第30話 葛藤

 雨が降りしきる中、スライド式の玄関の扉をガラガラガラと開き、私は常本の自宅へとお邪魔する。


「今タオル持ってくるから、ちょっとだけ待ってて」


 そう言って、常本は靴と靴下をその場で脱ぎ捨てて、裸足のまま家の奥へと廊下を歩いて行ってしまった。

 どれぐらい雨に打たれていたのか覚えていない。

 全身にべたりと衣類が張り付いていて、もう感覚すらマヒしている。

 毛先やスカートの裾からは、ポタポタと水滴が玄関先へと滴り落ちて、水たまりを形成してしまっていた。

 人の家に上がらせてもらっておいて、ここまで迷惑をかけてしまっている自分が申し訳なくなってくる。


「恭吾、帰ってきたのかい?」


 すると、聞き馴染みのない女性の声が、家の中から聞こえてくる。

 廊下の左手にある部屋から、腰を曲げた白髪の女性が出てきた。

 そして、白髪の女性はこちらを見つめると、驚いた様子で目を見開いた。


「あらまぁ……こりゃまたずぶ濡れじゃないか」

「ど、どうも……お邪魔してます」


 私はぺこりとお辞儀をする。

 そのタイミングで、廊下の奥から常本がタオルを持って戻ってきた。


「ただいまばあちゃん。悪いんだけど、彼女にお風呂貸してあげていいかな?」

「あぁ、構わないさ。服の乾燥もしてやりな」

「うん、分かった」


 どうやら白髪の女性は、常本のおばあちゃんみたいだ。


「はいこれタオル。ひとまずそれで、拭けるところは拭いちゃって」

「うん、分かった」


 私は常本から、ふわふわの白いタオルを受け取ると、ずぶ濡れになった髪の毛を拭いていく。

 常本も別のタオルで、自身の髪をタオルで豪快に拭いていた。

 本来なら、濡れる必要がなかった彼を雨に濡らしてしまったことに対して、私は罪悪感を覚えてしまう。

 顔や首回りの水滴をふき取り、気休め程度に制服の上から身体全体をタオルでポンポンと叩くようにして拭いてみた。


「靴下だけ脱いでもらって、そのままついてきて。お風呂場に案内するから」

「うん、ありがとう」


 私は言われた通り、ロファーを片足ずつ脱いで、器用に足を上げてソックスを脱いでいく。


「タオル預かるよ」

「ごめんなさい、ありがとうございます」

「何があったか知らんけど、大変だったねぇ。ゆっくり温まっていきな」

「すいません。お借りいたします」


 常本のおばあちゃんにお礼を言いつつ、上がり框へと上がって、廊下を奥へと進んでいく。


 突き当りを右に曲がったところで、常本が立ち止まる。


「一応、ハンドタオルとバスタオルは用意しておいたから、バスマットの横に置いてあるやつ使ってね。それから、脱いだ衣類は洗濯機の中に入れてもらえば、乾燥しておくから」

「何から何までありがとう」

「いえいえ、それじゃあごゆっくり。俺は着替え用意してくるね」


 そう言って、脱衣所の扉を閉めると、常本は足音を立てて遠くへ行ってしまう。


 私は、搾れるのではないかというほどに濡れている制服を脱いでいく。

 一般家庭ならどこにでもある、何の変哲もない脱衣所。

 しかし、まさか同じクラスの男の子の家のお風呂を使わせてもらうことになるとは思っても見なかった。

 常本に言われた通り、脱いだ衣類を全て洗濯機の中へ投入しから、バスマットの横に置いてあるハンドタオルを手にして、お風呂の扉を開く。

 中に入ると、モワッとしたじめじめとした空気が襲い掛かってくる。

 と同時に、温かい温もりが漂っていた。

 見れば、浴槽にはお湯が張られている。

 私のために準備してくれたらしい。


 辺りを見渡しても、木造の家にあるとは思えぬ、白い壁に包まれた真新しい異質な空間が広がっている。

 どうやら、お風呂はリフォームしたらしく、おばあちゃんの為なのか、手すりが四方に設置されていた。

 カウンターにはボディーソープやシャンプーが並べられており、男性用と婦人向けの両方が備えられている。

 私はお風呂の椅子に座り、蛇口を捻ってシャワーを出した。

 シャワーの音頭を手で確かめてから、私はノズルを手に持ち、肩からお湯を掛けていく。

 刹那、麻痺していた皮膚の感覚が、お湯を掛けたことにより徐々に戻っていき、血流が流れ始めたのが分かる。

 凍えていた身体も一瞬で温かさに包まれて、私は思わず感嘆のため息を吐いてしまう。


「……私、こんなところで何やってるんだろう」


 私はふと、そんな独り言を呟いてしまう。

 結局、友香のことを思ってと言いながらも、気づけば常本に会えるんじゃないかという淡い期待を抱いていたら、銭湯の前までやってきていた。

 その時、本当は心配して欲しかったのは自分の方だったと、改めて気づかされた。

 しばらく待っていると、彼は私の前に現れて、心配してくれた。

 それが何よりも嬉しくて、冷めきっていた氷河のような心が、じんわりと雪解けのように温まっていくのを実感していた。

 自分の心の弱さが、嫌になってくる。


「上田さん!」

「ひゃい!?」


 とそこで、不意に常本から声を掛けられたことで、私は変な声を上げてしまう。


「大丈夫?」

「へ、平気……」

「着替え持ってきたから、バスタオルの横に置いておくね」

「ありがとう」

「ごめん、女性ものの衣類ないから、俺のジャージで我慢してくれ」

「うん、分かった」

「しっかり温まるんだよ? 俺はリビングにいるから、何かあったら呼んでね。 お風呂出て、左手に行ったところだから」

「えぇ……分かった。お風呂あがったら向かうわ」

「おっけい。それじゃあごゆっくり」


 常本は、ピッピっと洗濯機を操作し終えてから、脱衣所を出て行った。

 私はボディーソープを泡立てて、身体を洗っていく。


「常本って、どうしておばあちゃんと二人暮らししてるのかしら?」


 お風呂場や洗面所にあった歯ブラシの数を見ても、他に誰か住んでいる様子はなかった。

 もしかして常本も、何かのっぴきならない事情を抱えているのだろうか?

 そう思ってしまったら、なんだか私の悩みを、彼が受け入れてくれるような気がしてきてしまい、はっと我に返って首を横に振った。


「いやいや……アイツに相談なんか……」


 口ではそう言うものの、無意識のうちに、助けを求めていたのは事実。


「何なんだろう。このやるせない気持ちは……」


 自分の意志と行動が一致せず、私は頭の中で何度も、葛藤を繰り広げてしまうのであった。

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