第37話 懇願する郁恵さん

「お待たせー!」


 放課後、俺は昇降口で恵兎ちゃんと合流して、一緒に銭湯へと歩き出す。

 向かっている途中、通学路から脇道に逸れたところで、俺は話を切り出した。


「それで、郁恵さんのことで話があるって言ってたけど……?」

「はい……実は最近、お母さんの様子がおかしいんです」

「具体的にはどういう風に様子がおかしいの?」


 俺が尋ねると、恵兎ちゃんは深刻そうな顔色を浮かべる。


「最近お母さん、夜に出かけることが多くなったんです」

「郁恵さんが、夜に?」

「はい……帰ってきた時に『どこに行ってたの?』って聞くと、『ちょっとね』ってはぐらかされるんです」

「それは怪しいな」

「ですよね」


 そこで、友香から聞いた言葉を思い出す。

 帰り際に、知らないスーツ姿の男の人と一緒に郁恵さんがいるのを見たという話。

 あれがもし本当であれば、郁恵さんはその事実を恵兎ちゃんに隠しているということになる。

 果たして、これを恵兎ちゃんに言ってもいいものなのだろうか……。


「先輩、そんなに考え込んでどうしたんですか?」

「へっ? あっ、いやっ、何でもないよ」



 黙り込んでしまったことに疑問を抱く恵兎ちゃん。

 俺は適当にはぐらかしておく。


「でも、郁恵さんが恵兎ちゃんに言えないような事なんて、しないと思うんだけどなぁ……」

「私もお母さんのことを信じてます。だからこそ、ちゃんと夜何処へ出かけて何をしてるのか、ちゃんと言って欲しいんです」

「なるほどね」


 恵兎ちゃんからすれば、唯一の育ての親。

 心の拠り所みたいな人物だ。

 そんな一番信頼を置ける人に、何か秘密を隠されていたら、いい気分ではないに決まっている。


「それなら、今日家に帰ったら、ちゃんと恵兎ちゃんの気持ちを伝えた上で、もう一度聞いてみたらどうかな?」

「はい……そうしてみます。なので気合を入れるために、お風呂に入らせてください」

「そう言うことね。いいよ。ただ、今日郁恵さんがお休みで、掃除がまだ終わってないんだ。お客さんに手伝わせるのは凄く心苦しいんだけど、浴槽の掃除手伝ってくれると助かるんだけど、いいかな?」

「はい! もちろんです」

「ごめんね、ありがとう」

「いえいえ! これも、家事修行の一環だと思えばいいだけですから!」


 腕を曲げて、力こぶを作ってみせる恵兎ちゃん。

 頼もしい後輩である。


「ありがとう、本当に助かるよ」


 そんな会話をしながら、俺達が松乃湯へ向かうと、入り口には『本日臨時休業』の張り紙が貼り付けられていた。


「あれっ? 営業時間遅らせるって言ってたはずなんだけどな」


 そんなことを思いつつ、俺と恵兎ちゃんは、入り口から銭湯へと入っていく。


「ただいまーばあちゃん、今から掃除するけど……」


 俺が入り口の暖簾をくぐって番台へ向かうと、そこにはスーツ姿に身を包んだ郁恵さんの姿があった。

 番台のカウンターを挟んで、ばあちゃんと何やら話をしていた様子。


「郁恵さん⁉」

「お母さん!? 今日は帰ってくるの夜になるって言ってたはずじゃ……」


 俺と恵兎ちゃんが驚いていると、郁恵さんは顔をくしゃくしゃにしながらこちらへ近づいてくる。


「二人ともー! どうしよう……! 大変なことになっちゃったぁ……」

「どうしたんですか郁恵さん? いったい何があったんですか⁉」


 俺が心配した様子で尋ねると、郁恵さんは俺の両肩をガシっと掴み、切迫した表情を浮かべた。


「恭吾君にお願いがあるの!」

「俺にお願いですか……?」


 眼光強めに言われて、俺は思わず身構えてしまう。

 一つ間を置いて、郁恵さんは至極真面目な様子で言い放った。


「私の彼氏になって欲しいの!」


「……はい!?」


 郁恵さんの口から出たのは、彼氏になって欲しいというとんでもないお願いだった。

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