第32話 俺と彼女の心の内

 夕食を終えて、俺は上田さんを自室へと招き入れた。


「どうぞ」

「お、お邪魔します」


 上田さんは少々緊張した面持ちで、そろりそろりと室内へと入ってくる。

 思わず、変な物が置いていないだろうかと、俺までキョロキョロと部屋の中を見渡してしまった。


「はいこれ、座布団。かなり年季が入ってるからぺしゃんこだけど」

「ありがとう」


 部屋の隅に積まれていた座布団を手渡してあげると、上田さんは床に敷いて、座布団の上に女の子座りでしゃがみ込んだ。


「ごめんね、色々お世話になっちゃって」

「平気だよ。そんなに大したもてなしも出来てないから」

「そんなことない。少なくとも、私にとってはこの上ない最高のおもてなしだった」

「上田さんの期待に添えたなら何よりだよ」


 上田さんとそんなやり取りを交わしながら、俺は自身のベットへ腰を下ろした。


「常本のおばあさん、本当に優しくて素敵な人だね」

「あぁ。まあちょっとおせっかいすぎる時もあるけど、俺が小さい頃からずっとあんな感じだよ」

「そうなんだ」

「まあ逆に、だからこそ半世紀以上、銭湯の番台をやってこれたんだろうけどな」

「そっか……だからあそこには、おばあさんの温かみが溢れてるんだね」

「かもしれないな」


 後でばあちゃんに言ってあげたら、大層喜ぶだろうな。

 上田さんは、ふっと柔らかい表情をしていたと思いきや、急にすっと真面目くさった顔へと変化させる。


「私ね、常本に謝らなきゃいけないことがあるの」

「ん、何?」


 優しく問いかけると、上田さんは目を泳がせてから、視線を俺に向けてくる。


「私の家のお風呂、実はもう治ってるんだよね」

「えっ、そうだったの⁉」

「うん。次の日には業者の人が来てくれて、すぐに修理してくれた。でも、常本の銭湯に訪れた時、最初はこんな古臭い場所の風呂なんて二度と使いたくないって思ってたんだけど、常本と友香が私を迎え入れてくれてさ、友香からはこの銭湯の歴史だったりとか常本が手伝うようになったきっかけとか教えてもらえて、ここには、色んな人が築き上げてきた歴史みたいなのが詰まってるんだなって感じたら、なんだかずっと通いたくなっちゃって……。あと一日だけ、あと一日だけってやってたら、気づいたら毎日通い詰めてた」

「そっか。であれば、銭湯を営んでいる身としては、仕事冥利に尽きるよ」


 上田さんがそんな風に思ってくれていたとは予想外だった。

 てっきり、俺のことも毛嫌いしていて、仕方なく銭湯に通い詰めているかとばかり思っていたから。

 上田さんは、さらにどこか遠くを見るようにして言葉を紡ぐ。


「私が今住んでる家ってさ、元々おばあちゃんが住んでた家なんだ。中学に上がる時、両親がそれぞれ地方に単身することになって、私はおばあちゃんの家で暮らすことになったの」

「そうだったんだ」


 俺が相槌を打つと、上田さんはコクリと頷いて話を続ける。


「でも、三年前におばあちゃんが他界して、私はあの家で一人暮らしをすることになった。金銭面は両親が負担してくれてたんだけど、やっぱり家に帰ったときに誰もいないと寂しくてさ。気づいたら、その心の寂しさを埋めるために、髪を染めたり校則違反を繰り返したりするようになってた」

「両親と一緒に暮らすって選択肢はなかったの?」

「その案も当然あったよ。でもやっぱり、私にとってあの場所が唯一の居場所だったから、無理言って残ったの。でも結局、家に誰もいない静かな空間で独りぼっちだと、虚しさだけがどんどん強くなっていって……」

「そっか……」


 きっと上田さんにとって、おばあさんがいなくなってしまってから、あの家で過ごす時間が、どれほどの寂寥感せきりょうかんに苛まれたのか、俺には計り知れない。


「この前さ、常本が家まで送ってくれた時、おばあちゃんの三回忌で、両親が来てたんだけどさ、そしたら『そろそろどちらかの家に来なさい』って言われちゃってさ。その時、私がどうしてこの家で一人暮らしをしようと決めたかとか、この人達は何にも理解してくれてないんだなって思ったら、気づいたら私、家を飛び出してた」

