第38話 事の経緯
ひとまず郁恵さんを落ち着かせ、事情を詳しく聞いてみたところ、どうやら実家に帰った際、そろそろ自身の結婚について考えてもいいのではないかと言われてしまったらしい。
『将来独り身は辛いわよ』とか、結婚についての素晴らしさを母親に力説されたとのこと。
そこまでなら、郁恵さんも我慢できたらしい。
けれど、話し終えた後の母親のセリフで、限界が来てしまったとのこと。
「そしたら何て言ったと思う? 『まっ、ここまで力説しといてなんだけど、あなたに期待する方が馬鹿よね』って。自分の娘に対してそれは酷いと思わない⁉」
郁恵さんは珍しく熱を帯びた様子で同意を求めてくる。
「確かに、それを言われたらショックですよね」
「私だって、母親として物足りないところはあったかもしれないけど、恵兎のことを本当の娘だと思って育ててきた自負があるわ! 恵兎を引き取ろうともせず、そっぽを向いてた人たちに勝手に決めつけられたくないわよ!」
「それで、『彼氏がいる』と言ってしまったんですね」
実の母親の言葉にカチンと来てしまった郁恵さんは、『私だって、恋愛の一つや二つぐらいしてるわよ!』と虚勢を張ってしまったらしい。
「あんた、彼氏いるのかい?」と問われ、「もちろん! いるに決まってるじゃない!」と豪語してしまったとのこと。
「あぁ……どうして私あの時、あんな安い挑発に乗ってしまったのかしら」
郁恵さんはその場にしゃがみ込み、頭を抱えてしまう。
「まあまあ、そんなに落ち込まないでください。今からちゃんと謝れば、郁恵さんのお母様も納得してくれますって」
「そんなの無理よ! もしここで、『あの時は売り言葉に買い言葉で言っちゃったけど、本当は彼氏なんていないの』なんて言ったら、『だと思ったわ』って馬鹿にされるに決まってるじゃない!」
「それはそうですけど……」
言ってしまったものは仕方ないんだから、素直に謝った方がいいと思うんだけど……。
「恭吾、女ってのはね、年を取ればとるほど、自身のプライドが許さないのさ。郁恵さんをもう少し慮ってやりなさい」
俺の気持ちを汲み取ったように、よしヱばあちゃんが言ってくる。
どうやら、俺にはまだ分からぬ大人の葛藤というものがあるらしい。
蹲って頭を抱える郁恵さんをよそに、俺は隣にいた恵兎ちゃんへ視線を向ける。
この様子だと、郁恵さんが夜何をしているのか聞きだすのは難しいだろうと恵兎ちゃんも思ったらしい。
ふぅっと一つ息を吐いて、郁恵さんの隣にしゃがみ込むと、優しく背中を撫でてあげる。
「お母さん。私も一緒に謝りに行ってあげるからさ、ちゃんとごめんなさいしに行こう?」
「うぅ……恵兎……」
郁恵さんは涙を拭いながら、恵兎ちゃんの方へ顔を上げる。
これじゃあ、どっちが母親で子供か分からないな。
「恵兎ちゃんの言う通りですよ。謝れば許してくれますって」
「恭吾君……」
「それに、郁恵さんはまだ若くて綺麗なんですから、これからいい男の人に出会う可能性だって十分ありますって。希望を捨てないでください」
「そ、そんな……私なんてもう三十路近いおばさんよ」
「そんなことないですよ。俺からすれば、美人なお姉さんです」
「も、もう! おだてないで頂戴」
先ほどまでヒステリックだった様子とは違い、頬を赤く染めて身を捩っている。
「これ、そう易々と女性をおだてるんじゃない!」
褒めたつもりが、よしヱばあちゃんに注意されてしまった。
「恭吾、そこまで言うなら、郁恵さんの言う通りアンタが彼氏役になってやりなさい」
「どうしてだよ⁉ 謝る方向で話が進んでただろ?」
「結婚に神経質な年頃の女性に、そう簡単に謝らせるものじゃない。これは、私からの業務命令だ」
「なっ……」
まさかのばあちゃんによる職権乱用。
あんまりだ。
「それともなんだい? お前のさっきの美人で綺麗なお姉さんて言葉は嘘だったのかい? 本当にそう思ってるなら、彼氏役をするぐらいどうてことなかろう」
「うっ……それはそうだけど……」
ごもっともなことを言われてしまい、俺は恐る恐る郁恵さんへ視線を向ける。
郁恵さんはこちらを羨望な眼差しで見上げていた。
その表情からも、郁恵さんも彼氏役を望んでいることが窺える。
「分かりました。俺が引き受けますよ。郁恵さんの彼氏役」
「えっ⁉ い、いいの?」
「はい。俺なんかで良ければですけど」
俺が頭を掻きながら言うと、郁恵さんは地べたに額を押し付けた。
「本当にありがとう! 今度何か奢るわ!」
「いやいやいや、お礼とかいらないですから! お願いです、頭を上げてください!」
郁恵さんの渾身の土下座に、俺はたじたじになってしまう。
聞いてしまったからには、助けないわけにもいかない。
ここは俺が引き受けて、郁恵さんがご両親と円満に終わることをやり過ごすしかないだろう。
こうして俺は、郁恵さんの彼氏役をやることとなった。
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