第2-1話 俺の働く場所
時刻は夜の八時を少し回ったころ。
ポタポタポタ……カポン。
水の滴る音と、桶の置かれる音が鳴り響き、モワッとする湿り気のある空気が、辺りを包み込む。
ここは、とある下町にある銭湯
年季の入った木造建築の建物は、昭和レトロ溢れる佇まいを醸し出している。
俺、常本恭吾(つねもときょうご)は、『ゆ』と書かれた暖簾をくぐり、店内へと入った先にある、番号の振られた木製の下駄箱へ靴を入れて、店内へと足を踏み入れた。
もう一つ暖簾をくぐると、ロジックな雰囲気の番台があり、そこには、白い髪をお団子に纏めた、よしヱばあちゃんが佇んでいる。
「ばあちゃん、そろそろ変わるよ」
俺が声を掛けると、何やら作業をしていたよしヱばあちゃんが、優しい瞳でこちらを見据えてくる。
「なんだい恭吾。もう来たのかい」
「何言ってるんだよ。もう交代の時間だぞ?」
「いつもすまないねぇ」
「平気だよ。それは言わない約束だろ? ほら、あとの仕事は俺がやっておくから。ばあちゃんは家に帰って身体を休めた、休めた」
「そんなに急かさないでくれ。もうそんなに機敏に動けないんだから」
ばあちゃんはそうぶつくさ言いつつ、腰を曲げた姿勢で番台から出てくる。
入れ替わるようにして、俺は番台へと入り、ばあちゃんの番台の仕事を引き継いで、シフトを交代した。
「レジの集計はまだ済ませてないよね?」
「あぁ、あとは業者さんへの発注と、鍵の消毒ぐらいだね」
「了解」
「それじゃ、戸締りまでよろしく頼んだよ」
「はいよー」
口頭で仕事の引継ぎを終えると、ばあちゃんはゆっくりとした足取りで銭湯をあとにする。
段差で転ばないか心配しつつ、ばあちゃんは隣にある母屋へと向かって行くのを見届けてから、俺は引き継いだ作業をパパッと済ませてしまう。
ものの数分で仕事が片付いてしまい、俺は手持無沙汰になってしまった。
「暇だなぁ……」
退屈から、思わずそんな独り言がこぼれ出てしまう。
俺は今年の初め頃から、ばあちゃんが経営しているこの銭湯を手伝っていて、午後八時から十時までの営業時間と、店の戸締りを任されている。
きっかけは、去年の冬の事。
ばあちゃんが、銭湯内の掃除をしている際、足を滑らせて転倒し、腰を痛めた事が発端だった。
俺の両親は、いい引き際だと、銭湯を畳むことを勧めたものの、ばあちゃんはそれを断固拒否。
「私の生きがいを取られちゃ困る」
と言って、頑なに首を横に振り続けた。
話し合いが平行線をたどる中、俺が両親に提案したのだ。
「俺がばあちゃんの面倒を見ながら、店を手伝うよ」
訳あって、当時から俺は、ばあちゃんと二人暮らしをしていた。
加えて、両親はお互い地方で働いていたこともあり、定期的に手伝いに来ることも困難だっため、今思えば最も無難な選択だったと思う。
俺は、元々ばあちゃんっ子だったこともあり、昔からよく銭湯に通い詰めていた。
遊び場としてもよく利用させてもらっていたので、今までお世話になった分、せめてもの恩返しが出来ればと思い、引き受けることに決めたのだ。
俺が手伝うと宣言すると、両親は大層驚いていたけど……
最終的には、両親が折れて、俺はばあちゃんの銭湯を手伝うことになったのである。
銭湯の営業時間は、夕方十六時から二十二時まで。
夕方四時から八時までの間はばあちゃんが番台の仕事を受け持ち、夜八時から十時までの二時間の店番と、戸締り作業を俺が任されることになった。
とはいえ、常連さんのほとんどは、八時前に入浴を済ませてしまうので、俺が番台に入ってからお客さんが来ることはめったにない。
今だって、建物内に男湯女湯どちらにもお客さんはおらず、銭湯にいるのは俺一人だけ。
暇な時間が続くと、つい無駄なことを考えてしまう。
思い出していたのは、先ほど駅前でナンパから助けてあげた上田さんの事。
「上田さん、ちゃんと家に帰れたかな?」
連絡先を知らないので、安否を確認する術がない。
あの後、無理にでも彼女を引き留めて、家まで送るべきだったと後悔していた。
ガラガラガラ。
その時、銭湯の入り口の引き戸が開く音が聞こえてくる。
どうやら、お客さんが来店してきたらしい。
俺はすっと背筋を伸ばして、お客さんが番台前までやってくるのを待つ。
「恭吾ぉぉぉーー!!!!」
直後、銭湯の下駄箱前から、俺の名前を呼ぶ悲痛な声が聞こえてきた。
聞き馴染みのある声を聞いて、俺はピンと張っていた背筋の力を抜き、彼女がいるであろう下駄箱前へと向かう。
暖簾をくぐって下駄箱前に足を踏み入れると、そこには、土まみれに汚れたジャージを身を包んだ、茶色のボブカットの女の子が立っていた。
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