかった空気くうきらすように、ゴレイアスが口を開いた。

「今のローマは、貴女あなたにとってはうらみの対象たいしょうというわけですな。ローマで私のやかたかくまわれていた間も、ずっとローマへの復讐ふくしゅうを考えていたという事ですか。それでポンペイへの同行どうこうを申し出たのですね。」

さっしが良い人ね。でも心配しんぱいなく。貴方あなたのポンペイ運営うんえいに対しては、くちばしを突っ込んだりはしません。貴方も、ネロが死んだ後は、随分ずいぶんめしを食わされて来ましたものね。」

 それを聞いたゴレイアスは、思い出したくもないとばかりに首を振った。

 そんなゴレイアスの顔を見て、アグリッピナはにんまりと笑った。

「貴方は、ネロの近衛兵このえへいひきいる隊長たいちょうでしたからね。粛正人事しゅくせいじんじという奴でしょう。ずっと元老院との連絡役れんらくやくという役職やくしょくに追いやられて、老人ろうじんどもの相手あいてをさせられたのですから。しかも、侵攻しんこう遠征えんせいにだけは、駆り出されて。さぞ、はらわたえくりかえっていたでしょうね。そんな貴方にとって、今回こんかいのポンペイ執政官しっせいかんへの異動いどうは、待ちに待った機会きかいですね。何か考えているのでしょう?」

 そうたずねて来たアグリッピナから、ゴレイアスは視線しせんらせた。

「隠さなくても良いのですよ。今のローマには、貴方だってずっと煮湯にえゆを飲まされて来ましたものね。ポンペイの執政官になって、ローマに一泡ひとあわ食わせてやる事を考えているのでしょう?ならば私は、貴方を助けてあげようと思っているよ。」

 

 にんまりと笑うアグリッピナを見て、ゴレイアスは心の中で舌打したうちをした。

 くえない女だ。

 ローマから遠く離れたポンペイなら、昔の帝母ていぼ威光いこう多少たしょう通用つうようするかもしれないと思って連れてきたのだが…。

 思っていた以上にしたたかな女だ。

 この女、ポンペイの財力ざいりょくについても知っているに相違そういない。

 その財力を使って、ローマへの復讐ふくしゅう目論もくろんでいるのかも知れぬな。

 いずれにしても油断ゆだん禁物きんもつだ。


 一方のアグリッピナも、隣に座るゴレイアスを値踏ねぶみしていた。

 ふん。あんたが、今のローマに対して忠誠心ちゅうせいしんなど微塵みじんも持ち合わせていないのは分かっていますよ。

 長い間ずっと元老院の年寄としよ連中れんちゅう相手あいてをさせられて、心の中では不満ふまんたらたらだったでしょうね。

 今回、ポンペイの執政官に任命にんめいされて、ようやく機会きかいが訪れたと思っているのでしょう?

 野心やしんが強い人ですからね。

 執政官への就任前しゅうにんまえから、ポンペイの有力者達ゆうりょくしゃたち連絡れんらくを取り合っていた事もお見通みとおしですよ。

 これからローマ相手あいてに何をしてくれるか、楽しみな事。

 互いの思惑おもわくを心の内に隠しながら、ゴレイアスとアグリッピナは馬車に揺られていた。



 アトランティスでは、一人の男が女王じょうおうの前に報告ほうこくあらわれていた。

 島の外には出てはならないというおきての中、外界がいかい情報収集じょうほうしゅうしゅうのために特別とくべつ指示しじを受けてポンペイに潜入せんにゅうしていた女王の側近そっきんだった。

「女王様。新執政官しんしっせいかん就任以降しゅうにんいこう、ポンペイが我々われわれ接近せっきんしようとする動きは、今のところ有りません。しかし気になる事が有ります。執政官と一緒に、アグリッピナという人物じんぶつがポンペイに入った事が確認かくにんされています。何の役職やくしょくもないのに、執政官の隣に座って旅をしていたところがせません。」

 それを聞いた女王のまゆくもった。

「アグリッピナ? それはあの暴君ぼうくんネロの母親ははおやではないですか。皇帝こうていの母である地位ちいかさに着て、ローマを物顔ものがおあやつろうとした人物。危険きけんです。その女性から眼を離してはなりません。直ぐにネレウスを呼びなさい。」


 女王から話を聞かされたネレウスは、直ぐに顔を挙げた。

承知しょうちしました。アグリッピナとは、また厄介やっかい人物じんぶつあらわれましたね。アグリッピナは、今は執政官のゴレイアスという男のやかたにいるようですね。今のところ、目立った動きは無いとの事ですが、何か動きがあればわかるように、『たか』を手配てはいしておきます。」

 女王の前から下がったネレウスは、直ぐに一人の男を呼んだ。

「ホーク。ポンペイの執政官の館に『鷹の目』を張れ。特にアグリッピナという女の挙動きょどうには、注意ちゅういを払うように...」

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