「そっか……」

「私はダメダメだよ。おばあちゃんの場所を残したいって言いながら、一人でいるのは寂しくて……。これじゃあただの傲慢で空回りした、憐れな人なだけだよ」


 自虐めいた笑みを浮かべてすぐに、上田さんは落ち込んだ様子で体育座りをして俯いてしまう。

 俺はなんと声を掛けていいのか分からなかった。

 けれど、少しだけ俺も上田さんに共感できる部分があるとすれば……。


「俺もさ……」


 自然と声が出ていた。

 上田さんは、俺の方へ顔を向けてくる。


「実は両親と別々に暮らしるのって、もちろん銭湯のこともあるんだけど、ばあちゃんがそんなに長くないって言われてるんだ」

「えっ……」

「病気が発覚した時、両親は店を畳むように言った。でもばあちゃんは、『私の生きがいを取られちゃ困る』って言って駄々をこねたんだ。それで、小さい頃からお世話になってて、何か恩返しをしたいと思って、気づいたら俺が銭湯を手伝うからって両親を説得してた」

「そう、なんだ……」


 上田さんは、どう反応したらいいか分からないといった様子。


「だから、俺もいずれ、ばあちゃんがいなくなる時が来るんだと思う。その時俺はきっと、上田さんと同じような決断をして、同じ境遇になるかもしれない」


 上田さんの失ったものが、どれほどのものか計り知ることは出来ない。

 けれど、いつか俺も、同じ境遇を辿る運命にあるのだ。

 だからこそ、今さら遅いかもしれないけど、少しでも上田さんにしてあげられることと言ったら――


「俺に出来ることはほとんどないけどさ、もし上田さんが少しでも寂しさを埋められるなら、いつでも銭湯においでよ。もちろん、今日みたいに定休日にばあちゃんの料理を食べに来てもいいし。ばあちゃんもきっと喜ぶから」

「でも、そんなおばあさんに負担をかけるようなこと……」

「負担なんかじゃないよ。むしろ俺的には、ばあちゃんに最後まで楽しく人生を謳歌してもらいたいと思ってる。そこに少しでも、上田さんが何か自分のおばあちゃんに出来なくて後悔してるものがあるなら、遠慮せずにそれをして欲しい。きっとそれが、俺達に出来る唯一の恩返しだからさ」


 上田さんは心残りがあるからこそ、あの家に一人になろうとも、今も亡くなってしまったおばあさんの幻影を追い続けているのだ。

 家族の温かみや愛情の部分で。


「元々銭湯ってさ、地元の人たちが集まる憩いの場なんだ。銭湯に通い詰めてる人ってさ、上田さんと同じように、何かしらの寂しさ忘れたいからなんじゃないかって、俺は思ってるんだよね。そういう寂しさを、他人と話すことで埋め合わせられる場所であって、地域の人たちに愛されてるんじゃないかって考えてる。そんな誰もが抱える寂しさを埋めるための憩いの場を、俺はこれからも守りたいし、上田さんみたいに一人で悲しみに苦しんでる人を、少しでも笑顔に出来たらいいなと思ってる」


 俺が持論を述べると、上田さんは驚いた様子で目をぱちくりさせる。


「もちろん、お金がないっていうなら、俺がばあちゃんに交渉してあげるよ。毎回無料っていうのは厳しいかもしれないけどさ。でももしそれで、上田さんにとって松乃湯ここが、心のよりどころになってくれればいいなって、俺は思ってる」


 俺の気持ちを伝えると、上田さんはボソっと――


「心のよりどころ……か」


 と呟いて、俺に尊敬の眼差しを向けてくる。


「常本は偉いね。おばあさんの為とはいえ、そういう目標がはっきりしててさ」

「そんなことないよ。こうやってカッコつけたようなこと言ってるけど、多分俺も心のどこかに寂しさみたいなものがあって、それを埋め合わせるために銭湯を手伝ってるんだと思うから」

「そっか……常本も一緒なんだね」

「そういうこと」


 すると、上田さんは自身の中で何か納得が出来たのか、すっきりとした笑みを浮かた。


「ありがと常本。私、両親にちゃんと自分の気持ち、話してみることにする」

「そっか。手伝えないのは心苦しいけど、いい結果になることを願ってる」

「うん。ごめんね、醜い所見せちゃって」

「平気だよ。むしろ俺なんかに、折り入った話をしてくれてありがとう」


 俺がそう言うと、上田さんが突然吹き出すようにくすっと笑いだす。


「な、なんだよ……?」

「いやっ……常本って結構情熱的なんだなって思っただけ」

「わ、悪いかよ……」

「ううん、素敵だと思う。だから私も、心に秘めた情熱をぶつけてくる。それでもしダメで、苦しかったり悲しかったりしたら、また来てもいいかな?」


 頬を赤く染めながら、身を捩らせて尋ねてくる上田さん。

 そんな彼女に対して、俺はふっと笑みを浮かべて――


「もちろんだよ。いつでも待ってる」


 と、優しい声で微笑みかけてあげるのであった。

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